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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

You Do It All The Time

 星たちが朝の光に飲み込まれていく瞬間を見上げながら帰路に就く。昼間は車の多いこの通りに、今は自分の足音だけが響いている。痩せた猫が正面から歩いてくるが、瞳孔の開き方がまだ中途半端だ。風がキンモクセイの香りを運ぶ。

 今日の俺は何だか調子が良い。ひょっとしたら一か月ぶりに良い曲ができるかもしれない。今の景色を、この感情を、最高のメロディと歌詞に変えるのだ。人生で何度も音楽に救われてきた俺が、今度はこの曲で人々の心を救うのだ。俺が音楽をやっている意味がそこにある。

 既に生まれつつあるメロディを頭の中で鳴らしつつ、早歩きでアパートに向かう。リズムを取るようにして階段を昇り、廊下を駆け抜ける。興奮で熱くなった手の平でドアノブを握り、扉を開けた。


「いやー。Yukaさんマジで女神。俺ホント才能ないからさ、援助していただけると本当に……え? メルるんさん、俺には才能あるって? はあ、みんな優しすぎるよマジで。泣けてくるわ」


 部屋の真ん中で寝転がりながらスマホに向かってベラベラ喋っている小崎を、玄関に立ったまま見下ろしていると、しばらくして奴はようやく俺の存在に気づき、体を起こした。


「ごめんね、ちょっと同居人が帰ってきちゃったんで。みんな、今日もありがとう。じゃあねー」


 10秒ほど画面に手を振ってから配信を切ると、スマホを床に置いた。ずっと黙っている俺に対し、小崎は俯いて自分の足の小指をいじりながら話しかけてきた。


「お前、今日帰ってくんの早くない?」


「早くねえよ。もう5時半だぞ」


「マジか、本当だ」


 時計を見て、何か重大な用事でもあったかのように勢いよく立ち上がった。が、そんな用事は存在しないことに気づいたのか、再びゆっくりと床に座って足の指を触り始めた。部屋中に蒙古タンメンの匂いが充満している。そして実際、蒙古タンメンの容器と汚れた割り箸がテーブルの上に転がっている。ハエの羽音が耳元で聞こえる。

 さっきまで自分の中に誕生しつつあった歌は死んだ。後でベランダに墓を立ててやらないといけない。『早朝の風景』の墓は、『月と猫』の墓と『こだまする虹』の墓の間がいいだろうか。俺は汚れた靴を脱ぎ、この不愉快な部屋に入った。


「お前、先月渡した新曲できるようになった?」


 そう聞くと、小崎は宙を見つめながら右手の甲で土踏まずを擦り始めた。こいつとバンドを組んでから5年、初めて会ったときからは10年になる。よく目にするその所作から既におおよその答えはわかっていたが、俺は小崎自身の口から出る言葉を待った。


「……歌詞は覚えた」


 やっと出てきたのはそんな言葉だった。宿題はやったけど忘れましたという小学生レベルの口ぶりだ。


「ライブじゃないんだから歌詞なんて見ながら歌えやいいんだよ。ギターだろうが、ギター!」


「でも、だって俺、お前の書く歌詞が割と好きだから」


「なるほどな。詞は"割と好き"だけど、曲はクソだから覚える価値もないと」


「いや、そういうつもりじゃ……」


「そういうつもりじゃないのはわかってるよ。けどな、お前が配信にうつつ抜かして練習しないせいで、その"割と好き"な歌詞も無駄になってんじゃん。俺さ、小崎のために歌詞書いてるんじゃないんだよ」


 小崎の頭がどんどん下がっていくのを見ていて、胸の奥がひりひりしてくる。俺はもともと人に怒るのが得意じゃないタイプの人間だ。だが、このくらい言わないとこいつは行動を改善しないどころか、自分のやっていることの何が悪いのかもわからないのだ。俺は、自分の右耳を触りながら言葉を続けた。


「今月中にEP完成させてSpotifyとEggsとYoutubeに出すって話だったろ。もう明日で9月終わるぞ」


「わかった。今日。今日頑張ってできるようにする。で、明日録音する。そしたら約束通りだろ?」


 こいつが一日で完璧に仕上げるなんて土台無理な話だ。先ほど配信で言っていた"才能がない"という言葉、本人としては自虐ネタのつもりだったのだろうが、俺からすれば真実以外の何ものでもない。才能がないくせに努力もしないこいつがたった一日練習したところで、良くて高校の軽音部レベルの演奏ほどにしかならないだろう。

 しかし、こちらを見上げる小崎のすがるような目に、無理やり高めた戦意を喪失させられ、これ以上責める気にはなれなかった。俺は耳から手を離し、溜息を二回、さらにもう一回ついてから言った。


「まあ、いいよそれなら。明日の16時に大学の練習室行って録音な。遅すぎると後輩たちに迷惑かかるから」


「オッケーオッケー。マジで頑張るから、俺」


 小崎はそう言ってデカいクッションの下からギターを引っぱり出し、無造作にジャカジャカと鳴らし始めた。急に元気づいた奴の様子を見て、やっぱりもっと精神的に追い詰めてやれば良かったと後悔しつつ、俺はバスケットに無造作に詰めてある部屋着とタオルを取って浴室に向かった。

 すると後ろから、ますます調子に乗ったような小崎の声が聞こえた。


「いやー、でもイケると思うんだよね。俺らはやっぱ才能があるじゃん。4年前のライブバトル大会で優勝して40万獲得したくらいなんだから」


 その言葉に対し、俺は残酷な真実を突きつけたい衝動に駆られながら、汚れた靴下を無言で脱いだ。



 コンビニの夜勤明けに入る風呂は最高に気持ちが良い。風呂を沸かしながら頭と体を洗い、ゴミ客とゴミ店長のせいで溜まったストレスごと排水溝に流す。一番好きなのは耳を洗うときだ。耳の中に水が入るのはあまり良くないと思いつつ、耳たぶを指で擦るとキュッキュと鳴るくらいまで洗うのが癖になっている。

 十分温かくなった湯船に浸かると、浴室の外から下手くそなギターの音色が微かに聴こえてきた。弦が鳴るたびに葡萄型の多幸感が一粒ずつ爆散していくような感じがする。俺は湯の中に頭を突っ込み、水の音しか聞こえない世界に逃避した。そして陰毛が海藻みたいに揺れているのを眺めながら、一体どうしてこうなってしまったのかと自問自答し始めた。



 小崎と俺は、同じ高校の同期生として出会った。三年間でクラスは一度も一緒にならなかったが、一年生のときから同じ軽音部に所属していた。

 あいつに関して強く記憶にあるのが、新入生歓迎会での出来事だ。自己紹介で好きなアーティストを言う流れになったとき、皆はだいたい流行りの邦ロックバンドを挙げていて、俺が本当に一番好きなのはエド・シーランとかエリック・クラプトンとかだったけど、何か英語の名前を出してイキってるとも思われたくなかったし、そこは空気を読んでブックオフか何かで聴いた日本のロックバンドの名前を挙げた。共感の頷きが波のようにうねるのを見て俺は、帰ったらYouTubeで聴いておこう、とか思っていた。

 そして、小崎の番になったとき。あいつは少し長い前髪から目を覗かせ、言った。


「シルヴェストレ・オンジェンダ」


 さっきまで和気あいあいとしていた部室内が一気に静かになった。少しして部長が、「何て?」と沈黙を破って聞き返すと、緊張から解放された皆はくすくすと笑った。しかし、小崎は無表情のまま繰り返した。


「シルヴェストレ・オンジェンダ。ポルトガルとフランスのハーフで、今はイギリスを拠点として活動しているギタリストです」


 そう言って足を組み替え、白い靴下のかかとの少し余った部分をいじり始めた。再び場が凍りつきかけたが、空気の読める部長が手を叩いて「さっ、次行こう!」と立て直してくれたので、小崎の"失言"などなかったかのように進行していった。

 しかし俺は、小崎の口にした名前を忘れないように、皆の自己紹介もろくに聞かず頭の中で「シルヴェストレ・オンジェンダ」と繰り返し呟いていた。シルヴェストレ・オンジェンダ。一体どんな演奏をするのか気になる。シルヴェストレ・オンジェンダ。フォークソング系か、それとも意外に激しめのロックか。シルヴェストレ・オンジェンダ……。

 気づいたら歓迎会の第一部は終わり、休憩時間になっていた。これからバンドを組むことになる新入生たちは、何としてでもメンバーを確保しようと周りの人に積極的に話しかけにいっている。俺はその輪から少し離れてスマホを取り出し、「シルヴェストレ・オンジェンダ」をGoogleで調べた。

 しかし、検索結果はゼロ。日本では全く知られていないアーティストなのだろうと、アルファベット入力に変えて色々なスペルを打ち込んで検索したが、それでも全然引っかからない。そもそも、ポルトガルとフランスにおける人名のつづりなんてわからないし、もう本人に聞いたほうが早いだろうと、俺は小崎を探した。すると、新入生用にお菓子やジュースが並べられたテーブルの前で、紙コップにペプシコーラを注いでいるあいつの姿が見えた。俺はその背中に近づき、声を掛けた。


「なあ、シルヴェストレ・オンジェンダってどういうスペル?」


「えっ」


 小崎は紙コップを手から落とした。白い床に黒い水たまりができ、しゅわしゅわ弾け出す。まずい、と思い咄嗟に周囲を見回したが、先輩たちも新入生たちもLINEを交換したりするのに夢中で全くこちらに気づいていない。俺はテーブルに置いてあったティッシュを大量に抜き取り、半分を小崎に差し出した。だが相手は呆然と突っ立っているだけで受け取ろうとしない。


「お前も拭くんだよ。早く!」


 小声でそう言って無理矢理ティッシュを手に握らせると、「ああ……」と呟いてようやく動き出した。俺は部員たちの様子を上目で窺いつつ床を拭いた。幸い、そこはカーペットなどが敷かれていない場所だったし、コーラもまだ注ぎ途中だったから量が少なく、誰にもバレないまま全部拭き取ることができた。濡れたティッシュをさらに大量のティッシュで包み、立ち上がろうとすると、目の前の白い靴下に黒い染みが三つほど付いているのが見えた。


「靴下汚れてるよ」


 そう言いつつ、俺は床掃除の続きをするような感じで、ティッシュの塊を靴下の汚れに押し付けた。染み抜きの要領でポンポンやっているうちに、何で俺は他人の足を拭いてやってるんだ、と不意に違和感をおぼえて嫌になり始めた。だが一度始めてしまったので今更放り出せずそのまま続けたが、しかしコーラの染みはなかなか落ちない。段々と苛々してきた頃、俺の頭上で声がした。


