4 目撃
午後十九時頃 某所ゲームセンター
「さっきは本当にすみませんでした」
「よろしい」
調子に乗った友人を予定通りゲームでボコボコにして謝罪を聞いたころには、既に夕方を過ぎていた。
正直なところ、こんなに遅くまでいる予定はなかったが、こいつが涙目になって許しを請う姿を見れただけで俺の満足度は非常に高いので良しとしよう。
「くっそー! 今回こそは勝てる自信があったのになぁ……」
「俺に勝とうだなんて百年早いわ」
「これでも毎週コツコツと練習してたんだぜ。それなのにこんな惨敗しちまうと正直モチベーションがダダ下がりだ。天多、お前本当に何やっても強すぎだろ、勉強以外」
「パルクール部は不祥事で廃部になったし、家に帰ってもすることが何もないからよくゲーセンには遊びに来てるんだよ。だから単純に積み重ねの差……って今最後余計な言葉が聞こえたぞ」
「つまりお前は暇人ってことか」
「おい、張り倒すぞ」
こいつ本当に口が達者だな。俺が家に帰っても誰もいないことくらい知っててわざと言ってるから質が悪い。
そんなことを考えていると、結叶はこちらの顔を覗き込みながら少し考える風の仕草を取ったかと思えば、次にはわざとらしく腹を抑えてこちらにアピールしながら口を開いた。
「しかしすっかり遅くなっちまったな。天多、これからまだ時間に暇があるならメシでも食いに行かねえか。俺もう腹が減りすぎて一歩も動けねえよ」
本当にわかりやすい奴だ。まあ、本当のところは俺の事情を多少知ったうえでこうやって変わらず接してくれるのは結叶なりの優しさだろうし、正直ありがたいとは思うが。
「ああ、俺もちょうどお腹が空いてきてたところなんだ。でもいいのか?こんな時間だし、親御さんが既に晩御飯の準備してると思うんだが」
「それについては問題ナシ。ゲーセン行く前に予め今日は外で食ってくるって連絡しといたからな。てことでさっさと食いに行こうぜ。場所はお前のバイト先な!」
「最初から食いに行く気だったんだな。てか俺のバイト先って町外れの丘にあるあそこだぞ。ここから距離もあるし、何よりお前の家とは逆方向じゃないか」
「いーのいーの。どうせ今日は遅くまで遊んで帰るって言ってるし、何より金払って食うならあそこ以外あり得ねえって」
「そこまで言うなら俺は構わないけど。本当にいいんだ——」
バタン!
話を遮るように、何かの倒れる音がした。俺達はその音に気を取られ、不意に後ろのゲームセンターの方を振り向いた。
「おい、人が倒れてないか?」
ほんとだ、助けた方がよさそうだな。俺は、結叶の言葉に対してそう返すつもりだった。人間の日常の中に絶対に存在してはいけない「あれ」を見るまでは。
瞬間、見えてる世界が一瞬にして凍り付いたような感覚を覚えた。ほんの数秒前まで、俺はいつも通りの日常の風景の中で、何気ない会話をしていたはずだ。
そんな当たり前の風景は、倒れた人物を巨大な腕で叩き潰している「あれ」を見たことで一瞬にして崩れ去ってしまった。
「何だ……あれは……」
視界の隅に見えてしまったそれは、何もないはずの壁からまるでそれをすり抜けたかのように現れていた。いや、正確に言えば最初から目の前に障害物がないかのように世界の法則を無視していた。
しかし、俺がそれに対して明確な恐怖心を抱いたのはそんなあり得ない状態を目の当たりにしたからではない。一目で生物ではない、近づいてはいけないと理解できてしまうその姿だ。
そのシルエットはローブを纏った人間にも見えるが、少なくとも2mはあるであろうその巨体に加え、凶暴なほど巨大な腕が生えている。そして、生物なら存在してしかるべき脚部が存在せず、幽霊のように浮遊し揺らめいていた。
見てはいけない。絶対に関わってはいけないと五感の全てが警告を鳴らすが、俺は既に「あれ」から目を離せずにいた。
無意識に唾を飲み込むと、「あれ」がこちらの方を向いた。俺は、発狂寸前の口を押え————、
———————殺られる。
「それ」と目が合った瞬間、俺は自分の死を全身で感じた。
逃げないと。
間に合わない。
逃げないと。
不可能だ。
逃げなければならない。頭ではそう考えるのに、本能がそれを成すことは不可能だと告げている。焦りによって思考が定まらなくなり、急激なめまいに襲われる。
