願いと呪い(7)
* * *
不意に、甘い香りがした。
上等な果実酒のような、夜の女たちがつける香水のような、傍にいるだけで酔ってしまいそうな匂いだ。
〈男〉はこの匂いを知っていた。何度も嗅いだことのある匂いだ。
だが、〈男〉には、何の匂いなのか思い出せなかった。
おかしい。いつもなら違う匂いがしただけで目が覚めるのに、今は頭が上手く働かない。ぼんやりと、霞がかかっているかのように、頭がまだ眠りから覚めきれない。
体は動くか確かめながら、毛布の中に隠していたナイフに手を伸ばす。扉にもたれかかっていた体も離し、いつでも動けるようにしておく。息を潜め、神経を張り巡らせ、隣の部屋の様子を窺ってみるが、人のいる気配はしない。
光源のない部屋の中は、眠りに着く前と変わらず、暗いままだ。頭の方がこんな状態で、どこまで動けるかわからないが、この異常が危機的状況の前触れならば、すぐにでも迎え撃つ覚悟はできていた。
「……起きていたのか」
声が聞こえて〈男〉は、はっとした。いつも聞いていた子供の声とは少し違う、大人ぶった声ではなく、本物の大人の女の声のようにも聞こえ
たが、間違いなく〈彼女〉の声だった。
相手が〈彼女〉だとわかると、途端に頭の中が冴え渡った。先ほどまでのぼんやりとした感覚が嘘のように目も冴えて、〈彼女〉の小さな声を聞
き逃すまいと、再び扉に頭を寄せて、耳を傍立てた。
匂いの正体も、〈彼女〉の持つ、月の眷属特有の匂いなのだとわかると、合点がいった。
〈彼女〉らが現れる時は、いつも甘い香りが漂ってくる。まるで己の存在を示すかのように、〈彼女〉が現れると突然、香り始め、いなくなると消える。
〈男〉も、真っ暗な部屋の中で夜が明けるのを知るのは、いつもこの匂いからだった
「早かったな」
「……起こしてしもうたか?」
〈男〉がぽつりとつぶやくと、扉の向こうから、笑っているかのように軽やかな返事が聞こえた。
〈彼女〉が戻るのはいつも朝方だったが、今日はそんなに時間が経ったように思えない。
確かに、いつもより早く起きたことになるが、そんなこと〈男〉は気にも留めていなかった。
「いや、お前とは話がしたかったから、丁度よかった」
「話? そなたから、予に何の話がある?」
扉の向こうの〈彼女〉の声は、本当に小首を傾げているようだった。
まるで幼子のような素直な反応に、〈男〉は微かに微笑み、言葉を続けた。