「いないんだよ」


 何の脈絡もなく発されたその言葉に、「何が?」と聞き返しつつ見上げると、小崎が顔を真っ赤にしていた。ずっとちょっと裏返っている声で奴は続けた。


「シルヴェストレ・オンジェンダ、いないんだよ。俺がその場で適当に作った名前」


 俺は思わず手を止めて立ち、相手の顔を正面から見た。説教を喰らっている最中の小学生みたいな表情に、何故か俺が悪いことをしてしまったような気分になる。


「何でそんなことしたの?」


 できるだけ柔和な口調を心掛けて真意を問うと、小崎はさらに俯いてこう答えた。


「俺、あんまり音楽聴かなくて、みんなが言ってるバンドとか全然わかんなくて。でも、何かちょっと難しそうな名前を言ったら興味持ってくれるかなって」


 あらゆることが衝撃的だった。まず、あまり音楽を聴かない奴が軽音部に入部しているということ。バンドを知らなければ他の人が言ったものを適当に繰り返せばいいものを、わざわざ架空の人物を創作して話したこと。それが人に興味を持ってもらう手段としてはどう考えても悪策すぎること。そして何より、そんなリスキーなことをしておいて、いざバレたらひどく落ち込んでいること。

 何というか、物凄い馬鹿だなこいつ、と思った。


「嘘ついてごめん」


「いや、別に責めてるわけじゃないけど……すごい度胸だなって思っただけで」


 若干の皮肉を込めてそう言うと、その「すごい」という言葉に反応したのか、急に顔が明るくなった。


「シルヴェストレ・オンジェンダのシルヴェストレっていうのはさ、ポルトガルのサッカー選手のシルヴェストレ・ヴァレラから取ったんだよ。で、オンジェンダはフランスのエルヴァン・オンジェンダ。この選手は俺と同じ6月24日生まれなんだよ。しかもあのメッシ、中村俊輔とも同じ。凄くね?」


 バンドやら楽器やらの話が飛び交う部室の中で、サッカー選手の蘊蓄を語ってガキみたいに目を輝かせる小崎に、早くどっか行けと俺は心の中でひたすら呟いていた。しかし、奴は新歓が終わるまでずっと俺の横から離れず、最終的には対戦型のサッカーゲームアプリをスマホにインストールさせられた。

 そんな印象的な出会いをした俺らだったが、高校で一緒にバンドを組むことは結局なかった。俺は翌日に教室で仲良くなったクラスメイトたちと四人でバンドを組み、ギターを担当することになった。主に流行りの邦ロックのコピバンとして活動し、校内で行われる定期ライブでは部内で一番か二番くらいの客入りがあった。

 一方、小崎はというと、いわゆる余り物の奴ら同士で組み、あいつはギターボーカル担当ということになっていた。あいつらの演奏は文化祭で一度だけ聴いたことがあるが、他のメンバーはともかく、小崎はギターもボーカルも初心者レベルでとても見ていられたものじゃない。そのとき、俺は当時付き合っていた弦楽部の彼女と一緒に見ていたのだが、サビに入った瞬間に俺の方を見て「無理」とだけ言った。俺は不協和音の響く体育館を後にしながら、一応スマホに残しておいていたサッカーゲームアプリをアンインストールした。

 まさか5年後にこいつとバンドを組むことになるとは、このときは全く想像していなかった。しかも、小崎がギターボーカルで、俺がドラムを担当することになるとは。



 水中から顔を出し、大きく息を吸った。音のない世界は最高だが、酸素もない世界だからいつまでもいられない。浴室の前に置いていたタオルを取って体を拭き、服を着てリビングに戻った。

 相変わらず部屋には不愉快な弦の音が響いている。布団を敷いて寝ようと思ったが、安いギターピックで脳をぺしぺし叩かれているような感じがし、とても眠れない。防音は割としっかりしているアパートだが、いつか苦情を入れられて部屋を追い出されないか不安になる。アルバイトしか収入がなく、たまにライブに出てもチケットノルマと交通費でむしろ損する底辺バンドマン。こんな男二人を入居させてくれるところなんて他にそうそう見つからない。

 俺は睡眠をとることを諦め、昼飯を買いに行くことにした。せっかく風呂に入ったのにまた外に出るのは億劫だが、このまま寝たら擬人化した弦に首を絞められる悪夢とかを見そうだ。服を着替えようとしたが、ちょうどいい服がない。まさかと思い、玄関脇に置いてあったランドリーバッグを開けると、脱いだ服でいっぱいになったままだった。俺がバイトに行っている間にコインランドリーで洗っておくよう小崎に頼んでおいたのに。忘れていたのか、忘れているフリをしているのか定かではないが、こんなことはしょっちゅうなのでもう怒る気にもなれない。


「お前の服どれか借りていい?」


 俺は、部屋着で外を歩くことができないタイプの人間だ。洗った服が入れてあるバスケットをかき回し、着られそうな小崎の服を探した。


「いいよー。あ! でもあれは着ないで、気に入ってるやつだから」


「知らねえよ。どれ?」


「ゲムゲゲンのシャツだよ」


 また架空の固有名詞を言ってきたのかと思ったが、カゴの底から適当に布を引っぱったら、64のコントローラーみたいな形の気持ち悪いキャラクターが全面にプリントされた薄いシャツが出てきた。


「そうそれ! 可愛いからあまり色落ちとかさせたくないんだよね」


 こんな服、誰が借りて着ようと思うのか。この趣味の悪い服は洗濯機から出し入れするときなどに何回か見たことがあるが、てっきりしまむらで300円に値下げしてあったやつを部屋着用に買ったのだと思っていた。俺は黙ってその服を再びカゴの底に埋め、ノーブランドのセットアップジャージを取り出して着た。朝のランニング用にすると言って買ってきたものの、一度もその用途通りに使われることなく普段着になったものだ。俺は洗濯物の詰まった重いバッグを手に持ち、外に出た。



 コインランドリーを出てスーパーへと向かう。夜勤帰りの俺にインスピレーションを与えてくれた町の景色は、今やすっかり平凡なものとなっている。前から、ベビーカーを押した女性が歩いてくる。俺自身には疚しいことなんて何もないけれど、平日の朝にジャージ姿で巨大なバッグを肩から下げて歩いている25歳の男として、相手に不安を与えてしまわないかって不安になり、つい手前にある角を曲がった。遠回りにはなるが、別に急いでいるわけでもない、むしろ今はできるだけ帰宅を遅くしたいくらいだ。惨めな気持ちを押し込めながら、見たことないくらい細い道を歩いた。

 スーパーに入り、少し汗ばんだ体を冷房で乾かす。店内での動きはもう大体決まっている。まずは野菜コーナーでキャベツの値段をチェック。今日はちょっと高いので次の買い出しのときを待つことにする。次に大豆製品売り場で安くなっている納豆を手に取る。卵も当然一番安いものを選ぶ。あと確か、醤油がもうほとんどなかったので1リットルのボトルを手に取る。そしてそのままレジに直進だ。あまり他の売り場を見ると購買欲求が湧いてきてしまうので長居はしない。レジにカゴを置くとき、エコバッグを忘れたことに気づいたが、しかし空のランドリーバッグはある。汚れた服を入れていたものだと思うと気分はかなり悪いが、数円でも無駄に使うのは嫌だったのでレジ袋はもらわず、作荷台でロール状になっている薄い袋を四枚取り、卵と納豆を二重に包んでからバッグに入れた。醤油は手に抱えていくことにした。

 卵が左右にスライドしないよう、できるだけ地面に対して平行に保った状態でバッグを抱えていると、再び惨めな感情がふつふつと湧いてきた。俺は家賃、生活費、ライブのノルマや交通費を稼ぐために週6で働いている。3日はコンビニの夜勤バイト、3日はレストランで調理の夜勤バイトだ。完全に昼夜逆転しているが、ライブも夜が多いし、あと日中を自由な時間にしておけば、こうして買い出しに行ったりしやすい。一方で小崎はというと、カラオケ店で週3しか働いていない。三年前、同居を始めたての頃はまだ居酒屋で週5で働いていたのだが、遅刻が続いたせいで半年で辞めさせられ、次のコールセンターのバイトもろくに続かなかった。もうこうなったら常に監視下に置くしかないと思い、俺の当時のバイト先だったファミレスの店長に頼んであいつを雇ってもらったこともあったが、就業二日目にして客とトラブルを起こし、責任を取らされて俺まで辞めさせられる羽目になった。ろくに家事もしなければ、働けもしない。小崎は、バンドメンバーとしてのみならず、ルームシェアの相手としても最悪の人間だ。

 しかし。俺が甘すぎるのだろうか、どうしても小崎を心の底から嫌いになることはできないのだ。俺はすっかり汚れて底の薄くなった灰色の靴を見下ろしながら、二年前のことを思い出した。



 あれはライブの日のことだった。会場の最寄り駅に着いたが、出番までまだ時間のあった俺たちは荷物だけ楽屋に置いて、周辺にあった古着屋を見に行っていた。しかし、サイズの合わない貰い物の服が唯一のライブ衣装である俺たちに、お洒落な古着を買う金銭的余裕などあるはずもない。格好からして冷やかしの客なのは丸出しだったが、俺は虚勢を張ってこんなことを口にした。


「なあ、先に靴見に行かない? 靴に合わせて服選ぼうぜ」


 小崎は「うん」と言って、被っていた赤いキャップを棚に戻した。


「やっぱり、白いスニーカーが欲しいよな。何にでも合うし」


 俺は知ったかぶってそんなことを言いながら、店の扉を開けた。すると、ちょうど店に入ろうとしていた常連らしい背の高い男が、明らかに俺らのことを見て鼻で笑った。それは、俺たちの格好に対して笑ったに違いないのだが、何だかさっきの虚勢が見破られたかのように感じ、我ながら自分がダサすぎて泣きそうになりながら店を出た。そして誰にもこのダサい自分を見られぬよう、できるだけ早足で会場の方へ向かった。小崎がずっと何か話しかけてきていたが、その言葉は一切耳に入ってこなかった。

 ライブ会場に辿り着き、逃げ込むようにその建物に入ろうとすると、小崎が後ろから服の襟を掴んできた。ただでさえ襟周りがキツいのに殺す気かと、ぶん殴るつもりで振り向くと、あいつは言った。


「靴、見に行かないの?」


 一瞬、何のことを言っているのか訳がわからなかった。だが、その言葉の意味を理解すると、ぶん殴るどころか全身から力が抜けていくのを感じた。小崎は、あれがハッタリであることに気づいていなかったのだ。


「馬鹿。そんな金あるわけねえだろ」


 呆れ果ててそう吐き捨て、楽屋へと続く細い階段を下りていった。まだ意味を理解していない小崎のクエスチョンマークが背中にめり込んでくるようだったが、それに答えを与えることはしなかった。