「おい、大丈夫か天多」
大丈夫だと? あれを見て何を平然としてられるんだ。誰であれ、あんな生物離れした存在を見てしまえば混乱するに決まってるじゃないか。
天多は、気が狂いそうな頭でそう考えた瞬間、ようやくその違和感に気づいた。気づかないふりなんてできるはずがない。日常生活の中に絶対にあるはずがない異物がそこにあるんだ。なのになぜ、誰もあれの方を向いていないのか。
悲鳴を上げる余裕すら許されない凍り付いた世界に、まるで俺一人だけが迷い込んだような感覚に襲われる。しかし、その異常すぎる状況がそうさせたのか、もしくは人間に備わっている生存本能が作用したのか分からないが、俺は現状を理解するだけの冷静さを取り戻していた。
そして俺は、ようやく動くようになった口を開いて、目の前にいる友人に、
「お前まさか……あれが見えてないのか?」
理解したくないことを理解するために、質問を投げかけた。
答えなんて、既に分かりきっている質問だ。それでも俺は、今起こっていることを確認せずにはいられなかった。
そして友人は、俺の予想通り、俺の予想したくなかった答えを返してきた。
「あ?何言ってんだお前。ゲームやりすぎて頭おかしくなったのか」
疑念が確信に変わる。今この瞬間、この場であれが見えているのは俺だけなんだ。
結叶が言うように、俺の頭がおかしいだけならどれほどよかっただろうか。だが、今この瞬間俺が五感で感じた感覚の全てが、目の前で起こる出来事全てを現実の出来事だと理解らせてくる。
「そういう脅かしネタ、今回ばかりは使うタイミング間違えてるぞ。とりあえず、倒れてる人の様子を見てくるわ」
「まて!そいつに近づいちゃ……」
結叶があれに近づくのを制止しようとすると、目の前にいたはずのそれは既にどこにもいなかった。
「なんで……!?」
それは、あまりにも一瞬の出来事だった。
見失うはずがない。だって、俺は、たったの一瞬しか目を離さなかったんだ。
俺は、いなくなったそれを探すように辺りを見回すが、それがいたという痕跡は、既にどこにもなかった。
本当にいなくなったのならばと安心しようとするが、もし今この瞬間に自分が狙われているのかもしれないと考えると気が気ではなく、気が休まるほどに精神が安定したのは、それから暫くして倒れた人を搬送する救急車が来る頃だった。
***************
「しかし大変なことに巻き込まれたなー」
結叶がそうつぶやくのも当然のことだ。救急車が来てから数刻が立ち、俺達が解放される頃には、辺りはすっかり夜になっていた。
「ところで、天多は本当に大丈夫か。今はそうでもないけどさ、さっきまで相当顔色悪かったぞお前」
「ああ、今はもう大丈夫だ。多分だけど、最近の疲れが出ただけだよ」
「けどよ……、倒れてる人を見てから明らかに気分が悪くなってただろ? もしかしたらあの時のことを……いや、やっぱ何でもねえや」
「あの時……もしかして俺がいたっていう孤児院のことか?」
「……あー、わりぃ。聞かない方がよかったよな」
「別に大丈夫だよ、俺もあの時に比べれば気持ちの整理ができているつもりだ。それに、覚えていないことなんだからどうしようもないしな」
「そっか……。わかった、それじゃ今度からはお前の記憶のこともあんまり気を使わないようにするわ」
「その言い方。それはそれで失礼なんじゃないかー?」
そんな話をして、俺たちはふっと吹き出し、大笑いしてしまった。
「さてと、それじゃあ本格的に腹もすいてきたことだし、さっさと飯食いに行こうぜ」
「そうだな、んじゃあさっきの予定と同じで俺のバイト先でいいのか?」
「構わないぜ。マスターの作る料理はここいらで一番うめえからな! この時間なら裏メニューも出てるだろうし……何食べよっかなー!」
他愛のない話をしながら丘の喫茶店へと向かっていると、先ほど起こった出来事はやっぱり疲れすぎて変な幻覚を見ていたんじゃないかと思いたくなる。……だけど俺は、ああいった通常では考えられない事が実際にあり得てしまう事を、誰もよりもよく知っている。
記憶の底、失った記憶の中、唯一脳裏に焼き付いていた、美しく無慈悲な凍る炎。
それによってもたらされた、あの光景のように———————。