~~ 津 波 ~~ (30秒で読める掌編)
この夏に地震があって、長屋から火事が起こり何人も死んだ。四才のキクの家も全焼だ。
しかし家族と安治川に逃げたので命は無事だ。震災後は大工が忙しく建築の順番がまわってこないため暗くて狭い蔵に住んでいる。
そんなある日、姉のタエが父ちゃん迎えに行こ、と誘った。キクはおじゃみを放り出して草履を履く。ばあちゃんが布団の中から「気ぃつけてな」 と笑顔を向ける。
するといつものように、土間の隅から頬から下を両手で覆った赤い着物の女の子が出てきた。そして「スエもついてこ」 という小さな声もした。
これはキクにしか見えぬお化けだ。キクは聞こえぬふりをしてタエと一緒に夕日の堤を走る。
橋の袂には小舟がつながれている。父ちゃんと兄ちゃんが堤防をあがってくるところだ。魚の入った籠を重そうに持っている。
と、耳元で「あ」 という声がした。キクはそれにも聞こえぬふりだ。スエの気配が疎ましいのだ。突然、景色が上下に激しく動いた。キクとタエがこけた。父ちゃんが二人を抱える。舟に向かおうとしたが地響きの中「あかん」 という声がはっきり聞こえた。
キクの目の前にスエがいる。父ちゃんが走っているのにスエは静止している。そしてゆっくりと両頬の手をはずした。
「川へ逃げたらこないになる」
スエの顔の鼻から下がない。キクは「ぎゃあ」 と叫んだ。
スエの目玉と頭頂部だけが地面を這って追いかけてきた。切り離された腕と、ばらばらの指も。火事や川へ行けと叫ぶ人々の怒号の中、キクは川はあかん、と叫んだ。
ばあちゃんを背負った兄ちゃんと出会う。川の水がどんどん引いてきている。ばあちゃんも「ここあかん」 と叫んだ。キク一家だけが人々と逆方向の丘へかけていった。
再度スエの声。それをキクが父ちゃんに伝える。
「半鐘のはしご登れて、はよはよ」
一家がはしごを上った直後、大阪湾から来た津波が迫った。橋や舟が壊れ人々が溺死した。キクはばらけて見えなくなったスエを泣きながら拝んだ。