 この最悪な感情をせめてライブで挽回できれば最高だったのだが、勿論はそうはいかなかった。小崎の演奏が駄目なのはいつも通りとして、俺もあまり良いパフォーマンスを発揮できなかった。帰宅後、小崎がいびきをかいて寝ている間に俺は家を出て居酒屋に行き、一人で酒を飲んだ。もし今年中に何か転機となるような出来事が起きなければもうバンド辞めようかな、とか色々考えながら。

 それから一週間後のことだった。夜勤終わりでクタクタになった状態で部屋の扉を開けると、いきなり丸めたティッシュが飛んできて、俺の腹にぶつかった。


「おめでとうございます!」


 ただでさえ眠くて怠いのに、こんな意味不明なのに構っていられるかと、無視して風呂に直行しようとすると、小崎は慌てた様子で立ち上がり、少し大きめの、無地の茶色い紙袋を俺の目の前に掲げた。


「何これ」


「誕プレ!」


 小崎は絵文字みたいな笑顔を浮かべて言った。しかし、不可解な点が一つあった。


「俺の誕生日、三か月前に終わってんだけど……」


「まあね。でも、めでたいことには変わりねえじゃん。人が死んだときだって、死んでからしばらく経った後でもご愁傷様ですって言うし」


 言っていることは支離滅裂だったが、とりあえず袋を開けてみた。すると中には、見たことのない形状をした白い靴が入っていた。言葉で表現するとすれば、ナースシューズとデッキシューズの中間みたいな形だ。これは、何という種類の靴なんだろう。その質問を口にしようとしたとき、小崎が言った。


「白いスニーカー。お前、欲しいって言ってただろ?」


 その瞬間に俺は、こいつともう少しだけ頑張ってみようと決心した。だって、こんなにダサい奴がこの世に存在するのだから、俺のダサさなんて全然大したものではない。仮にダサいことをやらかしたとしても、小崎を横に置いておきさえすればそんなのは全く問題にならない。つまりこいつには、俺の引き立て役として利用する価値が十分にあると思ったのだ。

 しかしまあ、それと同時に、普通に嬉しかったのも事実だ。欲しかったものではないし、そもそも白いスニーカーも欲しかったわけではないけれど、小崎は金も知識も無いなりに選んで買ってくれたのだろうと思うと少し胸が熱くなった。たいして質の良くない靴だから、二年しか履いていないのに二十年履いたのかってくらいボロボロになっているが、俺は今この瞬間もそれを履き続けている。

 そういう訳で、あいつは才能もないし努力もしないし働きもしないクズだけど、どうも憎めないのだ。過去のことを思い出してちょっとだけ感傷に浸りつつアパートの階段を昇り、部屋の扉を開けた。すると、部屋の隅に放りだされギターと、スマホに向かって喋りかけている小崎が目に入った。


「そうなんですよYukaさん、俺……あっ! ちょっ、すいません、また後で」


 前言撤回。俺はこいつが憎くて仕方ない。この世で最も、そして唯一、ぶっこ○してやりたい人間だ。


「今の何」


「……電話」


「誰と」


「……バ、バイト先、の人」


 小崎は右手の甲で土踏まずを擦り始める。俺は自分のスマホで小崎の配信者用のアカウントを開くと、配信記録のところに、「1分前に配信終了」と表示されていた。

 これ以上口を利きたくないし顔も見たくないと思い、そのまま一度家を出た。が、アパートの外廊下を歩いている途中で卵や納豆の入ったバッグを持っていることを思い出し、舌打ちして戻った。


「ごめんって」


 部屋に入ってくる俺にそう話しかけてきたが、俺は無視して冷蔵庫に卵と納豆を詰める。大して飲みもしないくせに小崎が買っているドクター・ペッパーのせいでなかなか入らず、ますます苛ついてきた。


「ちょっと息抜きにやってただけだよ、マジで」

 

 その言い訳をかき消すように冷蔵庫の扉を勢いよく閉め、ドラムスティックなどの入ったショルダーバッグを掴んで部屋を出た。

 俺は、最も重要な事実を忘れていた。悪意のないクズが一番、タチが悪いという事実を。



 自転車で行こうかと思ったが、この精神状態で運転したら事故を起こしかねないのと、少しでも仮眠を取りたかったので電車に乗ることにした。通勤ラッシュを過ぎた車内は割と余裕があり、座席に座ることができた。女子大生とみられる隣の二人が、好きなロックバンドのライブに行くという話をしているのを盗み聞きしながら、少しの間眠りに落ちた。

 目の前に、コーラの海がある。俺は妙にダサい水着に着替え、その甘い液体の中に飛び込んだ。クロールで泳いだり背中でぷかぷか浮いたり、楽しく波と戯れていたのだが、急に空が暗くなった。気づくとかなり沖の方まで来てしまっていて、俺は急いで浜辺に戻ろうとした。しかしいくら泳いでも砂浜は近くならず、むしろどんどん遠ざかっていく。急に背後から大きな水の音がして、振り向くと巨大なサメがこちらに牙を見せていた。逃げようとしたがサメには足が生えており、水面を素早く走って俺のもとに近づいてくる。そして遂に、鋭い牙を俺の脛に突き立てた。案外そこまで痛くはなかったが、泳ぐのに邪魔だし不快なので振り払おうと身をよじるけれど、一向に離れない。よく見るとサメの背中には六本の弦が張ってあり、試しに少し鳴らしてみると、鉄同士が擦れるような耳障りな音がした。

 目を覚ますと、電車がブレーキをかけて駅に止まるところだった。ドアが開くと同時に、俺が降りるべき駅名がアナウンスされ、慌てて席を立ってホームに出た。隣の車両からは大学生らしき雰囲気の集団が降りてくる。彼らが談笑しながら楽しげに歩いていく道を、後ろから汚い靴で辿っていった。

 様々なサークルの部室が並ぶ、7号館B棟地下1階の廊下を、まるで現役大学生のような面をして歩く。ジャズ同好会、マンドリンサークル、ゴスペルサークル、ハーモニカ愛好会、インド古典パーカッション研究会、そして、軽音楽同好会。音符のシールがベタベタ貼ってあるドアノブを握ったとき、佐々木さんに連絡を入れ忘れたことに気づいたが、イチかバチかで扉を開けた。すると部室にはたった一人、佐々木さんだけが座っていた。


「ああ……お疲れ様です」


 佐々木さんは苦笑を微かに浮かべ、小さく頭を下げた。その表情と動きに、衝動にまかせてここに来てしまったことを強く後悔したが、しかし今更引き返しても仕方ないので、俺は右耳を触りながらできるだけ明るい声で話し始めた。


「お疲れ。今、練習室空いてる?」


「ええ、まあ。今日は一日中、ウチの部が予約してます。部員は、今は誰も使ってないと思いますよ。今は二限が始まったところなんで、昼休みになったら多分何人か来ると思います」


「じゃあ一時間くらい使わせてもらうわ。あと、EP用にレコーディングするから明日も16時から使わせて」


 3年前の佐々木さんから考えられないほどの冷たい目を向けられながら、部室を後にした。佐々木さんは俺が大学4年生だったときに、1年生としてサークルに入部した後輩だ。恋愛経験がゼロではない身として言わせてもらうと、彼女は当時、俺に対して好意を抱いていた。卒業後、OBを交えた飲み会でミュージシャンを目指していることを彼女に伝えると、佐々木さんは「私、来年は会長になる予定なんでウチの練習室使いに来ていいですよ。顧問に鉢合わせないよう、来るときは連絡してください」と言ってLINEのQRコードを差し出した。要するに、卒業後も俺と会うための作戦なのだ。俺は彼女の好意を利用する形で、タダで練習できる場所を手に入れることとなった。

 しかし、俺がバンドではギターではなくドラムを叩いていることがバレると、佐々木さんはわかりやすく失望した。彼女が好きだったのは生身の俺というより、ギタリストとしての俺だったのだ。それでも心優しい彼女は、あからさまに迷惑がりつつも俺に練習場所を提供し続けてくれている。だが、今年度で彼女は卒業する。会長の座も既に降りて、今は引き継ぎにあたっているはずだ。直属の後輩がサークルにいなくなってしまったら流石に、練習室を勝手に使う奴なんて迷惑OBどころか、クソ老害と化すだろう。何とか来年度までにどこか丁度良い練習場所を見つけなければならない。

 練習室の扉を開ける。グランドピアノや電子オルガンなどの楽器が並んでいて、一番奥にドラムが置いてある。その上にかぶせてあった布を外し、ドラムスローンとかって呼ばれるちっちゃい椅子に座って、鞄からスティックを取り出した。DTMで作ったデモ音源を再生し、ワイヤレスイヤホンで聴きながら練習する。俺はギターの方が長くやっていたし好きだけど、こういう気分のときはドラムを叩くのが一番良い。無我の境地とはこのことなのではなかろうかというくらい、我を忘れてリズムに没頭できる。

 気づくと一時間ほどぶっ続けで練習していた。ジャージの上を脱ぎ、団扇代わりにして汗だくの上半身をあおぐ。そうしながらふと借り物の服であったことを思い出したが、まあ良いかと再びそのジャージに袖を通して練習室を出た。

 一時間前よりかはかなり爽快な気分で廊下を歩いていたら、視界にさっきからずっと同じ色の張り紙が入ってきているのにふと気がついた。立ち止まってその中の一つを見ると、こんなことが書いてあった。


『学園祭のステージで魅力的なパフォーマンスを披露してくれる方を募集中! 歌、演奏、ダンス、お笑い、手品、スピーチ……などなど、ジャンルは問いません。未来のスター、ここに集まれ!』


 俺が在学していた頃とほとんど変わらないその文面は、小崎と再会した三年生の学園祭のときのことを思い出させた。



 当時、俺は軽音楽同好会の副会長だった。自分で言うのも何だがギターの演奏技術はサークル内で一番だったし、そこそこ人望もあったため会長に推されていたが、面倒だから断った。いや、面倒というのは理由の半分で、あとの半分は、技術は高いのに目立とうとしないみたいなキャラが一番かっこいいと思っていたからだ。実際、当時の俺は周囲から見てもイケてたと思うし、佐々木さんもそういう俺を好きになったはずだ。

 そして、当時の俺は今の俺とは違い、練習室にもほとんど出入りしていなかった。ライブの直前のリハーサルにふらっと現れて完璧に演奏し、本番では誰よりも上手くギターを弾く。そんな風にして天才肌を気取っていたわけだ。とはいえ裏では、実家の押し入れに籠って猛練習していたのだが。

