ぬくもりと傷痕(1)
あの日、町に行こうと言い出したのは、〈少女〉からだった。
理由は大したものではなかった。今は子供の姿になってしまったから、その体に合う服を買い求める為だとか、〈男〉にまともな食事をさせたいとか、大した理由ではなかった。
だから、〈男〉は、あの日、〈少女〉が何を考え、町に行ったのか知らなかった。
否、知っていても〈男〉には、〈少女〉を止めることなど、きっとできなかった。
迫りくる別れの時に、先に手を離したのも〈少女〉の方だった。
海に向かって森を抜ければ、高い塀に囲まれた、石造りの港町がある。
〈男〉が以前いた町に比べたら小さな町だが、海の向こうの町とも交流があり、交易で栄えた町で、〈男〉も森に向かう前に訪れた。
町の中央には広場、港の方には市場もあり、昼間でもよく霧が出て日当たりの悪いことを除けば、気候も涼しく、住んでいる人たちも穏やかで、そこその賑わいのある田舎町だった。バケモノ退治の為に寄ったのでなければ、のどかないい町だと思っただろう。
森と町を隔てる塀には、森を抜ける街道に向け簡易な門と関所が設けられていて、〈男〉も〈少女〉と共にそこから堂々と町の中へと入って行った。
「意外にあっさりと入れるものだな」
関所の門を通り抜け、少し離れた所で、〈男〉は数歩後ろからついてくる〈少女〉に振り返った。
〈少女〉も、日除けに巻いた布の影から、薄く笑って返した。
「予が出るまでもなかったな」
町に来る前に、〈男〉は〈少女〉といくつか取り決めをした。
その一つが、町にいる他の人間への対応についてで、月の眷属である〈少女〉が話しかければ、昼間でも人間は月の眷属の力で意識を失いかねない。それ故に、〈男〉が対処する算段となっているが、余所者である〈男〉では対処できないような問題があれば、〈少女〉の力で誤魔化すつもりだった。
今回は、事前に〈少女〉に言われた通りに答えただけで、簡単に町に入ることが出来た。
「関所を設けているわりに、検問の審査はずさんだな」
「そうじゃろうな。ここで止めたいのは入る者ではなく、出る者の方じゃ。
そなたらも森に行く前に、余計な悪さをせぬように、釘を刺されたはずじゃ。まぁ、無駄に終わったがのう」
「森のバケモノを警戒しているなら、何故、町に入る方ではなく、出る方を警戒するんだ?」
「予も詳しいことは知らぬが、町の人間は、バケモノは森から出られないと思い込んでおるらしい。
町を取り囲むこの塀にも、魔法使いが何やら呪いをしておるそうで、月の眷属は町に近づけぬようなっておるらしいぞ」
「それは……効果はあるのか?」
「見ての通りじゃ」
〈少女〉は〈男〉の顔を見上げ、意地悪く笑って見せた。
月の眷属は、昼間は力を失い弱ると聞いているが、弱った体でさえ止めることができないのなら、その呪いとやらは、あってもなくても同じことなのだろう。
「ただの気休めか」
元気そうな〈少女〉の姿に〈男〉は溜息を吐いた。これまで長く伸ばしていた前髪が切られ、薄曇りの空でさえ、〈男〉の目には眩しく感じる。着なれない上等な服を着ている所為か、〈少女〉よりも〈男〉の方が、気がまいってしまいそうな気分だった。
「そうでもないぞ。このような田舎町ではな、月の眷属が寄りつかないと知ったならば、人間はこの町から離れがたくなる。町に定着する者が増え、離れる者が減ってしまうと、流石に我々も手が出しにくくなるものじゃ」
「人間が町に居つく方がお前達には困るのか?」
「人間も、すっと同じ人間の集団の中にいては犯罪はやりにくかろう? それとまぁ、同じようなものじゃ。
いつまでも同じ人間ばかりの所にいては、我らもやりにくい」
「……お前達は、人間のことなど気にも留めていないのかと思ったが、そうでもなかったんだな」
「そうでもない……いや、そうじゃな。我々は人間には興味はない。興味ないからこそ、人間との関わりを避けておるのじゃ。関わらなければ面倒なことも起きぬからな」
「……」
〈少女〉は〈男〉に目を合わせ、微かに微笑んでいるように見せた。だが、月の眷属の証でもある紅の瞳は、いつもと変わらず、喜びも寂しさも感じられない。
〈彼女〉もまた、人間との関わりを避け、森に暮らす月の眷属の一人。今は〈男〉と共に、人間の町までやってきたが、〈彼女〉がどういう意図で町に来たのか、〈男〉は知らない。
「さて、そろそろ行こうではないか」
〈少女〉はさっと〈男〉を追い抜き、人々の行き交う中から〈男〉に振り向いた。
人間達の中に混ざっても、〈彼女〉の姿は、〈男〉の目を引いた。小さな体に合わない服を着て、期待と悪戯心の入り混じった子供らしい顔で、〈男〉が来るのを待っている。
〈男〉も軽く息を吐き出すと、ゆっくりと〈少女〉の方へと歩いていった。
短くなってしまった前髪から見る拓けた視界は、まだぼんやりとしか映らない。