Painful tears
私には年の離れた姉が居た。彼女の名前はアナベル。頭脳明晰で芸術を嗜み、音楽の才能を持ち、誰にでも優しく、誰かを慈しむ気持ちを隠さずに生きる彼女は、皆から注目され、絶賛され、尊敬され、そして愛された。
そんな彼女に憧れる者はもちろん多く、私もその一人であり、彼女に真似ようと、近づこうとして、私は学問や音楽、芸術、礼法に幼少期から力を入れて励んでいた。しかし私は彼女に近づくどころか、足下に触ることも出来ず、自分が所詮姉の下位互換であるということを悟るまでにはそう時間は要らなかった。そんな私を励まし、支えてくれたのは、メイドのオリビアだった。私は彼女のおかげで道を失わずに、何度もめげずに頑張ることが出来た。いつしか私は、自分でも気付かぬうちに彼女に劣情…慈愛や尊敬とは違った感情を抱くようになっていたのであった。しかし、私が十一歳の頃。小さな事件が起きた。
私がピアノのレッスンを終え、楽譜を置きに書斎へ入ろうとした時だ。
「ああ、アナベル様…美しいです。私はアナベル様より慕うべき相手を、神や天使、聖母以外には一生見つけることができないでしょう…。」
「ははは。妬いちゃうなぁ、その神とやらに。」
ドアの向こうから聞こえてきたのは、尊敬する姉と恋焦がれる我がメイドの、甘いやり取りだったのだ。何かを失った感覚が、音を立てて私に近づいてきた。その喪失感から私は、声が漏れるほどの薄いドアを、まるで西洋と極東を隔てる海のようにさえ感じたのだった。そしてその時初めて、私がオリビアに抱く劣情の名前を識ったのである。
告白するどころが自分の気持ちに気付く前に、一方的に、運命の悪戯によって失恋をした私であったが、めげることは無く、むしろ以前よりも学問などに精進した。尊敬する姉と、大好きなオリビア。その二人が幸せである限り、自分も不幸ではないと、だからそこ、二人に負けないぐらい自分も幸せであろうと、そう思ったからである。
そして月日は流れ、数ヶ月後。私の誕生日を祝うために、私達一家はとあるパーティー会場に招待された。たくさんの貴族が集い、食事や音楽を楽しんだ。私はそのパーティーで、ピアノを演奏することになっていた。自分の誕生日を自らの演奏で祝うというのは少し変な気持ちがするが、それでもたくさんの人に聴いてもらえるということで、前日より楽しみにしていたのであった。
しかしその楽しみは、あっという間に絶望に塗り替えられた。厨房から出た火が会場全体に燃え移り、火事となって、死者や重傷者が多く出てしまったのだ。その犠牲者の中には、私の姉も含まれていた。
私は三日三晩泣いた。その三日間の涙は、尊敬する姉を失った事によるものだ。しかし四日目からの涙は、姉を慕う彼女…オリビアが嗚咽の混じった涙を、私や両親…本来誰よりも悲しいであろう人々に隠れ、一人で流しているのを目にした為であった。私は二人が幸せならそれで佳い、そう本気で思っていたので、自分の劣情をかき消すことが出来ていた。しかし、姉は旅立ち、オリビアは泣いている。誰よりも辛そうに泣いているのだ。それを見て私は、今度は傷口に塩を塗られたような痛みを伴う涙を、心の中で毎日流すのであった。やがて心は萎み切り、もう、なんでも良くなったのだ。
あれから五年ほど経った現在、オリビアは前以上に私に、精神的にも物理的にも、距離を縮めるようになった。彼女は私に姉を視ているのだ。大きくなって容姿が似てきた私を視る時、彼女の目には姉が写っているのだ。だから私の髪の毛を触る彼女の手は、私に向けられたものでは無い。それが怖くて、辛くて、痛ましくて。だから私は彼女に髪を触られるのを避けているのだ。本当は髪だけでなく、自分の心身すべてをオリビアに預けてしまいたい。彼女への劣情の灯火はいつだって消えたことは無いのだから。彼女はそんな私を、今ならきっと受けいれ、抱き締めてくれるだろう。しかしその時、彼女の視界にいるのは、私ではないのだ。