 自分の才能をもっと周囲に知らしめたいと思っていた俺は、学園祭の一か月前になって例の張り紙を目にした。それを見た瞬間に、俺が壇上で弾き語りをしている姿が頭の中に明確に浮かび、すぐに主催者に連絡した。例えば、例えばだけど、この大学への受験を考えている高校生女子が友達と一緒にステージを観に来て、そこで俺の演奏を聴いてファンになって、帰りにスタバでなんちゃらフラペチーノを啜りながら「あの人マジかっこよかったよねー」とか感想を言い合う、みたいな。本当に例えばだけど、そういうこともあったりするのではないか、などと考えながら俺は連日ギターの練習をした。押し入れの中で、汗だくになって。

 そして学園祭当日。講堂のステージに上がって聴衆を見渡すと、ほとんどが発表者の身内らしき大学生ばかりで、佐々木さんの姿もあった。高校の制服を着た女子などは一人もおらず、少しがっかりしたが、まあでも演奏すること自体が好きなんだし別に良いじゃないかと自分に言い聞かせ、俺はループペダルを使ってアコースティックギターを鳴らし、エド・シーランになりきって歌った。曲のタイトルは『満月に眠る猫』。実家の近くに住みついている野良猫をモチーフにした歌だ。

 客の反応はまあ、なかなかだった。他人の身内ばかりでアウェイな空間にしてはよくやった方だと思う。ステージを下りて講堂を出ると、佐々木さんが外で待っていた。「お疲れさまでした。すごい良かったです」そう言いながらペットボトルの麦茶を差し出され、俺はまるでマネージャー付の本物のアーティストになったような気分で「ありがとう」と言いそれを受け取った。

 麦茶を飲んでいると、後ろかか俺の名前を呼ぶ男の声がした。聞き覚えのある声のような気がして、ペットボトルに口をつけたまま振り向くと、小崎が高校生のときと全く変わらない姿でそこに立っていた。俺は口からお茶を噴いてしまった。


「久しぶり。あれお前、なんかイケメンになった?」


 口周りがビチョビチョになった俺と、服に思い切り麦茶がぶっかかっているのに何一つリアクションをとらない男に、常識人の佐々木さんが「大丈夫ですか」と狼狽えている。アーティスト気分が一気に台無しだ。


「小崎、何でここにいんだよ」


「何でって、お前の演奏を聴きにきてたんだよ。ツイッターで告知してんの見たから。凄かったなギター。歌詞も面白くて割と好きだったよ」


 小崎が客席にいたとは全然気づかなかった。正直、男の顔は全く識別していなかったのだ。それに小崎とは高校を卒業してからこのときまで、関わりを持った記憶は一切ない。


「え、お前、ウチの在校生じゃないよな。今どこの大学行ってんの?」


「大学? ああ、それは半年前に中退した。カメラマンになるための専門学校に行ってたんだけど、写真って撮るために色んな場所に行かないといけなくて。マジですげぇ大変なんだよ、お前知ってた?」


 変わっていないのは姿だけではない、精神年齢が一秒たりとも成長していなかった。間抜けなことを間抜けな声で喋りながらずっと俺の顔を見ていた小崎は、不意にその視線を一瞬だけ横に滑らせた。そして、ぱちぱちと瞬きをしながら聞いてきた。


「彼女?」


 隣にいた佐々木さんの顔が、見なくてもわかるくらい真っ赤になった。


「いえ、あの私、違います」


「あっ、え、そうなんですか。彼女っぽいから彼女かと思ってしまいました。ごっ、ごめんなさい」


 なぜか小崎まで顔を赤くする。気まずい沈黙が流れる。


「えっと、すみません。失礼します」


 空気に耐えかねた彼女はその場から離脱した。早歩きで去っていく佐々木さんの後ろ姿をずっと目で追っている小崎の、変なロゴの入った黒いTシャツの裾から麦茶が滴っているのを俺は眺めていた。

 すると急に小崎が俺の方に向き直って言った。


「バンド組まない?」


 あまりにも唐突な提案に、かえって驚くことすらできなかった。俺はギターケースを反対の肩にかけ直してから尋ねた。


「え、何。お前、今なんか音楽活動してるってこと?」


「まだしてない。これからお前と始めるところ」


 今思えばこれは小崎がよくするバカな言葉遣いに過ぎないのだが、そのときの俺は、この言い回しに何だか妙にグッときてしまった。その瞬間、小崎と高校で出会ったときにサッカー選手の話ばかりしてきたとか、専門大学を中退したとか、他大学の学園祭に俺の演奏をわざわざ聴きに来たとか、そういう話をTOKYO FMのラジオブースで喋っている画が頭の中に浮かんだ。これは運命だ。と、俺は思った。

 まあ、それは運命の予感などではなく危険信号だったのだけど、まだ二十歳を過ぎたばかりの俺にはそれらを区別する判断力がなかったのだ。


「いいよ。組もう」


 そう言って、それっぽく握手をしようと手を前に出した。小崎は顔に満面の笑みを浮かべ、そして手をこちらに差し出そうとしたときだった。ふと何か怪訝な表情をし、袖のあたりに目を向けたと思うと、大声で叫んだ。


「なんか俺の服濡れてんだけど!」


 周りの人たちが一斉にこちらを向いた。俺は出した手をひっこめたい衝動に駆られたが、男に二言はあるまいと意地を張り、撤回はしなかった。

 しかし、結成が決まった後で、小崎は驚くべきことを言ってきた。小崎がギターボーカルを担当するというのだ。そして、俺にはドラムをやってもらいたいという。例の弾き語りを聴いて俺との結成を決めたはずなのに、その俺にギターをやらせないのはおかしいし、百歩譲ってギターをやらなかったとしてもせめて担当は弦楽器、ベースだろうと思い、それを言った。だがあいつの理屈では、ツーピースバンドならギターボーカルとドラムは固定じゃないといけないらしい。ドラムを担当してくれるサポートメンバーを探したらとか、リズムマシンを使ったらとか、色々提案したが聞く耳を持たず、結局こちらが折れる形になった。

 打楽器なんて小学校の授業でカスタネットを叩いたとき以来だったが、一か月も練習すれば簡単な曲くらいは演奏できるようになった。自分で言うのも変だが、俺は音楽に関しては結構センスがある。しかし小崎はというと、ギターもボーカルも高校の頃からちょっとマシになったくらいで、いくら練習してもそれ以上の進歩は望めそうになかった。最初のうちは俺がギターを教えたりもしていたが、間違いを指摘すると不機嫌になるのでそれもできなくなった。周りの人たちからは、なぜ小崎のような奴がギターボーカルで俺がドラムなのかという疑問を何度もぶつけられたが、そんなのは俺だって聞きたいくらいだ。そして、ドラムの練習を言い訳にまともに就活もしなかった俺は、そのまま卒業して小崎とルームシェアを始め、たまにライブに出させてもらったりしながら、実質ただのフリーターみたいな生活をしている。こんなバンドに入りたい奴なんているわけもなく、メンバーは結成当初から一度も変わっていない。

 小崎のやっているあのゴミみたいな配信は、半年前にあいつが「練習風景を人に見てもらったほうがやる気出そう」と言い出して始めたものだった。確かに、練習に対するモチベーションが上がるに越したことはないし、人前に出ると緊張して喋れなくなる癖も改善されるかもしれないと思い、いいんじゃない、と俺は背中を押した。だが日が経つにつれて、配信中にギターを触る時間が減っていき、最近はもはや練習どころか音楽の話も一切せず、三人の女性リスナーにただ甘やかしてもらうだけの配信になっている。平日の深夜と早朝だけ配信を観に来る派遣社員のメルるんさん。土日だけ観に来る学生のはっぱちゃんさん。曜日時間帯関係なく、いつどんな時でも観に来る主婦のYukaさん。たまに投げ銭もしてくるこの三人が、あいつをますます駄目人間にしていているのだ。

 いや、悪いのは優しいリスナーの方々ではなく小崎だ。ここのところ俺はずっと、あの日のことを思い出して後悔している。あの日、小崎が「なんか俺の服濡れてんだけど!」と叫んだ瞬間に、俺は差し出していた手であいつの頬を思い切りひっぱたけばよかった、と。



 大学を出てアパートの最寄り駅に着いた俺は、コインランドリーの椅子に座って時間を潰していた。あいつのいる部屋に帰りたくない。が、夜勤とドラムの練習と小崎に腹を立てるのとで流石に疲れたし、布団で眠りたいという欲求もある。ネカフェに泊まることも一瞬だけ考えたが、そんなことで金を遣いたくないし、あいつとはどうせ明日の録音のときに嫌でも顔をあわせないといけない。スマホで配信サイトを開き、小崎のアカウントページを見たが、あれから配信はやっていないらしい。俺は洗濯機から服を取り出し、ショルダーバッグの中に入れてあったエコバッグに詰めた。そしてワイヤレスイヤホンを耳にぐっと押し込み、ジミヘンの曲を大音量で流しながら帰路についた。

 "Purple Haze"を聴きながら部屋に入り、バッグの中の服を浴室の前にあるカゴにぶち込んだ。小崎の弾くギターの音も、奴が俺に話しかける声も一切聴こえない。'Scuse me while I kiss the sky。その歌詞を脳内でハモりながら部屋着に着替え、布団に横になった。



 不愉快な弦の音で目が覚めた。寝ている間にイヤホンの電池が切れていたようだ。スマホで時間を確認すると、もう夕方になっている。飯作って食べるか、と起き上がると、玄関のチャイムが鳴った。目をこすりながら向かっていくと、小崎がその横を勢いよく駆け抜けた。


「俺が出る!」


 そう言って扉を開け、宅配便の人から何やら荷物を受け取っていた。Amazonの箱だった。米の定期便は一昨日届いたし、他に何か注文したおぼえはない。小崎が玄関の前に座り込んで箱を開けるのを立ったまま見ていると、中からギターの弦が出てきた。


「何それ。買ったの?」


 俺の半分しか働いてないくせに、と心の中で付け加える。すると小崎は俺の方を見上げて言った。


「凄くね、Yukaさんが送ってくれたんだよ。弦をそろそろ替えたいっていったから」


「は? リスナーに住所教えたってこと?」


「違う違う。Amazonのほしいものリストってやつがあって、それを使うとお互いに住所バレずに荷物を送ってもらえるようになってんだよ」


 弦を張り替えたところで小崎の演奏が良くなるとも思えないが、確かにそろそろ張り替え時ではあった。女性リスナーに物をプレゼントさせるとか本当に終わってんなと思いつつも、まあ音楽関係の物ではあるし、明日の録音のことも考えて有難く使わせてもらうのも悪くないか、と説教モードはオフにしておいた。

 俺は台所へ行き、冷蔵庫から卵などを取り出して、キャベツのごま油炒め納豆卵かけ醤油ご飯という最強のオリジナルメニューを作ろうと腕をまくった。すると小崎がギターと新しい弦を持ってこっちに近づいてきた。


