人生山あり谷あり、一寸先は闇。後悔先に立たず
「タクちゃん、どうして?急にそんな事言い出すなんて?……僕、何か悪いことした?……」
立て続けに煽った癖の強いアイラモルト。それでも全くぶっ飛んでくれない意識の隅に、カウンターの隣から上ずった声が聞こえた。
「お前はそんじょそこらの女より、よっぽど尽くしてくれたけどさ」
焦った声を出した年若い男の子の隣から、全くいけ好かないタイプの男の声が重なった。
何だよ、その上からのモノ言い。俺様男子かよ……
『唯我は、あたしが家のコト、ぜーんぶしてるの当然だと思ってるでしょ』
ついさっきまで、自分の隣に座ってた愛奈。
フワリとしたスカートの上でギュッと握りしめた手。うつむいた顔。クルンと綺麗にカールさせた睫毛にいっぱい涙を溜めて……
ごめん。いつだって感謝してる。でも、愛奈だってわかってるだろ。医者の仕事がトンデモなく忙しい事をさ。
労働基準法なんてガン無視の研修医時代を乗り切り、これと思った先生に貼り付いては手術の技術を目で盗み。複雑に絡み合った医局の人間関係を上手く利用しつつ、やっとのことでスタート地点に立った所なんだからさ。
『そんなコト、わかってる。わかってるよ……』
愛奈が唇を噛んだ。
ああ、愛奈。拗ねた顔も何て可愛いんだ。
そのプルプルのピンクの唇。早く嚙み嚙みしたい……
イケナイ妄想に突入しそうになった脳ミソに信じられない言葉が飛び込んできた。
『あたしね、同僚のシンジ君にプロポーズされたんだ。
一緒に暮らしてる人がいるから、お付き合いはできないって何度も断り続けてたのに。
それに、あたし言ったの。付き合ってる人は女の人だって。
そんな事情も全部、ぜーんぶわかった上で………シンジ君。
それでもどうしても君じゃなきゃダメなんだって。一生大切にするって』
えっ?私だって愛奈のコト、愛してるし。一生大切にするし!
『もういいの……』小さいけれど、きっぱりとした声。
えっ?
『だいたい、唯我との結婚。ウチにしたって、唯我のトコにしたって、どっちの両親にも祝福されることもないし……それにあたし……』
愛奈はその可愛い顔を上げ、今迄見せことのない硬い表情で言った。
『赤ちゃんが欲しいの』
ちょ、ちょっと待て!ウチは無理だけど、愛奈の両親の事は、時間をかけてジックリと説得していこうって。
それに、今の医学なら同性同士でも子供を持つ事は可能だって、愛奈も知ってるだろっ!
『もう決めたコトだし。それにマンションに帰っても、あたしの荷物はないから』
えっ⁇
『ほらね。唯我、もう何日帰って来てないかわかってる?あたしが、荷物を引き払ったのも全く気づいてないでしょ』
ちょ、ちょっと待て!!!
は、話せばわかる!!!
『サヨナラ』
背の高いスツールから、滑り落ちるようにして降りた愛奈は、後ろも振り返らずに店を出て行った。
後に残されたのは、愛奈の唇みたいなサクランボが載せられた口のつけられていないカクテルのみ……
「メシは美味いし、オレの身の回りの世話もカンペキだしさ」
「じゃあ、じゃあ。どうして……」多分涙ぐんでいるんだろう。男の子にしては少し高めの声が震えている。
「やっぱさあ、女の方がいいからな」
頭の中で何かが弾ける音がした。
男は立て続けに「新しい彼女と暮らすから、今週いっぱいでお前の荷物引き払えよ」と、高圧的に言い放った。
再び、何かかプチリと音を立てた。
「そ、そんなコト急に言われたって」焦りまくる男の子の様を楽しむように、
「親にでも友達にでも頼みゃいいだろ」へらへらとした口調。
「そんな、僕に頼る所がない事知ってるくせに……」
「安いアパートでも、トランクルームでも何でも借りりゃいいじゃん。あ!でもお前プーだから、金ないっか」
小動物をなぶって悦に入るようなその男の態度に、最後の糸がブチ切れた。
「おい、お前!!!」
いきなり椅子をくるりと回され、見ず知らずのデカい女にネクタイの根元を掴み上げられ、目を白黒させている男。
ある程度金のかけられたスーツ。時計はカルティエのタンクか。しかし、一番ダメなのは顔。チャラい。チャラすぎる。
何だ、こんな男の何処がいい?愛奈!!!いや違う。コイツじゃないのは重々承知。
人生山あり谷あり。一寸先は闇。後悔先に立たず。
いつだって大事なものは、この手から滑り落ちていった……
本当はもっと大切にしたかった……
「速攻で引っ越し業者を手配する。いつがいいか言え!!!」
「な、何なんだよお前!」ビビりまくる男に今度はこっちが高圧的に言い放った。
「五月蝿い!!!さっきから聞いてりゃ、せっかくの酒が不味くなる!!!こっちが全て引き受けてやるからさっさと言え!!!」
男の隣に視線を走らせると、少年と言ってもおかしくない線の細い男子。
ビックリしたように目を見開いて。その一点の曇りもない黒曜石の様な瞳が印象的だった。
それが、愛奈にフラれた自分と、クズ男にフラれた風雅との初めての出会いだった。




