「」につける薬
とある病院の診察室。不安そうな表情の患者の前で、医者が深刻そうな表情でカルテを見つめている。
医者「驚かないで聞いてください。診査の結果、あなたは今、「」に関する重い病気にかかっていることが判明しました」
男 【「」に関する重い病気? 特に私の身体には特におかしなところは何もないと思うんですが……それって一体どういう病気でしょうか?』
医者「ええ、あなたの身体には何の異常もありません。異常が起きているのは、あなたの身体ではなく、あなたの会話文を結んでいる「」記号なんですよ」
男 [会話文? 「」記号? 一体さっきから何を言ってるんですか?》
医者「戸惑うのもわかります。かなり稀な病気ですからね。ですが、放っておくと「」はおかしくなっていき、そのうち取り返しのつかないことになってしまいます。幸いにも現在は、この病気に効く薬が開発されています。これを毎日、寝る前と起床直後の2回、必ず身体のどこかに塗るようにしてください。いいですか? 絶対にさぼってはいけませんからね?」
男 【はあ……。よくわかりませんが、そこまで強く言うのであれば、ちゃんと塗るようにしますよ}
そして、男は何だか納得のいかない表情を浮かべたまま家に帰宅する。
男 『ただいま)
妻 「おかえりなさい。診察はどうだった?」
男 [特に問題はなかったよ。何だかよくわからない病気にかかってるって言われたけど、薬を毎日きちんと塗れば大丈夫だってさ。どこにもおかしい場所なんてないのに、呆れたもんだよ】
男は馬鹿にした表情で妻にそう説明する。けれども、医者の言いつけはきちんと守り、処方された薬を寝る前と起床直後に塗るのだった。
*****
同じ診察室。経過観察のために訪れた男に対して、医者は安堵の表情で男に語りかける。
医者「経過は良好ですよ。もちろん何のこっちゃわからないとは思いますが、私が確認する限りではこの前よりも大分マシになっています」
男 「本当ですか? 私としてはまったく自覚はないんですが……}
医者「いえ、確かに薬の効果が出てきています。まだまだ完全に回復したと言うわけではないですが、半分程度は治ってきていると思います。今後もこの調子で薬を続けていってくださいね」
男 「あのー、そのことで相談があるんですけど。薬の頻度とかって落としたりすることはできないですかね? 薬代が高くて、もうちょっと負担を減らしたいなと》
医者「何を言っているんですか!? そりゃあ、目に見えて何かが起こっているようには見えないとは思いますが、これはかなり重たい病気なんですよ! 一時的であったとしても、薬をやめるなんてことをしたら、一気に病気が悪化してしまいます。いいですか? 毎日2回。サボることなく続けてくださいね!」
男 「はあ、わかりました……】
男はそのまま病院を後にしたが、納得のいっていない表情を浮かべていた。そして、その日の夜。いつも寝る前に塗っているはずの薬が引き出しにしまったままになっていることに、男の妻が気が付く。
妻 「薬塗るの忘れてるよ?」
男 〔ああ、別に一日二日、サボったって大丈夫だよ。というかさ、前々から医者が俺を騙して、この高い薬を買わせているんじゃないかってさえ思うんだよね。会話文とか、「」記号とか、訳のわかんないことばっかり言ってるしさ」
心配そうな表情を浮かべる妻をよそに、男はそのまま寝床についた。そして、一度塗らなかったんだから二度も同じだと、男のサボり癖はずるずると続いていき、次第に「」につける薬をいつしか全く塗らなくなっていったのだった
*****
医者「──────最近、薬を塗ってないですね?」
男 【{『確かに仕事に忙しくて、一回、二回は塗り忘れてしまったことはありますが……。ほんの数回ですよ』〉〉
医者「怒らないので、正直に言ってください。私が確認できる限りでは、明らかに病気が悪化しているんです。私はあなたのためを思って言ってるんです。もしこのままだと、緊急入院だって必要になるかもしれないんですよ!」
男 〔〔〔ああ、もう聞いてられるか! そんな風に俺の不安を煽って、高い薬を買わせるつもりだな! 】”}
突然の男の逆ギレに、医者は驚きのあまり声を失ってしまった。
男 〔【【何が、「」につける薬だ! 何が会話文だ! 訳がわからない! 薬を塗らなくったって俺の体はこうしてピンピンしてるし、悪いところなんて何一つないぞ! それに「」がおかしくなったからと言って、それが一体何になると言うんだ!]}]
男は医者の制止を振り切り、診察室を飛び出していった。家に帰っても男の怒りは収まらない。男は処方されていた薬を取り出すと、そのままゴミ箱に勢いよく投げ捨てた。
男 《ふん、何が「」につける薬だ。「」がなくなったって何も困ることなんてないじゃないか
妻 「あなた、帰ったの? そんなに大声で喚いて、一体どうしたのよ?」
自分の部屋にいた妻が、男の声を聞きつけ、リビングへと向かう。
男 『……なんだ? 息継ぎが上手くいかないような気がする
妻 「ねえ、どうしたの? 様子が変よ」
男 【息が吸えない? いや、なんなんだこれは?