「弦、張り替えてくんね?」


 ガスコンロで前髪を燃やしてやろうかと思ったが、ぐっと堪えて「飯作ったらな」と言った。あからさまに不満げな顔をして戻っていくその背中に向かって、卵を握った手を振りかぶったが、部屋が汚れるのでやめておいた。



 次の日の夕方、俺らはレコーディングのために大学へと向かった。電車は少し混んでいて、自分のドラム一式を入れたキャリーバッグと巨大なリュックサックを携えて乗車すると、当然ながらかなり嫌な視線を感じ、できるだけ車内の奥の方で体を小さくしていた。電車が揺れる度、小崎のギターケースが肩にぶつかるのが非常に不愉快だったが、ここで怒鳴るわけにもいかないので我慢した。

 佐々木さんに送ったメッセージが既読無視されているのを確認してから、練習室に入った。今は16時10分。四限目が終わるのが17時15分だから、一時間以内にレコーディングを終わらせてここを出なければならない。EPに入れる曲は4曲のうち、今回は2曲を録音する。編集は家でやるとして、一曲の演奏にかかる時間は約5分。一発録りでそれぞれ3テイクは録っておきたいので、かなり時間を詰めても最低30分はかかる。残りは準備や片付けの時間だ。俺は家から持ってきたドラムを迅速かつ丁寧に組み立てて、録音機材をセットした。ドラムの周りに置くマイクの本数や位置が果たしてこれで良いのかどうかわからないが、とりあえずやってみるしかない。練習もリハーサルもせず、録音を始めた。

 どちらの曲でも小崎が完全にミスっている部分があったため、実質2テイクしか録れなかったがとりあえず時間内にレコーディングを終え、撤収作業も済ませられた。練習室を出ようと扉を開けると、ちょうど見知らぬ学生と鉢合わせて驚かれたが、適当にはにかんで誤魔化した。スタジオを余裕で何時間も借りられるくらい金があれば、と切実に思った。

 家に帰ってから、二人で録音を聴き直した。小崎のボーカルは、まあ決して上手くはないけど、オリジナリティもあるし聴けないことはない。が、演奏している最中に既にわかっていたことだが、ギターが本当に酷い。優れたギター奏者というのは、荒々しさと繊細さを兼ね備えた演奏をしたりするが、小崎の場合、雑さとショボさを兼ね備えている。聴いていて頭痛が止まらず、どこをどう編集したらいいかと頭を抱えている横で小崎が言った。


「なんか録音するとさ、完成された曲って感じするよな。かっけぇー」


 ますます頭が痛くなる。どこかの引き出しに頭痛薬が入っていなかったかと思い立ち上がると、再び呑気な声で言った。


「やっぱり俺らには才能があるよな。一晩で40万稼げるくらいだし」


 思わずまた残酷な真実を口から吐き出しそうになった。が、その言葉は飲み込んで薬を探す。台所の引き出しにはなく、バッグの中にもなく、あとはあるとすればここだろうと、小崎の使われていない本棚の土台になっている小物入れの引き出しを開けた。一段目、残高がじわじわと減っている通帳。二段目、一年前に音楽事務所に送ったが突き返されたデモテープ。三段目、俺の両親から届いた三年分の年賀状。全くもって見たくないものばかりが出てくる。そして最後に一番下、四段目の引き出しを開けると、少し厚みのある「賞金」と書かれたのし袋が入っていた。背後から小崎が話しかけてきた。


「その40万を使える日が来るの、俺すげー楽しみにしてるんだ。メジャーデビューした日にさ、一晩でパーッと使っちゃおうな」


 結局、頭痛薬は見つからなかった。これ以上症状が悪化しないよう、昨日の残り物であるキャベツのごま油炒め納豆卵かけ醤油ご飯をタッパーに詰め、家を出て近所の公園でかきこんでからバイト先のレストランに向かった。



 家で作る飯とは全く違う、豪華なフレンチの下ごしらえをしながら俺は考えていた。録音した曲には編集でベースを打ち込むが、小崎のギター部分も打ち込みに差し替えてしまうというのはどうだろう。耳も良くない小崎は勝手に変えてもどうせ気づかないだろう。ボーカルはどうしようもないが、これを機にボーカロイドとかも使えるように色々勉強してみるのもいいかもしれない。そうすれば、小崎の演奏技術や歌唱力も気にせず好きな表現ができるようになって、そして有名な歌い手が俺の作った曲の歌ってみたを投稿してYoutubeで数百万回再生されて、朝の情報番組のトレンド紹介的なコーナーで取り上げられて、俺はボカロPとして注目されて、広告収入で一生食っていけるようになるかもしれない。

 そんな妄想に夢中になっていたら、キンメダイの鱗を取り除いているときに指の皮を少し切ってしまった。傷口を洗っているとすぐに料理長に見つかり、こっぴどく叱られた。衛生的によくないというので調理器具などを洗う係にまわったが、洗剤やら何やらが絆創膏の内側の傷口にひたすら染みて、なにがおめで鯛だよ畜生、と口の中で呟きながら一晩中洗い物をしていた。

 最悪の気分で帰宅すると、ポストにAmazonの茶色い封筒が入っていた。宛名は、小崎の配信者用のハンドルネームになっている。部屋に入る前に開けて中を見ると、鎖みたいな形をしたシルバーのブレスレットが入っていた。

 扉を開けると、小崎はいつものように機嫌よくスマホに話しかけていた。が、部屋に入ってきた俺の手に持っている物を見て、さっと顔を青くした。


「あの、すいません。同居人が帰ってきたんで、また」


 画面に手も振らずに配信を切ると、手元にあったカップヌードルの空き容器を俺に向かって投げつけてきた。


「勝手に開けんなよ!」


「何なんだよこれ。誰に買ってもらったんだ?」


 小崎は、苛立たしげに拳で自分の足の裏を叩きながら、ぶつぶつと喋り出した。


「それも俺のリスナーの、Yukaさんが送ってくれたやつだよ。ライブのときにつけられるアクセサリーとか欲しいなって話してたから」


 そのダサい銀色のブレスレットを部屋の中に放り投げると、小崎は慌てて手を伸ばして床に落ちる前にキャッチした。俺は玄関のタイルに転がった容器を拾い、その中にAmazonの封筒をぐしゃぐしゃに押し込みながら言った。


「なあ小崎。知らない女に貢がせんのやめろよ。底辺バンドマンのくせにみっともねえぞ」


「てっ、底辺バンドマンとか、お前がそんなこと言うのかよ。よく言えたな、自分たちのことだろ。て、底辺なんて、よく……」


 動揺してしどろもどろになる小崎を見下ろして、俺は自分の右耳をつねりながら追い打ちをかけた。


「実際そうだろ。俺らに何の実績があるっつーんだよ、言ってみろよ」


「実績? 実績ならあるよ。ここに入ってる40万がその証拠じゃねえか」


 小崎は本棚の下にある引き出しから、例の賞金の入ったのし袋を取り出して見せつけてきた。俺は、今すぐにでも真実を突きつけてやりたい気持ちで一杯だったが、深呼吸をして何とか冷静さを取り戻した。そして、できるだけ冷たい口調で喋った。


「4年前のだろそれ。あれから俺たちは何を成し遂げた? ライブの主催者にツイッターで悪口言われたりとか? 楽屋に置いておいたギターの弦を誰かに切られたりとか? お前が歌詞飛ばして舞台上から逃げ出したりとか? で、俺がお客さんと主催者に土下座したりとか?」


 怒りに満ちていたその目から好戦的な光が消えていくが、俺は耳たぶを引っ張ったまま容赦なく言葉を続ける。


「俺らのバンドマンとしての5年間ってそんなんばっかじゃねえか。40万? そんなんとっくに自腹で払ったチケットノルマで消えてるわ。稼いだ額より多くの金を失って、感動より多くのヘイトを生み出して、それでミュージシャンって、バカじゃねえの。いい加減に目を覚ませよ」


 自分で言いながら、自分の心が深くえぐられていくのを感じた。小崎は俯き、両足のかかとを手の平で撫でている。組んだ足の内側に置いてある銀のブレスレットが、動くその手の色を映している。死にかけのヒグラシの声が外から聞こえる。

 その状態のまま、どれくらいの時間が経っただろう。気が遠くなり始めた頃、急に小崎が自分の膝をぱしんと叩き、立ち上がった。


「バイト、行ってくる。荷物届いても開けんなよ」


 そう言ってリュックを背負い、部屋を出ていった。まだ荷物来るのかよふざけんな、と思っていると、早速チャイムが鳴り、ドアを開けると宅配便の人が大きな箱を持って立っていた。受け取った箱を部屋の隅にぶん投げ、シャワーを浴びようとシャツを脱ぐと、またチャイムが鳴った。慌てて服を着てさらに大きい箱を受け取ったが今度はかなり重く、ぶん投げることはできなかった。この後さらに箱が二つと、封筒が三つ届いた。小崎に呆れると同時に、一体あいつのリスナーはどれだけ裕福な人なのだろうかと気になってくる。きっと、彼女たちからすれば40万円だって勿体ぶるほど大した額ではないのだろう。

 あの40万円は確かに、4年前に参加したライブバトル大会で優勝して手に入れたものだ。俺はまだ大学に在学していたときで、今より自己肯定感もずっと高かったから、身の程知らずにも色んな大会にエントリーしまくっていた。実力も知名度も金も人脈もない俺らは書類審査時点でことごとく落とされたが、そんな中で唯一、舞台に立つことが認められた大会だった。

 大会当日、ツイッターのDMで送られてきた指示に従って会場へ行くと、美人の若い女性が中にいた。見にきた音楽プロデューサーの交際相手か何かかと思ったが、彼女はこちらを見ると笑顔で近づいてきて、「主催の水川です」と名乗った。俺たちはわかりやすく動揺しながら深くお辞儀した。

 楽屋にいた他のバンドの人に聞くと、主催者の水川さんは白金台に住むOLらしく、若手バンドマンの演奏を聴くのが大好きすぎて、ボーナスの時期が来るとこうしてライブを主催するのだという。なんて贅沢な趣味だろうと驚愕したが、経験の少ない俺たちのようなバンドに舞台に立つチャンスが与えられるのは有難いことだし、憎きチケットノルマもない。賞金の40万円は手に入れられたらデカいが、経験の浅い俺らはまず優勝を狙うより、バンドマンとしての経験値をアップさせることを目標にすべきだ。そんなことを考えていると小崎が「40万、絶対手に入れような!」と言って背中を叩いてきた。俺は適当に相槌を打った。

 参加するバンドは全部で14組。楽屋には男しかおらず、ざっと見渡す限り、容姿に対するコンプレックスを原動力に音楽をやっているタイプの奴らはいなそうだった。俺たちの出番は六番目、会場もあったまって丁度いいくらいの時間帯だ。前のバンドがかなり盛り上がっていたのでドキドキしながら舞台に出た。

