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皇帝陛下の寵妃

それは遠い世界の話

作者: 三里志野

 リネットにとって、2つ歳上の姉ノエルは憧れと同時に妬ましさを覚える存在だった。


 姉はリネットから見てもとても可憐な見た目をしていた。姉が微笑むだけで、周囲の空気は柔らかくなり、男たちは癒されるらしかった。

 そればかりか姉は賢く、さらに領主の娘らしい気遣いや心配りを自然とできる人だった。


 それに比べてリネットの外見は地味で、頭だって良くないし、とても姉のようには振る舞えなかった。




 リネットには小さな頃から慕う男性がいた。帝国守備軍の軍団長の嫡子である5歳上のラルフだ。

 ラルフはリネットにいつも優しかった。だからリネットはいつかラルフの花嫁になれると信じていた。


 しかしある時、リネットは気づいてしまった。ラルフが見つめているのは姉だった。彼がリネットに優しいのは、リネットが愛する人の妹だからに過ぎなかったのだ。


 姉もまた、ラルフを愛していた。ふたりがそっと笑み交わす姿を見て、リネットは唇を噛むことしかできなかった。

 やがて、姉とラルフは婚約した。ふたりはもちろん、両家の親たちにとってもそれが当然のことのようだった。




 帝国と隣国との間で国境を巡る戦が起こったのはその直後のことだった。ラルフは守備軍の兵士として、姉に見送られて戦に行った。

 リネットも毎日ラルフの無事を祈り、彼の帰りを待っていた。


 司令官として皇子が率いてきた中央からの援軍もあり、戦は半年足らずで帝国側の勝利に終わった。

 領主である父は祝宴を開いた。リネットも姉とともに飲み物を運んだりして手伝った。


 途中、母がリネットに囁いた。


「リネット、お父様のいらっしゃる天幕には近づかないで」


「どうして? あそこには皇子様もいらっしゃるのでしょう。少しくらい見てみたいわ」


「その皇子様が問題なのよ。もしも皇子様に気に入られたら、都に連れて行かれて、もう私たちとは会えなくなってしまうかもしれないわ」


「そんなの嫌よ」


「でしょう。だから、おまえだけではなくて、ノエルや他の若い娘たちにもそう伝えてちょうだい」


 リネットは頷いた。

 その後、宴の手伝いをしている娘たちと顔を合わせるたびに、注意を促していった。

 しかし、姉の姿がなかなか見つからなかった。このあたりの若い娘たちの中で一番、男の目を惹くのは間違いなく姉だ。姉にこそ母の言葉を伝えなければならなかった。


 ようやく見つけた姉は、ラルフと一緒だった。ラルフが何かを姉に囁きかけ、姉は嬉しそうにラルフに向かって微笑みかけていた。リネットには踏み込めない、この上なく幸せそうな空気だった。


 ラルフはリネットの願いどおり無事に帰ってきた。ただし、姉のもとに。

 リネットは姉が羨ましくて仕方なかった。姉ならどんな男だって捕まえられるだろうに、どうしてよりによってラルフを夫に選ぶのだ。姉が別の男を選んでいれば、きっとラルフはリネットのものだったのに。

 リネットは姉とラルフのいる宴の場から逃げ出した。胸の痛みに耐え切れず、ひとり静かに泣いた。




 翌日、リネットは母から驚きの話を聞かされた。姉が皇子の目にとまり、皇帝の妃として宮殿に連れて行かれることになった、と。

 途端にリネットは思い出した。昨夜、姉に伝えなければならなかった言葉を、リネットは伝えていなかった。


 父も母も兄も、姉が皇帝の妃になることを嘆いた。だが、姉は領主の娘らしく毅然としていた。

 リネットは自分の罪を口にすることができなかった。ただ、母とともに震える体で姉に縋りついた。


 話を聞いたラルフが慌てて屋敷にやって来た。ラルフが姉に「一緒に逃げよう」と言うのを、リネットは扉越しに耳にした。しかし、その言葉も姉の決意を崩すことはできなかった。

