Chapter11-5 妹(4)
「――!」
まどろみ中、誰かの声が聞こえる。温かくて、優しくて、懐かしくて……何故か悲しくて。自然と万感の想いが込み上げる、そんな音が耳に届く。
何度も声は聞こえた。最初こそ明確に捉えられなかったそれは、次第に形を明瞭にさせていく。
おそらく通算六度目の声にて、ようやく内容が何なのか把握できた。
「お兄ちゃんってばッ!」
どうやら、兄を呼ぶものだったらしい。その兄とやらが誰を指すのか、間近で声が聞こえる時点で察しが付く。
気だるい体に力を込め、オレはおもむろにマブタを開いた。ベッドに横向きで寝ていたようで、部屋の様子が一望できた。
ごくごく普通の部屋だろう。五、六畳くらいの広さの室内にはデスクやタンス、本棚などの家具が置かれている。デスクの上には学校で使う教材とパソコンが広がっており、割と直近まで勉強が行われていたと分かる。
――なんて他人ごとのように語ったが、この部屋の主はオレで、昨晩遅くまで勉強していたのもオレだ。一般的な日本の大学生が持つ、何の変哲もない私室だろう。
ただ一つ。我が私室には今、異物が存在した。
「お兄ちゃん、さっさと起きてってば!」
それはベッドの傍らに立つ、先程の声の主だった。ショートボブの黒髪とアーモンド型の黒目を持ち、十七にしては些か小柄なものの、身内の贔屓目を抜きにしても美少女と言える。
彼女はオレの妹だ。今のオレにとっての唯一の家族。
「お前が先に起きてるなんて、今日は雪か?」
寝ぼけながらも口を開くと、妹はプクリと分かりやすく頬を膨らませた。
「失敬だよ、お兄ちゃん! 私だって、早起きする時くらいあるから!」
「いや、でもなぁ。体調は大丈夫か?」
「大丈夫じゃないなら、こうして起き上がってないよ。いらない心配なんかしてないで、さっさと起きてよ」
こちらが完全に覚醒したと認めた彼女は、そのまま部屋から出ていった。オレを起こすという目的を達成したためだろう。
「……ちゃちゃっと着替えるか」
オレは憂慮を湛えた声を漏らす。
妹の早起きに驚いていたのは、彼女の寝起きの悪さだけの話ではない。あの子は病弱なんだ。すぐに体調を崩してしまうので、大半をベッドの上で過ごしている。高校には通えているものの、最低でも週に一回は休む。
顔色からして、今日の具合が良いのは本当だと思う。でも、調子に乗って無茶されるのは勘弁願いたい。『次の日に倒れました』なんて展開は心臓に悪すぎるもの。
宣言通り手早く着替えたオレは、駆け足気味でダイニングへ移動した。先程の様子から、妹が朝食を用意していると踏んだんだ。
案の定、妹は食卓へ食事を運んでいた。
普段の料理担当はオレなので、彼女は手間のかかる料理はできない。今回もトースト、サラダ、目玉焼き、ベーコンといった定番のラインナップだ。しかも、目玉焼きやベーコンは少し焦げている。
とはいえ、あの妹が一人で準備を終えているとは驚いた。たいてい、最後はオレに泣きつくのに。
やはり、明日は雪が降るか?
そんな失礼な疑念を抱いていると、妹がこちらに気が付く。
「お兄ちゃん、食べよう」
「そうだな」
せっかく作ってくれたんだ。冷ませてしまうはもったいない。
オレたちは食卓に着き、二人そろって「いただきます」と唱和した。
おおむね、妹の料理に問題はなかった。どこにでもある、平和で平凡な美味しい朝食だった。
「普通に美味しい」
「普通って単語は余計。お兄ちゃんだって、一部の料理に特化してるだけで、基本的には普通でしょうに」
「その『普通』がいいんだよ」
「えぇ?」
たわいない会話を交わし、穏やかな朝の時間がすぎていく。
食事とその片づけを終え、食後のお茶をたしなんでいると、不意に妹が提案してきた。
「お兄ちゃん。今日は調子がいいし、買い物に付き合ってよ」
懸念していた通り、彼女は調子に乗り始めたらしい。
オレは眉を寄せる。
「買い物って、どこに行くんだ?」
「アキバ。溜まってる新作ゲームやらマンガの新刊やらを買いあさりたいんだよね~」
「それまた、大行軍になりそうだな……」
オレ以上のオタクである妹は、趣味の幅がとんでもなく広い。男性向けも女性向けも、だいたいは満遍なく味わえてしまうタイプだ。あくまでも、創作だから楽しめるみたいだが。
そんな彼女が『買いあさる』と表したんだ。色々な店を練り歩くのは確実だし、宅配必須の大荷物になるのも確定だろう。
正直、大人しく家で過ごしてほしいんだけど、これが妹なりのストレス発散なんだよな。下手に断ると、逆に体調を崩してしまう。
こういう場合は、黙って付き合ってあげるのが最善だ。いざという時は、兄であるオレが頑張れば良いんだから。
「ダメかな?」
少し思考に時間を割きすぎていたよう。心配げに妹が尋ねてくる。
オレは小さく笑い、首を横に振った。
「いや、付き合うよ。ただし、少しでも具合が悪くなったら、素直に申告すること。いいな?」
「うん。ありがとう、お兄ちゃん!」