 俺たちの演奏は散々だった。小崎は賞金欲しさに張り切りすぎて空回っているし、俺も今まで相手にしたことのないタイプの客層に気圧されてペースが乱れてしまった。会場はあからさまに盛り下がり、演奏を終えて袖にはけた瞬間にそのまま帰ってしまおうかと思った。が、最後まで残っていた。

 全ての組の演奏が終わった。参加したバンド全員が舞台上にあげられ、主催者の口から優勝者が発表された。すると呼ばれたのは、俺たちのバンドの名前だった。会場中が少しどよめいたが、小崎が喜びのあまり泣き出したので、その雰囲気に飲まれるような形で拍手が沸き起こった。この5年間で、俺が唯一こいつに助けられた瞬間だった。

 次の日、テーブルの上に40万円を積んで俺たちはその用途について話し合った。生活費に充てるとか、良い楽器か録音機材を買うとか色々な案が出たが、最終的にこの金は俺たちのバンドがメジャーデビューしたときのために取っておくという結論になった。CDを出したその日にお祝いとして、高い酒を二人で飲むのだと。無邪気にそんな夢を語る小崎を見て俺は、もっと沢山良い曲を作ろうと、密かに決心していた。

 あれから4年。自分なりに良い曲は多く生み出してきたと思う。しかし、それが客に届かない。客に届く前に死んでしまう。俺は、小崎が出しっぱなしにして置いていった賞金の袋を元の引き出しにしまった。耳にイヤホンを装着し、ニルヴァーナの"If You Must"を再生する。俺が大好きなこの曲を、カート・コバーンは嫌いだと誰か宛の手紙で書いていたそうだ。pressuring onto me, onto me, onto me, onto me, onto me……。

 音楽はいつも俺を救ってくれる。が、俺はいつか音楽に殺されるかもしれない。ヒグラシの声はいつの間にか止んでいた。



 狭い部屋の中には物がどんどん増えていった。入浴剤、高そうなシャンプー、タバコ、電子タバコ、モバイルバッテリー、ワイヤレスイヤホン、ドライヤー、電気式毛布、コードレス掃除機、傘、アサヒスーパードライ3箱、漫画全35巻、アニメのBlu-ray Box、腕時計……等々。

 あいつは俺が家にいるときも、浴室を使って配信をするようになった。玄関のチャイムが鳴ったときだけ出てきて荷物を受け取り、空き箱をその辺に投げ捨てて中身だけ持っていく。カップラーメンやドクターペッパーも風呂場に持ち込んでいた。俺からしても、顔を合わせないで済むのでこの方が楽だった。風呂は近所のスーパー銭湯を利用した。

 バイト中以外は家にいるときも音楽を聴いて過ごしていたが、飯を食う時だけはイヤホンをすると自分の咀嚼音が響いてしまうので、頭の中で曲を流しながらキャベツのごま油炒め納豆卵かけ醤油ご飯を食べていた。すると、ポストに何か軽そうなものが入れられる音がした。またどうせAmazonだろうと無視しようと思ったが、網になっている部分から白い封筒が見え、どうやら違うらしいと取り出して開けてみると、賃貸契約の更新案内書だった。そういえばもう更新の時期になるのかと、その文面を読んでいるとチャイムが鳴った。小崎が浴室から出てきて箱を受け取り、慣れた手つきで開封した。中から出てきたのは革の財布だった。

 もう何が出てきても今更なんとも思わないが、それとは関係無しにふと気になったことを小崎に尋ねた。


「お前、バイトは?」


「辞めた。配信してた方が稼げるし」


 そう言って箱を放り投げ、財布を持って風呂場に向かった。その後ろ姿を見て、自分の口からほとんど無意識のうちに言葉が出ていた。


「俺、ちょっともうお前のこと無理かもしんない」


 小崎は足を止め、こちらを振り向いた。まるで異常者を見るような目つきで俺のことをジロジロ見ていたが、テーブルの上にある見慣れない紙に気づき、拾い上げて読み始めた。紙と顔を突き合わせたまま長いこと固まっているが、何か考えているのか、単に読むのが遅いのかわからない。かなり長い時間経った後に、小崎は通知書を無言で元の位置に戻し、自分の住処へと帰っていった。

 部屋の隅に置いてある録音機材をテーブルに載せ、息を吹いて表面の埃を飛ばした。録音したまま編集せず放置していた音源を、約一か月半ぶりに再生する。ここ最近ずっと伝説級のアーティストたちの演奏を聴いていた耳にはとても耐えられたものではない。俺は何の迷いもなくデータを削除した。そして、スマホから佐々木さんの連絡先も削除した。すると何だか清々しい気分になってきた。俺は小崎の布団の奥に押しやられているギターを手に取り、適当に弾きながら歌い始めた。タイトルは特にない。演奏しながら俺は、これが自分の今まで作った曲の中で最高傑作であると確信していた。曲の終盤に差し掛かったとき、浴室からずっと微かに聞こえていた喋り声が止んだ。俺はギターを手放して部屋を出た。バイトに行くには少し早い時間だったが、俺はなぜか、あの曲を小崎にだけは聴かせたくないと思ったのだ。



 翌朝、夜勤から帰ると小崎は久しぶりにリビングにいて寝転がっていた。目は閉じていたが、寝ていないのはバレバレだ。俺はその上をまたいで台所へ行き、帰りにスーパーで買ったビールを冷蔵庫に入れた。

 チャイムが鳴った。小崎はがばっと起き上がり、荷物を受け取りに玄関に走った。冷蔵庫に入っている傷んだ野菜や期限切れの納豆を新聞紙にくるんでゴミ箱に放り入れていると、急にその軌道をAmazonの箱が塞いだ。鬱陶しかったので手で払いのけると、床に転がった箱を小崎は拾い、また俺に向かって差し出してきた。


「邪魔なんだけど」


「おめでとう」


「……は?」


「誕生日。おめでとう」


 見上げると、小崎はぎこちない笑顔をこちらに向けていた。何なんだよ、と思いながら箱に貼ってあるテープの端を爪で剥がした。ちなみに俺の誕生日は再来月だ。流石にまだ死んでない人についてご愁傷様ですとは言わない、そんなのは不謹慎すぎる。テープはなかなか取れず苛々したが、やっと剥がれて箱が開いた。すると中からさらに青い箱が出てきて、その表面には少しギザギザした三本の白いラインが引かれている。蓋を開けると、アディダスの白いスニーカーが薄い紙に包まれて入っていた。


「この前知ったんだけど、何年か前に俺がお前に買ったあの靴、実はスニーカーじゃなかったんだ。あれ、もう凄いボロボロだろ。新しい、ちゃんとしたの買ったからこれ履けよ」


 小崎が少し照れくさそうに話す声を聞いているうちに、頭の中が、新品のスニーカーよりも真っ白になっていくのを感じる。その靴を箱から取り出し、両手に片方ずつ握りながら俺は尋ねた。


「で、これは誰が買ったの」


「Yukaさ……」


 言い終える前に俺は白いスニーカーを奴の顔面に思い切り投げつけた。一つは外したが、もう一つは頬にクリーンヒットした。


「いい加減にしろよお前。舐めやがって」


 俺は立ち上がり、床に倒れて頬を押さえている小崎の傍らにあるアディダスの靴箱を踏み潰した。それを部屋の角に蹴り飛ばすと、奴は指の隙間から丸くした目を覗かせ、俺を見上げた。


「な、何が嫌なんだよ」


「全部。お前の全部が嫌」


「俺の、全部……」


 頬を押さえていた手が、ゆっくりと顔の上を滑っていき、口を覆った。絶句している小崎に対し、俺は自分の右耳の皮に思い切り爪を食いこませながら、遂にこの言葉を口にした。


「バンドは今日で解散だ」


 すると奴は急に我に返ったように体を起こして叫んだ。


「何でだよ! 俺らまだまだこれからだろ!」


「俺たちに"これから"なんてある訳ねえだろ。お前みたいな才能のないクズに足引っ張られるのはもう御免なんだよ」


 小崎は一瞬また打ちのめされたような表情をしたが、すぐに首を横に振って、例の引き出しを指差した。


「才能はあるよ、俺たち二人とも。だって、40万だぞ。活動を始めて一年目で、あれだけの金を手に入れたんだ。俺らの才能が世に見つかりさえすれば、すぐにあれの10倍、いや100倍の額だって稼げるよ。なあ、考え直せよ」


 無様な男の姿を見下ろす。俺は、たった一言でこいつを絶望させることができる。たった一言で、こいつと俺の過ごした5年間を否定することができる。たった一言、残酷な真実を口にするだけで。

 しかし、自分の中にある最後の慈悲がそれを阻止した。俺はショルダーバッグの中からドラムスティックを出してその辺に投げ捨て、代わりに冷蔵庫のビールを入れた。酒、スマホ、財布、通帳、ワイヤレスイヤホンだけが入ったそのバッグを肩にかける。


「とにかく、もう無理だから。二度と俺の前に現れんな」


 小崎の視線を感じつつそれを無視して玄関へ歩いていき、汚い靴を履いた。このドアノブに触れるのもこれで最後になるだろうと思いながら、右耳から離した手をその金属に向かって伸ばしたとき、背後から奴の怒鳴り声が飛んできた。


「わかったよ! これから俺が芸能界で成功しても絶対に、絶対にお前とは会ってやんねえから!」


「テメエみたいな奴が成功するわけねえだろ。芸能界甘く見んな」


 俺は後ろを振り向かずに言い、冷たいドアノブに手をかけた。


「マジで、後悔しても知らねえから! 40万も、俺が全部もらっちまうからな」


「いらねえよそんなクソみたいな金。ドブにでも捨てちまった方がマシだ」


「バーカ! とっとと出てけ!」


 言われなくても出てくっつってんだろ、と心の中で返して、ドアを開けた。これが、俺の新たな人生が切り拓かれる第一歩となるのだ。そう思いながら右足を外に踏み出しそうとした、そのときだった。


「うおっ」


 びっくりして思わず声が出た。部屋の前に知らない中年女性が立っていたのだ。大柄なその女性は、白いブラウスに黒いテーパードパンツという、中学の卒業式に来た親みたいな恰好をしている。どうすればいいかわからず固まっていると、向こうから「こんにちは」と頭を下げられたので、とりあえず挨拶を返した。


「ユウカ。この方?」


 女性は、その疲れ切った感じの目を斜め下に向けながら言った。すると、彼女の右肩の後ろから、若い女の子の顔が半分だけ出てきた。が、長い髪を揺らしながら小さく首を振ると、すぐに大きな体の後ろに完全に隠れてしまった。