 姉に別れを告げられて帰って行くラルフの顔は、今までに見たことのない悲壮な表情を浮かべていた。




 姉はやがて、都へと旅立って行った。姉は最後まで、涙を見せなかった。

 姉を連れ去って行ったのは、皇帝の妃のためにしてはこじんまりとして、派手さの欠片もない行列だった。


「皇帝陛下の後宮には何十人もの妃がいるからな。こんな田舎の娘がひとり加わるくらい、大したことではないんだろう。結婚式みたいなことも何もないのだろうし」


 姉がいなくなった屋敷で、兄がボソリとリネットに教えてくれた。


「お姉様は後宮で……」


 幸せになれるのか、と続けようとしてリネットは口を噤んだ。姉が確実に得られるはずだったそれを奪ったのはリネットだ。


「だけど、ノエルは後宮でそれほど長く暮らすことはないはずだ。あっという間に帰って来るかもしれない」


 ふいに明るい声で兄が言った。


「どういうこと?」


「皇帝陛下はもうずいぶん御高齢らしいから」


 リネットは目を見開いた。

 リネットは皇帝陛下というのは文武ともに完璧な若い男だと思い込んでいた。姉の夫になるのだから。

 だがよく考えてみれば、皇帝は先日の皇子の父親なのだ。若いはずがなかった。


「ならば、お姉様はお祖父様くらいの歳の方のお妃様になるの?」


「そうだよ」


 リネットたちの祖父は一昨年亡くなった。いつ死んでもおかしくないような男のもとに、愛する人と結婚するはずだった姉を追いやってしまった。

 もし、自分が姉の立場だったらと思うと、リネットは目の前が真っ暗になるようだった。




 数日後、リネットは街で久しぶりにラルフに会った。ラルフは姉を見送りに来なかったので、あの悲壮な顔を見たのが最後だった。

 ラルフは少し痩せて、まだ表情には哀しみが漂っていたが、リネットに気づくと笑みを見せた。


「やあ、リネット。元気そうだね」


 ラルフが口にしたのがただの挨拶なのか、それとも嫌味なのかリネットには判断がつかなかった。


「ラルフは大丈夫なの?」


「もちろん大丈夫だよ。リネットも聞いただろう? 皇帝陛下はもうすぐ死んで、ノエルは帰って来るんだ。ここに。俺のところに」


「ラルフ、街中でそんなことを言ってはいけないわ」


 リネットは慌てて止めたが、ラルフは笑みを浮かべたまま続けた。


「ノエルだって俺を待っててくれたんだ。俺もノエルを待つよ」


「ええ、きっとお姉様はラルフのところに帰って来るわ」


 そう言いながら、リネットは息苦しさを覚えていた。

 姉がいなくなったところでラルフはリネットのものにはならなかった。そればかりか、リネットはラルフから愛する人を奪って彼の心を壊してしまったのだ。




 しばらく経って、都から皇帝陛下崩御の報せが届いた。それを祝うつもりはもちろんないが、いつ姉が帰郷するかと皆が待ち望んでいることは明らかだった。

 しかし、いくら待っても姉は戻って来なかった。


 リネットの両親はリネットとラルフの婚約をラルフの家に打診した。ラルフの両親はそれを承知したが、ラルフ本人が首を縦に振らなかった。


 リネットも夢にまで見たラルフの妻になることを、素直に喜ぶことはできなかった。

 姉を決して忘れないであろうラルフの妻になることは、リネットへの罰に違いなかった。それでも、ラルフのそばにいて、壊れた彼の心を支えることが自分の役目だとリネットは思っていた。




 前皇帝の死去と、新皇帝の即位から半年が過ぎた頃、旅人によって都では知らぬ者がいないという、ある皇帝の妃に関する噂がもたらされた。

 前皇帝の後宮に入ったその妃は瞬く間に皇帝の寵を得たものの、一月とたたずに皇帝が亡くなったために後宮を出されるはずだった。ところが、彼女はそのまま新皇帝の後宮に残り、皇子時代からの妃たちを押し退けて寵妃の名を欲しいままにしていると言う。