こうして、オレたち兄妹は外出する運びとなった。
妹との買い物は、それはもうアグレッシブに進んでいった。『あの新刊、もう発売してたんだ。確保!』とか『おおおおお。このレトロゲーム、掘り出し物じゃん。買わねば!』とか『この同人誌、通販では売り切れてたのに。ラッキー!』とか。怒涛の勢いで商品を購入していった。
雑食ゆえに、回る店も多かった。アキバの全店を巡回したのでは? と疑いたくなるほど、あちこち駆け回ったよ。それなのに、妹は未だ瞳を爛々と耀かせている。趣味への情熱がすさまじい。
夕方。さすがに休憩しようと、近場の喫茶店に入った。コーヒーを啜るオレの前には、大量の荷物を抱えてニマニマと笑う妹がいる。その笑い方は……何というか、気持ち悪い。せっかくの美人が台無しだった。
まぁ、ここまで喜んでくれるのなら、買い物に付き合った甲斐があったというもの。オレも自然と頬が緩む。
「お兄ちゃん。わざわざ付き合ってもらっちゃってゴメンね」
ふと、妹が申しわけなさそうに口を開いた。そこには先程までの明快さはなく、気まずそうな空気があった。
やや強引なところのある彼女だが、ワガママな子というわけではない。彼女は彼女なりに、色々と考えて行動してくれている。今回だって、オレに気分転換してほしくて連れ出したんだろう。最近は、勉強ばかりで家にこもっていたし。
そういった妹の優しさは理解しているので、そう畏まる必要はない。オレは笑顔を向ける。
「気にしないでいいよ。オレも、お前とのお出かけは楽しかったからさ。連れ出してくれて、ありがとう」
「……そっか」
照れくさいのか、上がった口角をムニムニと両手で解す彼女。我が妹ながら、かなり可愛い仕草だ。
こんなに可愛いのに、どうして恋人の一人や二人、できないんだろうなぁ。
病弱で、学校にあまり通えていないせい。その答えが真っ先に出るけど、彼女の容姿なら時間は関係ない気がする。学生の時分だと、中身より外見を優先しがちだもの。
まぁ、外面しか見ない奴が実際に恋人へと名乗り出たら、オレが排除するんだけどな。
頬を染める妹を眺めながら、そんな益体のないことを考えていると、
「ねぇ、お兄ちゃん」
妹が、変わらぬ照れ笑いのまま口を開いた。
「どうした?」
「今日、楽しかったんだよね?」
「嗚呼。お前が一喜一憂する姿は、見てて飽きなかったよ」
「お兄ちゃん!」
「ははは。ごめんな」
「もう。……でも、そっか。本当に楽しんでもらえたんだね」
何気ない会話だった。日常の一幕にすぎない、たわいない掛け合いだった。
しかし、妹の真意は違った。そこに続くセリフは、場を凍り付かせるものだった。
「じゃあ、ずっと私と一緒にいようよ」
「……」
普通に捉えるなら、兄離れできていない妹の一言だが、オレは素直に受け止められなかった。
こちらの沈黙をどう感じたのだろう。妹は僅かに眉を寄せる。それから、テーブルの上にあったオレの両手を握ってきた。
「ずっと私と暮らそう? 今頷いてくれれば、絶対にお別れはやってこないから」
「お前……」
瞳を涙で潤ませ、必死に懇願してくる妹。しかも、『お別れ』なんて口にするものだから、思わず声を漏らしてしてしまった。
オレの反応を受け、妹は嬉しそうに笑う。
「お兄ちゃんも、私とお別れしたくないって思ってるんでしょう? だったら、ずっと一緒にいよう。唯一の家族同士、支え合って生きていこうよ」
それに、と彼女は続ける。蠱惑的な雰囲気をまとわせ、おもむろに言葉を紡ぐ。
「私ね。お兄ちゃんが望むなら何だってできるよ。だって、私はお兄ちゃんのことが――」
喋りながら徐々に身を乗り出す彼女。その口は眼前へと迫り、ついには唇が――
「とんでもないセリフを吐いているんじゃねぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!」
――触れ合うことはなかった。
突如として発生した絶叫とともに、何者かが妹を蹴り飛ばしたんだ。何者かの蹴りはかなり本気だったようで、妹は盛大に宙を舞う。だいたい、五メートル近くは吹き飛んだだろうか。
予想外の出来事に呆然としている間、何者かは容赦なく追撃を仕掛けた。倒れる妹にまたがり、拳の連打を放ち始めたんだ。
「私の顔で、何て発言してるのよッ! 私がお兄ちゃんをそんな目で見てるわけがないでしょうが。たしかに、恋人はお兄ちゃんみたいな人がいいなぁとは思ってるし、たまにオカズにはしてるけど、私がお兄ちゃんに抱く気持ちは、決して邪なものじゃないからッ。純粋な兄妹愛! お分かり!?」
気持ち良いストレートを連発する何者か――いや、今さら曖昧な表現の意味はないか。妹の上にまたがる人物もまた、妹だった。
疑問は多々あるけど、一つだけ良いだろうか。
「実妹の性癖を暴露されたオレは、どんな反応をすればいいんだ?」
愚痴にも似た呟きは、虚しく喫茶店に響いた。
次回の投稿は明日の12:00頃の予定です。