「人違いだったみたいです。失礼いたしました」


 女性は無表情のまま再び頭を下げ、のろのろと廊下を歩いていった。二人分の足音が聞こえるが、若い女の子の方は相変わらず白いブラウスの向こうに隠れていてほとんど見えない。母娘であろう彼女たちは、一体どういう理由で誰を探しているのだろうかと思いつつ、その姿を見送っていると、部屋の中から小崎が怒鳴った。


「早く出てけっつってんだろ! 何してんだよ!」


「黙れ。今出ていくとこだよ」


 謎の女性たちによってしばしの間忘却していた怒りを取り戻した俺は、勢いよく玄関の扉を閉めようとした。すると先ほど二人が立ち去っていった方向から、走ってくる一人分の足音が聞こえてきた。そちらに顔を向けると、さっきの女の子が、セーラー服のスカートをなびかせながら走ってくるところだった。彼女は部屋の前まで来ると、俺を軽く突き飛ばして扉の奥を覗き込んだ。女の子の顔が一気に赤くなり、その場に膝から崩れ落ちた。少し遅れて母親がやって来て、うずくまる娘の背中に手を置きながら「ちゃんと立って、謝りなさい」と息切れしながら言う。

 小崎が怪訝な顔をしながら部屋から出てきた。そして当然の質問を口にした。


「えっと、どちら様ですか」


「……ユウカです」


 震えた声で下の名前だけを名乗る女子高生と、彼女と10歳近く離れているクズの男を交互に見て、みぞおちのあたりにひどく気分の悪いものを感じていた。こいつとはもう関係ないし、面倒ごとにも関わりたくないし、早くこの場から立ち去りたい気持ちで一杯だった。しかし、退路はしゃがみこんでいる彼女たちの体によって完全にふさがれており、ちょっと失礼と言いながら二人をジャンプで跳び越えていくか、手すりの上を渡っていくしか向こうへ行く方法がない。どちらがより容易かつ安全に進めるか、俺は頭の中で両方の動きをシミュレーションしていた。

 その隣で小崎は、しばらく首を傾げていたが、急に何かに気づいたかのように「あっ」と声を出した。そして、恐る恐るといった様子で彼女に尋ねた。


「まさか、リスナーのYukaさん?」


「はい」


 俺と小崎は思わず顔を見合わせた。が、さっきまで口論していたことをすぐに思い出して互いに視線を逸らした。Yukaさんといえば、金持ちの旦那を持つ主婦で、三人のヘビーリスナーの中で最も多額の金と商品を小崎に貢いでいた人だ。しかし、目の前でYukaを名乗る"ユウカ"はどう見ても主婦ではないし、裕福そうにも見えない。


「だけど、Yukaさんは35歳の主婦だって……」


「それは嘘です、ごめんなさい」


 Yukaさん、もといユウカさんは顔を伏せ、小さな肩を震わせている。小崎は、どうしたらいいのかわからないといった様子で目を泳がせながら、何とかかけるべき言葉を探していた。


「で……でも、そんな嘘つく必要なかったのに。他のリスナーで、学生の人だっているんだし」


「はっぱちゃんですよね。それも私です」


「え?」


「学生のはっぱちゃんも、派遣社員のメルるんも、主婦のYukaも、すべて私一人のアカウントです。本当に、本当にごめんなさい」


 女の子は声をあげて泣き始めた。母親が溜め息をつきながらその小さな背中をさすっている。小崎は言葉を失って硬直している。その横で俺も、他人事とはいえかなりの衝撃を受けていた。ユウカの母親は、もう娘の口からはこれ以上話せないと判断したらしく、小崎の方を見上げて事情を説明し出した。


「うちの娘が本当に申し訳ありませんでした。ユウカは、半年以上前からあなたの配信にすごく夢中になっていたらしくて。私がそれを知ったのが先々週、高校から電話がかかってきて娘が授業中にイヤホンをしていたと担任の先生から言われたときです。娘に事情を聞いたら、好きなミュージシャンの配信を視聴していたのだと。さらに、ファンが自分だけだと彼が可哀想だからというので、アカウントを複数作って、時には私のスマホも同時に使いながら別人としてコメントしていると、そう打ち明けました。ただ、それだけならまだ授業中に見るのさえやめれてくれれば、あとは娘の自己責任でやればいいと思ったのです。しかし、ユウカは既にお金を、それもかなりの額を使い込んでいました。うちは父親もいませんし、決して裕福な家庭ではありません。お恥ずかしながら親戚に借金もしています。ですから、使った金額を聞いて衝撃を受けました。どこからそんなお金を手に入れたのかと聞いたら、寝室の小さいチェストの一番下の引き出しに入っていた封筒から取ったのだと言います。それは、ユウカの来年度分の学費のために貯めておいたものでした」


 そこまで話すと、ユウカさんの母親は地面に正座して、両手を地面についた。


「私たちが今日こちらに伺いましたのは、この馬鹿な娘が来年も高校に通えるよう少しでもご協力いただけないかと、お願いをするためです。いきなりお宅の前に現れて驚かれたことと思います、娘はライブ会場からこちらのお宅に向かうあなたを尾けたことがあることも私に打ち明けました。それは犯罪だと、母親である私の方から厳しく指導いたしましたので、その点についてはどうか、どうかご容赦ください。何もかも悪いのは娘です。送った物を全て返してほしいとは決して申し上げません。ただ、もし不要なものなどが万が一あれば、そちらをお譲り頂きたいのです。恥知らずで身勝手な振る舞いをしているのは十分承知しております。ですが、娘に卒業まで高校に通わせたいんです」


 母親が涙声でそう言って地面に頭をつけると、ユウカさんも正座し、濡れた目を袖で拭って頭を下げた。

 そんな母娘を前にして、小崎はただ狼狽えているだけで何も言わない。そんな奴の様子に段々と腹が立ってきた俺は、頭を下げている二人の前にしゃがんで話しかけた。


「頭を上げてください、娘さんは悪くないですよ。人の好意につけこんで金を遣わせるような奴が悪いんです」


 母親は顔を地面に向けたまま「そんな」と首を振ったが、これは優しさで言っているというより、俺の心の底から出た本音だ。小崎は隣で立ったまま黙っている。


「ちなみに、こいつに使ったのって全部でいくらですか?」


 そう尋ねると、母親はようやく少し顔をあげて、真っ赤にした目を宙に彷徨わせながら言いにくそうに答えた。


「商品としてお送りした分が約29万円、配信アプリ内のコインとしてお送りしたのが約10万円です」


「じゃあ40万ですね。わかりました。現金でお返しします」


 二人は驚いた表情で俺の顔を見た。だが恐らく彼女たちよりも驚いていたであろう小崎が、後ろから俺の肩を掴んできたので、すぐにその手を強く払いのけた。


「いえそんな。そんな、申し訳なくて受け取れません」


「いや、俺らは娘さんの貴重なお金と時間を奪ってしまったんですから、むしろお詫びしなきゃいけないくらいです。すみません、持って来るんでちょっと待っててください」


 俺はそう言って部屋の中に入り、小崎の本棚の下にある引き出しの方に向かった。するとその前を奴が立ちはだかった。


「おま……」


 大きく開きかけた奴の口を咄嗟に手で塞いだ。ここで口論し始めたら、あの二人にまた余計な不安を抱かせてしまうだろう。「喋るんなら小声で喋れ」と言って睨むと、奴は瞬きしながら二回ほど頷いたので、その口からゆっくりと手を離した。小崎は大きく息を吸い込んで、今にも爆発しそうな感情を喉奥に押し込めているような声で言った。


「どういうことだよ。あれはメジャーデビューするときまで使わないって約束だっただろ」


「なに訳わかんねえこと言ってんだ、解散したんだからメジャーデビューもクソもねえよ。丁度いい金の使い道があって良かったじゃねえか」


「……マジで解散したの?」


 今更こいつは何を言っているんだ、ついさっきもう絶対に会わないだの、早く出てけだの怒鳴ったばかりだろうが。奴の甘さ、幼稚さ、読解力の無さにどこまでも呆れ果てながら、俺は引き出しに手を伸ばそうとした。すると奴がその腕を掴んできた。


「離せよ。俺、高校生の女の子に大金貢がせたクズなんかと組んでらんねえから」


「それは、だってそれは知らなかったんだよ。そうだと知ってたら、あんなことさせなかった」


「あのな。言っとくけど、仮にこの件に目を瞑ったとしても解散の意志は変わんねえよ?」


「何でなんだよ」


「俺らには才能がないからだよ。メジャーデビューなんて一生できない」


 俺が静かにそう告げると、小崎は俺の腕から手を離し、自ら後ろを向いて引き出しを開けた。そして、賞金と書かれたのし袋から札束を取り出して、俺の眼前に突き付けた。


「才能、あるよ。この40万がそれを証明してるだろ」


 唇がぶつかりそうなほど近くにある福沢諭吉の顔。それをぼんやり見ていると、この偉すぎる男の表情が段々、笑いをこらえている顔に見えてきて、そう気づくと俺もつられて可笑しくなってきて、思わず噴き出してしまった。


「な、なに笑ってんだよ」


「ふふ、あのな、この40万は……はははっ、ちょっと待って。笑っちゃって喋れない」


 笑いをこらえる諭吉の奥には、困惑する小崎の顔がある。ますます可笑しくなってきて、上手く息ができない。腹を抱え、必死で呼吸を整えながら、俺は話を続けた。


「はあ、はあ……この40万さあ、俺たちの才能で稼いだんじゃないんだよ。俺の……ふふふっ。俺の……はははは。俺の、俺の枕営業で稼いだんだ! あー面白い!」


 笑いすぎて涙が溢れてきた。小崎の顔はぼやけて、もうどんな表情をしているのかわからない。


「あの日な、演奏終わって袖にはけたとき、主催者の水川さんに声かけられたんだよ。私と一晩付き合ってくれたら優勝させてあげる、って。お前はテンションあがってどっか行っちゃったから、その場にいなかったんだよな。俺、なんて言ったと思う? 『よろこんで』っつったんだよ。だって40万円だぜ、底辺バンドマンの俺らにとっちゃ大金じゃん。しかも相手は美人だし。そしたら本当に俺らが優勝した。その日のうちにホテル行って済ませたよ、一発で40万。それを、それをお前は才能で獲ったって勘違いしてさ……あははは! こんな面白い話ってあるか? なあ。傑作だよな」


 手の甲で涙を拭きながら、反対の手を小崎の肩に置くと、その体が微かに震えていた。その震えを手の平に感じているうちに、何か急激に冷めてきて、何一つ笑えなくなった。俺は真顔で小崎の手から40万を取って玄関に向かった。奴はもう金を取り戻そうと追いかけてきたりはしなかった。



