死んだ少女(2)
紅い瞳が目に入った瞬間、頭より先に体が動いた。男は少女に跳びかかり、床に押し倒し馬乗りになると、その細い首に手をかけた。
少女の体からは血と共に、先ほどから感じていた、甘い酒に似た香りがした。人間ではない者の匂いに、疑惑が確信に変わった。
「バケモノがどうしてここにいる?」
「どうしてここにいるとは、恩人に対して失礼な物言いじゃのう。ここは予の塒じゃ。予がいるのは当然じゃろう。
それに、予がここまで運ばなければ、そなたは今頃、獣の餌になっておったぞ」
「恩人だと……」
男が信じられないといった調子で呟くと、死んだ少女の姿をしたバケモノが、顔を歪めるように笑った気がした。気がしただけで、本当のところはどうかわからない。
このまま締め上げようかと思ったが、急に腕に冷たいものが触れた。
それが少女の手だと気づくには、少しだけ時間がかかった。
「このまま予を殺す気か?」
男は黙って、腕に力を込めた。子供のか細い首など力を入れれば、容易く絞めあげられる。
「そなたに予は殺せぬ。一度殺し損ねた者が、今度こそ殺せると思うか」
「試してみるか?」
徐々に力を込めていくが、少女は静かに微笑んだ。
「無駄じゃ。そなたがいくらこの首を絞めようとも、予の息の根を止めることは出来ぬ」
「……そのようだな」
殺す気で首を絞めているにも関わらず、喋り続ける少女に、男も顔を歪めた。
いくら首を締めたところで、この少女を殺すことはできないだろう。今、話をしているのは、少女の姿を借りたバケモノで、本物の少女はこの首を切られ絶命した。言葉を知らず、命乞いも出来ずに死んでいった。
不思議なことに、首には傷痕すら残っていなかったが、もう一度首を切り落としたとしても、目の前の化け物は、喋り続けてくるだろう。
「納得したか?」
「あぁ」
男が手を放すと、少女もどこか名残惜しそうに手を放した。
「お前はいったい何者だ?」
「予は、そなたらが狙うとった獲物じゃ。バケモノと呼びたければ呼ぶがいい」
『バケモノ』と、自ら名乗った者の声は、少女の声にしては低く、化け物と呼ぶにふさわしい声だった。
男は溜息をつくと、少女から離れ、寝台の端に腰を下ろした。
相手が何を企んでいるのかもわからないから、一先ず元にいた場所に戻ったが、目の前のバケモノに、対抗する策があるわけでもなかった。
月の眷属、吸血鬼、彼らへの呼び方はいくつかあるが、今、目の前にいるこのバケモノは何と呼ぶべきか、男は迷った。死んだ少女の姿で笑うこのバケモノには、皆が単純に人食いのバケモノとして呼ぶ『月の眷属』の呼び名はふさわしくないように思えた。刃を交えた時にも思ったが、このバケモノは、皆が想像するバケモノより、もっと恐ろしく、不可思議な存在だ。人間がおいそれと手を出していいものではない。
それがどうして人間を助けたりなどしたのか、男には理由が全く思いつかなかった。
男が傍を離れる間も、少女は紅い瞳をずっと男に向けていたが、見張られているようには感じられない。獲物を見るにしても穏やかで、単に様子を見ているだけのようにも見える。
隙だらけにも見えるが、逃がす気はないだろう。例え、この小屋から出られても、森からは出られないような罠を仕掛けている可能性も高い。どう足掻こうが、男に逃げ道はない。
男が覚悟を決めていると、少女は、急に男の目の前にやってきて、小さな手で男の頬にそっと触れた。
「何だ?」
生きているとは思えない冷たい指に、男は体を強張らせ少女を睨んだ。
しかし、少女は気にせず、両方の手を顔に添え、己を睨みつける男の目をじっと覗き込んだ。
「そなたは……もしかして、目が見えぬのか?」
自分を見つめる紅い瞳に、男は一瞬、本当のことを話すべきか迷って、軽く頷いた。
「そうだ」
答えて男は目を細めた。
バケモノを前にして、あからさまに警戒心を見せつつも、近づいても抵抗はしないことに、少女も疑問を持ったのだろう。それにしても、こんな短時間で見えていないと気づかれるのは、これが初めてで、男は驚いた。
男の目は、全く見えないわけではないのだが、見えているとは言えないほどにしか、見えなかった。
今も、少女が動く度に、香りは強くなっているのに、伸ばした両手すら、男にはぼんやりとしか見えなかった。
だから、男には目の前で起きていることすら、現実のことのようには思えなかった。