灰被りの魔法使い(4)
『月の眷属』と呼ばれる者たちを〈灰色〉は知っている。
しかし、その存在をその目で見たことは、今日まで一度もなかった。
裏路地の影の中、漂う甘い匂いに、〈灰色〉は襟巻を掴み、己の口をしっかりと覆った。この程度の装備では、気休め程度で何の効果もないことは、〈灰色〉も理解していた。
何もしないよりもマシだという気持ちと、例え無意味なことだとしても、少しでも生き延びることができるならばと、祈るような気持ちで襟巻を掴んだ。
全身から汗が湧き出す。全身黒づくめの服を着ているからではない。この汗が、この町の暑さから流れたものでないことは、〈灰色〉自身がよくわかっていた。
暑い筈の背中が冷たい。恐怖が己を支配しようとしていることを〈灰色〉は感じ取った。
「あらあら、あらあら、おかしなことがあるものね。おかしなことがあるものね」
路地の奥から、女の声が響く。場違いな明るく暢気な声色と頭の中をかき乱すような甘ったるい匂いに、恐怖は吐き気へと変わっていく。
女の服は、赤く濡れていた。骨の浮かぶ痩せこけた体には似合わない、薄い下着のような服は、血の臭いを漂わせ、その手には人間の腕があった。左右どちらかわからない片方の腕だけが、女の手の中に抱えられていた。
〈灰色〉は、全身の身の毛がよだつのを初めて感じた。
目の前の光景を理解しようにも、頭と心が受け入れない。呼吸すらまともに出来ず、心臓が激しく脈打つ。
月の眷属は、時には、人間の姿をしているとことは〈灰色〉も知っていたが、今、目の前にいるそれは、人間と同じ姿形をしていても、一の目で、生き物ではないとわかる、おぞましいものであった。
髪は乱れ、紅く染まった双眸は、〈灰色〉を映している筈なのに、何処を見ているのかもわからないほどに虚ろで、若い娘のような顔立ちと姿をしているのに、手足は老人のようにしわだらけで、骨と皮しかない。皮膚には、血が通っているようには見えず、病に伏せる者ですら持つ、最後の生気すら感じられない。死体が動いているとしか言いようがない。人ならざるバケモノと呼ぶのに相応しい。