 ユウカさんとその母親は、俺たちに向かって謝罪と感謝の言葉を繰り返しながら帰っていった。俺もアパートの外廊下からその姿が見えなくなるまで、彼女たちに向かって頭を下げ続けた。本当に、申し訳ない気持ちで一杯だった。せめてあの40万が、彼女の将来にとって足しになればと心から思う。

 玄関の床に置いてあったショルダーバッグを肩から下げ、振り向いて部屋を眺め渡した。40万円分のガラクタと空き箱が散乱しているその空間を見て、俺はこの決断が間違っていないことを改めて確信した。

 さあ、俺の本当の人生の始まりだ。心の中で高らかに宣言し、右足を外に踏み出そうとしたとき、突然その脛ががしっと掴まれた。


「待って」


 視線を下に向けると、小崎の体が玄関のタイルの上に無様に転がり、その両手が俺の右足を握っていた。俺は何の躊躇もなく汚い靴で奴の頭を蹴った。何度も蹴った。しかしその手の力は異常に強く、一向に離れない。


「はっぱちゃんさんも、メルるんさんも、Yukaさんもいなくなって、40万円もなくなって、バンドもなくなって、その上お前までいなくなるとかマジで無理。俺、死ぬかもしんない……」


 小崎は消え入りそうな声でそう言う。だが、こいつに与える慈悲はもうとっくに使い切った。俺は、自分の右耳を強く引っ掻きながら吐き捨てるように言った。


「勝手に死んどけば。俺には関係ねえよ」


「頼む、マジで頑張るからもう一回だけチャンスください。そのためなら俺、何でもするからマジで」


 両目から流れていく涙は、汚れた顔面の土埃をどんどん吸収していき、顎の先端で泥水の滴となってタイルの上に落ちた。何て惨めで、ダサい男なのだろう。才能もなければプライドもない。底辺バンドマンどころか、人間の中でも最底辺の存在に違いない。この先の人生において、俺はここまでのゴミクズとはもう二度と出会えないだろう。そう思うと、ほんの少しだけ惜しいような気がした。

 俺は頭を踏みつけていた足を地面に下ろした。そして奴の汚れた顔の前に屈んで、こう尋ねた。


「お前、本当に何でもすんの?」


「マジで何でもする。例えば……」


 例えば、に続けて小崎は俺が考えもしなかったような、想像もしたくないようなことを非常に具体的な言葉にしてどんどん連ねていった。そのおぞましい単語の数々を聞いているうちに、酷い吐き気がこみあげてきた。


「キモすぎるからもう喋んなお前。そんなことやらせて俺に何の得があんだよ。気持ち悪い」


「そっか。じゃあさ、お前がしてほしいやつ言って。マジでそれ俺、完全に従うから」


 俺は、小崎との最後の思い出づくりとして、こいつのクソみたいな人生の中で最もダサくて惨めな思いを味わわせてやろうと思っていた。しかし小崎のさっき言った例えからして、思いのほか何でも受け入れてしまいそうな気がする。こいつが絶対にやりたくないこと、それをやらせなければ意味がないのだが、才能もプライドもないこの男がそんなものを持っていたことがあっただろうか。俺は小崎との忌々しい記憶を再生し、不愉快な気持ちになりながらそれを探した。

 思い出した。この男が、俺に対して絶対に譲らなかったことが一つだけある。あのこだわりは本当に意味不明で、こいつと出会ってからの10年間で一番腹が立ったことの一つだが、ようやく反撃のための切り札として使う時が来た。俺は小崎の見えないところでほくそ笑みながら言った。


「お前、俺とバンド組んだときに、絶対ギターボーカルやりたいっつったじゃん」


「うん。言った」


「もう一回だけライブ出てもいいけど、その代わり、俺がギタボな」


「うん。いいよ」


 あまりにも早い相槌に、心身共に硬直した。まさか、そんなはずはない。こいつは俺の言ったことを何か勘違いしているのではないかと、「俺がギターボーカルやるんだぞ、お前じゃなくて。本当にいいの?」と念入りに確認したら、小崎は「うん。いいよ」と全く同じトーンでもう一度言った。

 俺たちの、いや、俺の5年。心でそう呟くと同時に意識が一瞬飛びそうになった。いや、流石にこいつにだって音楽に対するこだわりが1ミリくらいはあるはずだ。せめてそのことを確認しなければ、俺はこの無駄にした5年間のことで一生立ち直れないかもしれない。額にかいた変な汗を手の甲で拭き、カラカラの喉に唾を流し込み、俺は小崎に対する"要求"を続けた。


「で、お前はリコーダーな」


「わかった」


「……しかも太腿の内側にカスタネットを四つ付けて、リコーダー吹きながらそれを叩くんだよ」


「うん」


「そんで、頭に鈴のついたバンドみたいのを巻いて、ヘドバンするとそれが鳴るようにするんだ」


「ほお」


「あと両肘に短い棒をつけて、左でトライアングル、右でギロを演奏する。ここの楽器は入れ替え可能で、左が木琴、右が木魚のときもある」


「なるほどな」


「鍵盤のないアコーディオンみたいなやつ、バンドネオンだっけ。あれの片側を足の裏にくっつけて、踏むと鳴るようにするんだ。もう片足では普通に電子ピアノを弾く」


「うんうん」


「するとあと暇なのは、腹だけか。腹はそうだな、顔描いておいて演奏しないときに腹踊りでもしとけ。……どうだ、いけそうか?」


「うん、マジで頑張る!」


 心の中で俺は、ほとんど悲鳴に近い絶叫をした。このクソみたいな5年間は一体何だったんだ!

 あまりのショックに、小崎の顔にゲロをぶちまけそうになった。が、何とかギリギリのところで飲み込んだ。奴は涙を流しながらも希望に満ちた目で俺を見上げている。

 もういい、もうどうでもいい、もう終わったことだ。俺は自分に言い聞かせる。この5年間は全部なかったことにしよう。俺は学園祭の日、演奏を終えてステージから降りるときに階段で足を滑らせ、そこから長いことずっと意識を失っていた。この5年間は、病院のベッドで見ていた悪夢なのだ。

 ああ、そうに違いない。そして今から、夢の中の俺は、実在しない小崎と一緒にフリーライブに出演し、音楽を愚弄した最低のパフォーマンスを人前で披露する。人々は俺たちのことを憎み、蔑み、激しく罵倒するだろう。そのショックで俺はようやく目を覚ますことができる。この長く苦しい悪夢から、遂に解放されるのだ。

 そう考えて、やけに生々しい小崎の泣きっ面を見下ろしながら、吐き気がするほど最低の不協和音を頭の中で組み立てた。



 半年後、俺は新宿の広いライブハウスの楽屋のソファに座り、ギターのチューニングが合っているかどうか弦を一本ずつ指で弾いて確かめていた。生まれつき持っている絶対音感は、こういうとき役に立つ。

 急に、部屋の扉が開いた。会場スタッフの女の子が顔を出し、短い前髪の下に嬉しそうな表情を浮かべて言う。


「当日チケットも完売です!」


 彼女はそれだけ伝えて去っていった。あの明るい、可愛い女の子は恐らく俺のことが好きだ。態度や視線から何となくわかる。相手に引かれないよう、あくまで自然な話の形で連絡先を交換したいが、事務連絡を口実にしたりしたらかえって下心が丸見えな気がする。むしろここはバンドマンらしく、ストレートに聞いてしまうべきだろうか。そんな風に悩んでいると、背後から声がした。


「完売だって。マジですげえ」


 振り向くと、頭に鈴のついた紐を巻いた小崎が馬鹿丸出しの笑顔で立っていた。その右手には、何度もめくりすぎてボロボロになった雑誌があり、表紙に「シュールすぎるとSNSで話題のバンドにスペシャルインタビュー!」と大きく書かれている。その左手には、一昨日の新聞が握られていて、番組表の下の方にある俺たちのバンド名に赤い線が引かれている。そしてその腹には、油性ペンで変な顔が描いてある。

 小崎には、ギターボーカルの才能はないし、働く才能もないし、他人に迷惑をかけずに生きる才能もないが、リコーダーとカスタネットと鈴とトライアングルとギロ(あるいは木琴と木魚)とバンドネオンと電子ピアノを同時に演奏しながら腹踊りをする才能だけはあったらしい。まともな人間であれば、例えあったとしても一生発掘されようのない才能だ。


「才能があるってこういうことなんだな。俺ら、マジですごい」


 嬉しそうにそう言って小崎は俺の右隣に座り、慣れた手つきで太腿にカスタネットを装着し始めた。既に左肘につけているトライアングル用のバチが俺の脇腹にぐさぐさ刺さっている。俺は右耳を触りながら、できるだけ冷たい口調で言った。


「調子乗んなよ。今でも俺、お前の全部が嫌になったのは変わってないからな」


 奴は四つ目のカスタネットを掴んだまま手の動きを止めた。そして、いつもみたいに落ち込んで俯くと思いきや、俺の目をじっと覗き込んできた。初めて会ったときから変わらない、何も知らないガキみたいに澄んだ目。見られていると居心地が悪くなり、俺の方が顔を伏せてしまった。


「何だよ。何か変なこと言った?」


「いや。お前って、喋ってるときよく右耳触るよな。昔からよくやるけど、癖?」


 初めて自分の手癖を他人から指摘され、妙に気まずいような、落ち着かないような感じがした。俺は右耳を強く引っ張ったまま応えた。


「まあ、なんか無意識で触ってるんだよな。つーか話逸らすなよ」


「あのさ、実は俺さあ、お前がどういうときに右耳触んのか、傾向知ってるんだ」


 頭に鈴を付けた小崎は得意げな顔でそう言ってきた。話を逸らすなと言っているのに、ますます肝心の話題から離れていく。だが、俺も知らないその傾向とやらを、小崎がどう捉えているのか少し聞いてみたくなり、その寄り道に一瞬だけ付き合ってやることにした。


「何だよ。言ってみろよ」


「あのな、まず、言いにくいことを言ってるとき。これが一番多いな。あと、言いたくないことを言ってるとき。これも結構よく見る。で、もう一つが、嘘をついてるとき。今やってるのは何だろうな、俺が思うに、多分……」


 そう言われて顔をまじまじと見られていると、触っている右耳の温度が急激に上昇していくのを感じる。堪らなくなり、思わず右耳から手を離した。


「馬鹿のくせに他人のこと分析してんじゃねえよ」


 そしてその手で小崎の頭を思い切りひっぱたいた。「いってぇ!」という叫び声と同時に、鈴が美しい音色で鳴り響いた。

 その音で鼓膜が小さく震えるのを感じながら俺は、現実世界って意外とカスだな、と思っていた。 

この作品は別サイトで2022年10月8日に投稿したものです。

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