 それを聞いた両親や兄たちは困惑していた。リネットの中でもその寵妃と姉とはうまく結びつかなかったが、姉のことに間違いないと思われた。

 リネットがどんな男も捕まえられるはずだと思っていた姉は、2代の皇帝を捕らえて見せたのだ。

 ラルフの前で幸せそうに微笑んでいた姉が、家族にも涙を見せまいとしていた姉が、最初からそんなつもりで後宮に向かったとは思えない。きっと何かが姉に味方して、そういう結果をもたらしたのだ。




 リネットはラルフの花嫁になった。

 だが、相変わらず哀しそうな微笑しか浮かべないラルフの隣で、リネットも心から幸せな顔をすることなどできなかった。

 それでも、自分の夫になった愛するラルフに、リネットは妻としてひたすら尽くした。ラルフもリネットに優しかった。だから、ラルフが時たまリネットを「ノエル」と呼び違えても、リネットは笑って耐えた。




 翌年、ラルフは軍の仕事の関係で都に赴くことになった。宮殿にも上がるという。

 もしかしたら、姉にも会うのだろうかとリネットは思った。姉と再会すれば、ラルフはリネットのことなど忘れて今度こそ姉を攫い、逃げるかもしれない。


 皇帝の寵妃を拐かすなど、成功する確率は低い。だけど、ラルフが一瞬だけでも昔のように笑えるなら構わないとリネットは思った。

 都へ向かうラルフに対しリネットは「気をつけて」とは言ったが、「帰りを待っている」とは口にしなかった。これが本当に最後かもしれないと、小さくなっていくラルフの姿を見つめ続けた。




 一月半後、ラルフとともに都に行っていた義父が屋敷に戻ってきた。ラルフの姿がないことにリネットは失望したが、義父が言った。


「ラルフは領主殿のところに寄ってから戻る。もう少し待っていろ」


 義父の言葉を信じて玄関先でリネットが待っていると、やがて懐かしい姿が見えてきた。ラルフはリネットに気づくと駆け寄り、しっかりと抱きしめた。


「ただいま、リネット」


「ラルフ、お帰りなさい」


 ラルフの予想外の行動に戸惑いつつ、リネットは彼を見上げた。ラルフは、まるで昔に戻ったような明るい顔でリネットを見つめ返した。


「本当は少しでも早くリネットに会いたかったんだけど、ノエルから君の実家に土産や文を託されたから、先に届けて来たんだ」


「お姉様に会ったの?」


「ああ、皇帝陛下が特別に許可をくださったんだ。ノエルはすごく高価そうなドレスを着て、たくさんの宝石を身につけて、でもそれが当たり前のように堂々としていて、話してみれば昔のノエルのままなんだけど、やっぱり俺のノエルはもういなかった」


 ラルフの顔に少しだけ淋しそうな表情が浮かび、だが、またすぐに元の笑顔になった。


「リネットと結婚したと話したら、妹をよろしくってさ。ノエルも陛下に大切にされて幸せそうだったよ」


「ラルフはよかったの、ここに帰って来て?」


 リネットが思わず尋ねると、ラルフの顔は真剣な色に変わった。


「都にいる間、早くリネットに会いたくて堪らなかった。今まで俺はリネットにとって良い夫ではなかったと思う。それなのに、ずっとそばにいてくれてありがとう。これからも俺の妻でいてくれる?」


「ええ、もちろんよ」


 リネットが微笑んで答えると、ラルフはリネットをその胸に抱き寄せた。




 その後、ラルフがリネットを「ノエル」と呼ぶことはなくなり、リネットが感じていた姉の存在は徐々に薄れていった。

 リネットはラルフとの間に4人の子を儲け、夫を支える良き妻として幸せに暮らした。


 時々、都から皇帝の寵妃の噂が届くことがあったが、もはやそれはリネットからは遠く隔たった世界の話に聞こえた。

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