月の行方と夜の花(4)
垂れ下がる布を割って入ってみると、中は寝台が一つと、酒とつまみが置ける程度の小さな卓に椅子が一つあるだけで、大して広くもない部屋だった。
正面奥には、大きく窓が開いているのか、織り目の荒い布が、僅かな風に揺れている。
「そこに座って待っていて。今、飲み物を持ってくるから」
女は寝台を指差すと、すぐに部屋を出ていった。何を飲むかは尋ねられなかったが、酒でなければ問題ない。
言われた通り、寝台に横に腰を下ろし、杖は横に立て掛ける。固くしっかりとした寝台は、〈男〉が座っても軋んだ悲鳴を上げるようなことはなかった。
ゆっくりと息を吐き、無意識に込められていた力が、少しだけ抜けていくのを感じる。待つのも待たされるのも嫌いではないが、ここではどうしても居心地の悪い。若い男が来るべき場所ではないからか、すれ違う度に向けられる女達の視線に、〈男〉は少し申し訳なさを感じてしまう。
興味本位から向けられた笑みが、〈男〉の顔に引き攣っていくのは仕方のないことだ。
無意識に、険しい顔になってしまうほどに、余裕を失くしていたことにも、言われなければ気づかなかった。
こんなにも落ち着かないのは、いつ以来だろうか。ままならない自分に頭を抱えたくなったが、壁の向こうから人の気配を感じ、〈男〉は顔を上げた。
気配は真っ直ぐと〈男〉のいる部屋の方へとやってきて、入口の布を分けて、一人の女が中に入ってきた。
頭を疑うような赤色をした作り物の髪に、酒と煙草の臭いの染みついた、痩せこけて筋張った色気のない体、着ている物もよれよれの男もののシャツ一枚だけで、今が寝起きと言わんばかりにだらしなく、おぼつかない。
女の姿は、初めて見る者には、誰もがおかしな印象を持ちかねない。
だが、その印象は、女がわざと与えているものだと知ってから、〈男〉はこの女に対して見る目が変わった。
「よぉ、ニコラス。久しぶりだな」
「サンドラ……その名で呼ぶなと何度言えばわかる?」
〈男〉が顔を向けると、女は機嫌よく笑った。手にはガラスの水差しと揃いの盃が二つ。
「ニコラスは、死んだ爺さんの名前を借りているからか。
まったく、いつまでそんなこと言ってんだ。死んじまった奴の名前なんてただの飾りだろ。生きてる人間が使って何が悪い」
「俺はお前とは違う」
〈男〉は吐き捨てるように言ったが、サンドラは気に留めた様子もなく、部屋に一つしかない椅子に腰かけ、ニヤついた笑顔で卓に水差しと盃を並べた。
二つの盃に水が注がれ、その片方を差し出される。サンドラは手元に残した盃を取り、中身を勢いよく飲み干し、〈男〉もそれを見てから、盃を口へと運んだ。
酒飲みのサンドラにしては珍しく、中身は酒ではなく、ただの水だった。ただの水でも、渇いた喉と体にはありがたく染み渡り、〈男〉はほっと息をついた。
「ところで……その前髪はどうしたんだ? 伸ばしていたのは、わざとんじゃなかったのか?」
二杯目を注ぎながら、サンドラは〈男〉の目元を見て意地悪く笑った。
以前は目を隠すほど長く伸ばしていた前髪が、短くなってしまったことで、前より表情がわかりやすくなってしまったのだろう。眉を寄せる〈男〉に、サンドラはいっそう愉快そうに笑う。
「お前こそ、その目はどうした? 最後に会った時は、そんなものは着けていなかった筈だ」
向かい合ったサンドラの顔は、右半分が黒い布に覆われていた。治療用の一時的なものではなく、しっかりと目を隠すように作られた眼帯だ。伊達や酔狂で着けられるようなものではない。
「何だよ、心配してくれるのか?」
「違う。怪しんでいるだけだ」
「心配するなって。……ちょっとばかり相手が悪かっただけだ。この中はもう空っぽだけど、眼球一つで満足していただいたさ」
「人体収集家か」
「いや、あれは食うのかもな。他所では、体の悪い所は、他人のを食って治すなんてこともやるらしい」
「目なんて食える部分はほとんどない。治したいなら、食らうより見えている奴のと交換した方が早いんじゃないのか」
理解できないと言わんばかりの〈男〉に、サンドラはケラケラと、声を出して笑った。
「お前はその目を嫌っているくせに、治そうとはしないんだな」
「それに関しては、俺自身の問題だ。目を治したところで変わるものでもない」
ぽつりと独り言のように呟くと、サンドラは片方だけになってしまった目が見開いた。口元に浮かべていた作り笑いがゆっくりと剥がれ落ち、素の顔が現れる。年相応の女の顔で、サンドラは〈男〉の顔をまじまじと見た。
「……女ができたのか?」
「何の話だ」
〈男〉が軽く睨みつけると、サンドラは肩を竦めた。向かい合ったその目は、笑ってはいなかった。
「それで、あたしに用ってのは何だ?」
低く鋭く尖らせた声と獲物を狙う狩人の目が、〈男〉に向けられる。
人間の目は、人ならざる者よりも、感情をむき出しにし、冷たく突き刺さる。
短くなった前髪により開けた世界は、見たくはなかったものも容赦なく見せつけてくる。
それでも、〈男〉は、それまでと変わらぬ調子で言った。
「お前が言った、あの森にいる『本物のバケモノ』とは何だ?」
眼帯をした顔が、口角を吊り上げ、また無理に笑みを作ろうとする。
高級娼館の女主人にして、仲介屋。まだ三十にも満たない若さで地位を得た女は、その役割を熟す為に、自分を作っているのだと、聞かされたことがあった。
何を塗ったらそんな色になるのかわからないような赤色の髪も、男のような格好も、人を食ったような態度や表情も、サンドラという名さえも、全て自分を偽る為の見せかけのもの。
けれど、偽りだらけのその中で、奪われなかった青い瞳が無邪気に喜び輝くのを、〈男〉は、見逃しはしなかった。