7 逃亡
「……ァ……ッ……」
「結……叶?」
想像できる限り、最も最悪の予想が当たってしまった。
こいつは間違いなく昼間に見たあの化け物だ。
しかもその腕の中で握りつぶされているのは間違いなく俺の友人だ。
結叶は大きな右腕で握り物されており、ピキ、パキと骨が折れる音が部屋に響き渡っていた。声を上げようと必死にもがいているが、肺が潰されているせいかその口からは小さなうめき声と空気が漏れる音しかしなかった。
ほんの僅かののち、「それ」と目が合う。恐怖のせいか、心臓は音が聞こえそうなほど激しく脈打ち、額からは脂汗が滝のようにあふれ出る。
今すぐにでも逃げなければならないとわかっているが、身体が言うことを聞かない。
すると突如、目の前にいたはずのそれの姿が消えた。
いや……違う——————!
俺は咄嗟に全神経を避けることに集中させ、正面へと飛び込む。
その直後、俺のいた場所には巨大な腕が叩きつけられる。
『————?』
危なかった。
「それ」が天多へと攻撃を仕掛けてくると思ったのは、ほぼ彼の直観によるものだった。
極限状態の中、生物に備わっている生存本能が働いたのだろうか。
ほんのギリギリのところで身体が動きだし、攻撃を躱すことに成功する。
……今避けられたのは運がよかった。あんなのをもろに食らえば一瞬であの世に行きだ。
息を整え、追撃に備える。
「それ」は攻撃が当たらなかったことが不思議だったのか、自らの手のひらを確認してはこちらを見るのを繰り返していた。
(どうする……? あの速度でもう一度攻撃されたら次は避けられる自信がないぞ……)
辺りを見渡す。部屋のドアには既にあいつがいるからここは使えない。となると逃げ道は一つ。後ろのガラスを突き破って飛び降りるしかない。
だがそうすれば結叶を見捨てることになり、まだ息のある彼を助けることは不可能となる。第一、パルクールに多少覚えがあるといえど、何もなしに二階から飛び降りるのは流石に危険だ。
どちらを選んでも無謀。
ただ時間だけが過ぎてゆく。
しかし、このまま何もしなければ奴の餌食になるのを待つだけだ。
あの化け物が再びこちらを向いた。
時間切れだ、もう迷っている場合じゃない。
「ごめん、結叶!」
覚悟を決め、化け物に背を向け一気に走り出す。
その勢いのまま一気に窓へと飛び込み、ガラスを突き破った。
このまま落ちれば無傷では済まないため、すぐさま落下に備える。接地のタイミングに合わせ、受け身を行う。これにより衝撃を緩和し、何とか着地することに成功した。
「痛っっっっうー……」
無茶な角度から落ちたためか流石に身体が痛むが、すぐに奴が追撃を仕掛けてくる可能性があるためゆっくりはしてられない。
上を見ると、奴の巨大な腕が窓を突き抜けていた。
(昼間と同じなら、あいつには多分壁をすり抜ける力がある。それにあの速さ、正攻法で逃げるのは不可能か……どちらにしても猶予はあまりないはずだ)
俺は立ち上がり、すぐさま前方の工事現場へと逃げ込むように走り出す。ほぼ同時のタイミングで奴も壁をすり抜け、こちらを認識したようだ。
「■■■■■■■■————!」
「早すぎるだろッ!」
全身が壁をすり抜けると、大きな咆哮を上げ、こちらの方へと一気に飛び掛かってくる。天多はすんでのところで鉄骨を盾に何とか回避し、そのまま鉄骨に乗りあげると梯子を駆使して一気に高所まで登った。
(鉄骨がへこんでやがる!? さっきまで物質をすり抜けていたのに!!)
一瞬違和感が頭をよぎるが、その考えをまとめる余裕は一切存在しない。外したことに気づくや否や再びこちらへと接近して追撃を仕掛けてくる。
一気に反対側の鉄骨へと飛び移り、奴の腕を躱す。だが奴は既に躱される前提で攻撃していたのか、すかさず反対の腕が繰り出される。
同じように再び飛び移り躱そうとするが、その一撃は俺のいた空間ではなく、俺のいた足場へと繰り出されていた。その腕で足場を勢いよく叩きつけ、そのまま空中にいるこちらへと飛び掛かってくる。
「やべ……!」
咄嗟に腕を横に伸ばし、鉄骨を掴むと全力で自分の身体を引っ張りそれを躱す。外側へと放り出されそうになるが、反対の腕でも鉄骨を掴み、遠心力で何とか内側へと戻ろうとする。しかしこれすらも想定していたといわんばかりに、繰り出した拳をそのまま裏拳に変え攻撃してきた。
(こいつ……器用すぎる!)
直撃を免れるために、咄嗟に鉄骨を掴んでいた手を放すが、奴の攻撃は最初からその鉄骨を狙っていた。鉄骨が複数本へし折られたことで骨組みがバランスを失い、着地しようとしていた足場が崩れ去る。
ギリギリのところで避け続けていた天多は、足場を失ったことで外へと投げ飛ばされ、そのままの勢いで落下した。
「グハ……ッ!」
落下の衝撃による激痛で意識が飛びそうになるも、何とかそれをこらえる。
(うっ……どこだかわからねえが多分骨が何本か折れた……)
激痛に耐えながら目を開くと、既に俺の目の前にはあの化け物がいた。
「くそ……」
「■■■■■■■■————!!!!」
化け物が再び咆える。
天多はすかさず立ち上がり逃げようとするも、激しいめまいに襲われたことで隙をさらしてしまう。
この瞬間を好機と見たのか腕を大きく振りかぶり、天多目掛けて全力で振り下ろす——!
ズバンッ!
「え……?」
今度こそこれまでかと歯を食いしばったその瞬間、突如黒い影が目の前を横切る。その直後、天多を狙っていたはずの巨腕が突如弾かれた矢のように宙を舞った。
それは一瞬の出来事だった。一体何が起きたのか、天多は当然ながら、目の前にいる化け物にも理解ができなかったのだろう。化け物からは先程までの天多に対する殺気が失われ、その目はどこを見ている訳でもなくただその場で静止していた。