月の行方と夜の花(2)
〈男〉が向かった先にあったのは、貧民層が暮らす地区の中でも、比較的大きく、小綺麗な建物とであった。
この町では有名な、サンドラと名乗る、三十路前の女主人が営む、古い館を改装して作られた娼館、花の名をしたその店は、客が店の規約を守るならば、どんな要望にも応えることを売りにした店だ。
昼間は営業しておらず、表に人の気配はなく、入り口にも、その場に行くまでもなく、鍵がかかっていることがわかるほど、静まり返っていた。
〈男〉は、来る時と変わらぬ足取りで、裏手に回った。
裏には、娼館よりも一回り小さく、古ぼけた建物があり、〈男〉はそちらの裏口の扉を叩いた。
中から人の気配がして、扉の覗き窓には、睨みつけるように〈男〉を見る二つの目が現れた。
〈男〉は何食わぬ顔でその場に突っ立っていたが、扉の向こうでは、用心棒と思われる男たちの慌ただしい声が聞こえてきた。突然、営業時間外に、娼館の方ではなく、娼婦達の住居に直接訪れた男に、どう対処すべきか迷っているようだった。
暫くすると、中の様子も落ち着き、分厚い扉が開いた。
出てきたのは、用心棒の男ではなく、薄い寝巻を着た三十路の女だった。
前の娼館で働く娼婦の一人だが、〈男〉は名前を憶えてはいなかった。一度名前を聞いたこともあったが、そこで名乗ったのは本名ではなく、呼び名は変わるものだから、覚える必要もないと、笑って返された覚えがある。
女は、休んでいたところを呼び起こされたばかりだったのか、髪はぼさぼさで櫛も通しておらず、化粧も一切していなかったが、不機嫌な素振りは見せなかった。ニコニコと、営業用の笑顔で、〈男〉を宿舎へと招き入れた。
「お待たせぇ。久しぶりじゃないの。それも店に直接来るなんて、いつぶりかしら?」
「サンドラはいるか?」
軽い挨拶も無視して、〈男〉は建物の中へと足を進めたが、女は〈男〉の空いた右腕を取り、手慣れた調子で〈男〉の方へと体を寄せた。女の体に染みついた、香の匂いが鼻につく。
「サンドラなら二階よ。それで、怖い顔して、あの子に何の用かしら?」
「いるなら、呼んでもらえるか? 話があるだけだ。俺もそれ以上のことは、望んではいない」
〈男〉は眉を寄せ、腕にしがみつく女の顔を見下した。女は微笑みを絶やさぬまま、掴んだ〈男〉の腕を強く絞めてくる。振り払うことは容易く出来た。しかし、〈男〉は険しい顔をするだけで、その手を離そうとはしなかった。
「何があったのか知らないけど、あんまりあの子のことを責めないでくれる。あの子のやり方は、褒められたものじゃないし、気に入らないかもしれないけど、あの子はあの子なりに頑張っているのよ」
「それは……俺も、わかっているつもりだ」
低く、絞り出すように答え、〈男〉は杖を持つ手に力を込めた。
若くして成り上がったサンドラは、この高級娼館の主としても有名だが、金貸しとしても、仲介屋としても悪名が高い。
どんな相手だろうと、どれほどの金額だろうと貸し付ける、返済の為には、死んで帳消しになどさせず、無理やり生かしてもこき使う。金に困ったら、サンドラの所へ行け、ただし、絶対に返せない金額は借りるな、踏み倒そうなどと絶対に思うな、死んだ方が楽だと思い知らされる。そんな噂が度々立たれる女だ。
仲介屋としても、どこの誰から受けたかもわからないような、危険な仕事も、厄介な仕事も、平気で持ちかけてくる。
その一方で、サンドラは、文字も書けない者には文字を教え、手に職のない者には無償で技術を提供するなど、力のない者や貧しい者も関係なく、仕事を分け与える。
そんなサンドラを、大半の者は変わり者だと言うだろう。
サンドラ自身も、いつか誰かに殺されようと、自業自得だと言っていたことがある。
サンドラとはそういう女だが、それでも、この女のように、サンドラの存在に救われ、慕う者も少なくはない。
「わかっているなら、あの子のことを軽蔑しても、突き放さないでくれないかしら。あなたは、あの子のお気に入りだから、あの子もあなただけは手放したくはないのよ」
「俺はあいつの物じゃない」
「それでも……」
女は言葉を濁し、不意に顔から笑みが失せた。腕に込められていた力も抜け、弱々しく震えていた。
「これは言わないでおこうと思ったけど……今のあなたは、まるで初めてここに来た時の様よ」
「……」
〈男〉が初めてこの住居に足を踏み入れたのは、もう何年も前のことになるが、その時のことは、今でもしっかり覚えている。まだ、この町に来たばかりで右も左もわからず、仕事も住む場所も見つからなくて、半ば騙されるような形で連れてこられ、酷く気分が悪かった。
あの時、自分がどんな顔をしていたのか、流石にそこまではわからないが、興味本位で集まってきた娼婦達が怯えているのは伝わってきた。
「それは……すまなかった」
「……サンドラがいるのは、二階の奥よ。今は若い子達と休んでいるはずだから、部屋に入るときは気を付けてあげて」
女は溜息を一つつくと、改めて〈男〉の腕に自分の腕を組むようぬ絡ませた。
「案内するわ、手を引いてあげるから、ついてきて」
「いいのか? 休んでいたんじゃないのか?」
「今更、気にすることないわ。それに、ここは私達娼婦の住まいよ。若い男を一人でうろつかせるわけにはいかないでしょ」
「……すまない」
「お礼なら、次にうちを利用する時は、私を指名してくれるかしら。まぁ、次があればだけど……」
女は軽く微笑むと、組んだ腕から〈男〉の手を引き、建物の奥へと招き入れた。