8 黒き者
突如として吹き飛んだ腕に、双方が硬直する。
だが、そんな静寂の時は1秒も経つことなく突如終わりを迎えた。化け物は状況の理解が追いついたのか、目線を自分の腕を落とした相手の方に向けた。
はずだった。
その眼前には、3本のナイフが飛んできており、右目、左目、喉へと突き刺さる。視界を奪われ体勢を崩したその瞬間、黒い影は一気に化け物の懐へと潜り込む。
それと同時に、その姿を近くで見たことで、黒い影の正体が黒色の外套を纏い、フードを被った人間であることを理解する。しかし、俺が理解できたのはそこまでだった。
黒衣の人物は地面を蹴ると同時に左腕から飛び出した鍵爪で腹部から首元まで一気に引き裂くと、空中で身体を捻りながら喉元に刺さっているナイフを掴み、一気に首を切り裂いた。
化け物の首が宙を舞い、胴体側の切断面からは赤色の真珠のような玉が姿をのぞかせる。化け物は頭部と両腕を失ったせいか、それまで空中で揺らめいていた動きが鈍くなる。これを好機と見たのか、黒衣の人物は化け物を空中へと蹴り上げると腰に装備されていた角張った棒状の機械を取り出し、小さな声で何かをつぶやいた。
すると、機械は線が走ったかと思うと持ち手の部分を残して展開し、そこから何かのエネルギーによって生成された赤色の光の刃が現れた。
黒衣の人物は、腰を深くまで下し、左手に持った光剣を右腰の位置で構える。対して反対の腕は自分の前方まで持ってきており、五指で大地を抑えていた。日本剣術における居合の構えに、陸上のクラウチングスタートを合わせたようなその姿からは、俺でも分かるほどの殺気が放たれていた。
顔もよく見えない黒衣の人物を釘付けになって見ていると、彼は突如口を開き、声色からは男か女かもわからないほど小さな声で
「玖月・壱式」
と、つぶやいた。
瞬間、突如視界からその姿が消えた。
いや、違う。
消えたのではない。
消えたと錯覚する程の超速度で移動したのだ。
天多がそれを理解した直後、化け物のいた方向から、聞いたこともないような甲高い音が鳴る。
その音につられるように化け物の方を向くと、その凄まじい光景に目を見開いた。
この世ならざるものと呼んでも相違ない凶悪な姿をしていた化け物の体は、天多がその瞬間を認識する間もなく既に両断されており、程なくして斬られたことに気づいたかのように倒れた。
あまりにも強烈な一撃。本来ならばこの出来事に対して驚くべきなのだろう。
しかし、本当に天多が衝撃を受けたのは、その斬撃でも、一瞬で両断された化け物の姿でもなかった。
両断された化け物の反対側に佇む黒衣の人物、その更に後ろで背景となっている空間に起こった異変。
空間が、割れていたのだ。
厳密にいえば、斬撃を繰り出した場所を始点として空間がヒビ割れていると表現するのが正確だろう。
化け物の背景に見えるその空間は、今の斬撃の威力によるものなのかより強いヒビ割れが発生し、その中心部は空間が裂けていた。
裂けた空間の内側は丸ごと抉られたかのように消滅し、代わりにその先には宵の雲の先にあるはずの満天の星空が広がっていた。
どう考えても普通じゃない。
ヒビ割れた空間は、程なくして世界に修正されるかのように元に戻ってゆく。
原理は理解できない。だが、少なくともわかるのは、先程の音は化け物の絶命する瞬間挙げた悲鳴などではなく、圧倒的な速さから放たれた斬撃によって生じた摩擦音だということだ。
だが、それで空間を破るほどの現象を起こせるのか?
第一なぜ星空が広がっていたのか。
破れたのが空間ならば、その先にあるのは虚無なんかの空間が生まれる以前の何かのはずだ。
あまりの出来事に頭が混乱する。
人間技どころか機械でさえ不可能な速度だ。第一、これほどの威力でなぜ俺は無事なのか、なぜソニックブームが発生していないのか。冷静さなどすでに失われた今こんなことを考えているのは、ここまで立て続けに起こった異常すぎる事態についに思考が追いつかなくなったからだと思いたい。
自分のキャパを越え若干のパニックに陥っていると、両断された化け物の身体から、赤い玉が転がり落ちてきたかと思うと、地面に触れた瞬間にぱっくりと真っ二つに割れ、液状に溶けていった。
黒衣の人物の目的もこの赤い何かだったのか、赤い玉が液体へと変化するのを確認すると、光剣を元に戻して既に残骸となった化け物へと近づいてゆく。
傍まで近づくと、警戒を解いたのか光剣をもとの機械の形状にすると腰へと戻し、代わりにスポイトのようなものを取り出した。
その時だった。
倒したはずのその亡骸が、突如として動き出した。
「……!」
直前まで完全に油断していたであろう黒衣の人物は、咄嗟に大きく後退する。しかし、化け物はその一瞬のスキを見逃すことはなかった。
化け物が千切れた左腕を動かすと、離れた位置に文字通り転がっていた剛腕が動きだし、黒衣の人物目掛けて飛んでいく。
空中で虚を突かれた黒衣の人物は、回避不可能と判断したのか咄嗟に反撃しようと先程の機械を再び取り出す。凄まじいほどの判断・反応速度だ。あれならば反撃が間に合うと、俺の素人目で見ても理解ができる。
しかしそれは、化け物が素直に動いていれば、の話だが。
反撃に転じる為、機械を光剣へと変化させようとしたその瞬間、黒衣の人物が切り落としたはずの化け物の頭部が攻勢に転じようとしていた黒衣の人物の目の前に現れる。
潰したはずの両目は既に再生しており、その目が黒衣の人物の目を睨むように直視する。すると、化け物の目が紫色に輝いた。
その直後、空中にいた黒衣の人物の動きが、完全に停止した。眼前に迫る剛腕を前に、光剣を出現させるどころか、一切の反撃が間に合わずにその剛腕による一撃を叩き込まれた。
黒衣の人物は、その攻撃を諸に受けたことでその手に持っていた機械を落とし、口からは血反吐を吐いた。だが、その体が勢いで飛んでいくことはなく、まるで空中に固定されているかのようであった。
黒衣の人物が化け物を睨みつけるが、化け物はそれをあざ笑うかのような表情を見せると、バラバラになっていた体の部位が黒く染まると影のように溶けてゆき、その場で浮遊していた頭部に向かって集まってゆく。
その影は頭部に集まると再び形を持つと、胴体、右腕、左腕、とその姿がみるみるうちに再生してゆく。
そして数秒と経たないうちに、化け物は遭遇した時と寸分変わりのない状態へと戻り、両腕で空中で停止していた黒衣の人物を握りしめた。
「がっ……ァ……」
どれほどの力で握りつぶされているのか、黒衣の人物は呻き声をあげるも肺が圧迫されているせいで、すぐそばにいる天多の耳にさえまともに聞こえず、代わりに、ピキ、パキ、と骨が軋み砕ける音だけがその場に響いていた。