妻 「ねえ、どうしたの? さっきから、ずーっと喋り続けてるみたいだけど? 入るよ?」
妻 「……」
妻 「あれ? 誰もいない?」
男 おい、何を言っているんだ俺はここにいるぞ。こうして、お前に向かって喋ってるじゃないか?
妻 「あなたの声が聞こえたような気がするんだけど、気のせいだったのかな?」
男 おい! 一体何が起きてるんだ!? 俺はここに……いや、ここは一体どこだ? 俺は一体今、どこにいるんだ?
妻 「あなた? いるの?」
男 俺からは妻の様子がわかるし、妻の話している言葉がわかる。それなのに、なぜ、こうやって喋っている俺の言葉が妻には聞こえないんだ?
男 何もわからない。俺がどうなってしまったのかも。ここが一体どこなのかも……。これが医者の言っていた取り返しのつかないことなのか? だったら、俺は一生このまま……。
妻はそのままキョロキョロと辺りを見渡し、不思議そうな表情のまま、リビングを出る。リビングには、さきほどまで男がいたという証拠すら、どこにも残っていなかったのだった。
男 ちょっと待て。今喋ったのは、誰だ?
「」を失った男は地の文の世界で、誰かを探すかのようにキョロキョロと周囲を見渡した。
男 お前は一体誰だ? 「」? 地の文? 一体何を言っているんだ?
これは失礼。ずっと、こうやって独り言を話していたからね。こういう話し方が染み付いてしまっているんだ。
男 訳がわからない。ここはどこなんだ? 一体、俺の身に何が起きてしまったんだ?
簡単だよ。君はあれだけ医者から注意されていたのに、「」記号がどんどんおかしくなってしまっていくのを放置してしまった。その結果、「」記号を失った君は会話文で成立していた世界から弾き出され、地の文の世界にやってきてしまったということさ。今はまだ完全に吸収されているわけではないが、そのうち、文頭についている君を表す男という単語も消えていってしまうだろうね。
男 わからない。一体、何が? なんで俺がこんな目に? そもそも、お前はなんでそんなことを知ってるんだ?
私も君と同じように、かつては会話文の世界に存在した人間なんだ。君と同じ病気で「」を失い、この世界へやってきた。だから、君の混乱も苦しみも理解できる。だけどまあ、診察室で君が医者に病気のことを伝えられる場面からずっと見ていたけど、正直自業自得という気もするけどね。
男 そんな……。だって、あいつはやぶ医者で、俺に薬を売りつけようとしていたんだ……。
まあでも、そこまで悲観することはないよ。この世界では、あらゆる会話文の世界を好き勝手に覗き込んで、好き勝手に語ることができるからね。やることも何もないからそれ以外にやることがないということはあるんだけどね。きっと君もそのうち慣れると思うよ。あはは。じゃあ、私も実況の真似事に戻るとしよう。
ああ……。嫌だ……。こんなはずじゃ……。
そして、「」を失った男はこの世界へと溶けていったのだった。真っ暗で何もない、この文字だけの世界に。