灰色の少女(4)
「お前は何者だ?」
〈男〉は再び目の前の少女に問い詰めた。低く威圧的な声にも、〈灰色〉は決して怯んだ様子も見せず、毅然とした態度で答えた。
「私は〈灰色〉。あなたをお守りする為に、ここにいます。私はあなたの敵ではありません」
「敵ではない」と、告げてきた少女の顔を見て、〈男〉は顔をしかめた。
「腹の傷を開いたのはお前じゃないか」
町で、住人達に罵りを受け、虚ろな目で〈男〉に向かって刃物を突き付けて来た娘が、〈灰色〉と名乗るこの少女だ。
反論の言葉に、顔を上げた〈灰色〉の目から光が消えた。今、治療を施していることでさえ、どこまで彼女の意志かわからない。
「私のことが信じられないと言うなら、信じなくても結構です。私が勝手に、あなたのことを守らせていただくだけですから」
光のない目が〈男〉を見つめ返す。
今の〈灰色〉のような目をした者達を〈男〉はよく知っている。〈男〉が育てられた屋敷の者達や町で〈灰色〉に暴行を加えていた者達が急に手を止めた時、同じような顔をしていた。月の眷属による人間への支配、その力に当てられた者は、皆、目の前のことすら、わかっていなかった。
「お前は、何故、俺を守ろうとするんだ?」
「あなたを守るように言われたからです」
「誰に?」
「わかりません。わかりませんが、私にとってあなたは、守らなければならない存在だと言われたのです」
〈灰色〉の答えに〈男〉は溜息をつくしかなかった。わからないと言うのは、嘘ではないだろう。〈灰色〉は〈彼女〉から口止めをされているのだろう。
〈灰色〉がここにいることも、全て〈彼女〉が仕掛けたことだ。
何故、〈彼女〉が、このようなことを仕組んだのか、その理由も〈男〉には見当もつかなかった。町で見つけた遺体やあの仮面の少女が関係するのかもしれないが、何がどう繋がるのか、〈男〉には、わかるわけがない。
人間ではないバケモノ、月の眷属である〈彼女〉の考えが、人間に理解できるわけがない。
自分は、〈彼女〉のことを何も知らない。共にいても、〈彼女〉が何を感じ、何を思っていたのかも知らない。
そのことに気付いた瞬間、〈男〉は急に、背筋から冷えていくような感覚が〈男〉の身を襲った。
『余計なことを考えるな』
何度も心に刻まれた言葉が頭を過ぎる。治療されたばかりの傷が、急に痛み始めた気がした。
何も考えるな。何も気づくな。何も知ろうとするな。何も見るな。どうして、してはいけないのかも、考えてはいけない。疑問に思ってはいけない。目の前のものに従え。何も考えるな。
頭の中で繰り返される言葉。その言葉の重さを、〈男〉はよく知っている。
今の〈灰色〉は、〈男〉が育てられた屋敷にいた者達と同じ状態だ。そこから抗う術を〈男〉は知らない。殺す他に、終わらせる方法を知らない。
『余計なことを考えるな』
呪いとも称された言葉が頭の中で繰り返される。何も考えるなと、己自身に言い聞かす。何も考えなければ、何も知らなければ、何もしなければ――
「大丈夫ですか?」
突然、思考の外から、細く小さな手が伸ばされた。生きた人間のぬくもりが、〈男〉の腕を掴んだ。
「傷が痛みますか? 痛み止めはありませんが、少しでも楽な姿勢を……」
少女は、〈男〉の目を見つめ、喋った。濃い蜂蜜のような色をした瞳が、〈男〉を見つめ返していた。先程まで虚ろだった少女の、〈灰色〉の目は、確かに〈男〉のことを見ていた。
〈男〉はまるで信じられないものでも見るかのように、〈灰色〉に目を向けた。月の眷属に支配され、自らの意識を取り戻した者を〈男〉は見たことがなかった。皆、虚ろな瞳で一方的な言葉を発するだけで、目の前にいても〈男〉のことを見ていなかった。どうすることもできなかった。命を奪うことでしか、全てを終わらせることができなかった。奪うことしか出来なかった。
関わった時間が僅かだったからだろうか、これも〈彼女〉の力だろうか、頭の中に、余計な妄想が〈男〉の頭に次々と湧き上がる。もし、誰か一人でも、同じように目を覚ましていたなら、違う結果になりえただろうか。
起きてしまった過去は覆せないとわかっているのに、目の前で起きた、都合のいい悪夢のような現実に、思わず縋り付きたくなった。奪う必要のない可能性が、たった一つでも存在するならば、その可能性を生み出すものに、この身をゆだねてしまいたかった。
かつて、〈男〉が主を殺して屋敷を出た後、残された者達は冬を乗り越えることができなかった。
『余計なことを考えるな』
老人の言葉が繰り返される。
あの日、用意された『肉』の言葉に耳を傾けなければ、主の願いを聞かなければ、彼らは冬を越せたのだろうか。