殺した男と死を求むバケモノ(12)
「それで、どこに行くんだ?」
〈男〉が尋ねると、〈少女〉は暫く黙った後に、「ついてまいれ」と、それだけを言って、森の奥へと足を進めていった。〈男〉もため息を一つつくと、黙ってその後を追った。
ぼろ布を纏った小さな人影は、森の中では見失いやすかったが、少女の足は思ったよりも遅く、例え見失っても月の眷属特有の匂いを頼りに探せば、道を探りながらでも置いて行かれる心配はなかった。
不思議なことに、近くにいれば嫌でも香る甘い匂いは、先を進む〈少女〉の方からは香っても、〈少女〉の通り過ぎた後には、一切残っていなかった。
代わりに少し歩みを緩めれば、後ろの枝にとまった〈鳥〉の匂いがした。こうして嗅ぎ比べてみれば、〈鳥〉の匂いは〈少女〉のものよりも軽く、風のように通り過ぎる。
このままゆっくりと進みたい気もしたが、あまり遅くなると、先を行く〈少女〉の匂いも消えてしまうので、〈男〉は足を速めて、再び追っていた匂いを探した。
草と土と、ねっとりと甘い〈少女〉の匂い、その中にふと、別の匂いがした。
月の眷属の匂いに近いが、〈少女〉や〈鳥〉に比べたら甘くはない、花の香りのようだった。
だが、花の匂いと気づいた瞬間に、〈男〉の頭に疑問が湧いた。
この森に来てから一度でも花の匂いを嗅いだことがあっただろうか。花のような明るい色を目にしただろうか。
「おい、この匂い……」
「ほぅ。この距離で匂いに気付くとは、そなた、鼻は良いのじゃな」
笑うような声が聞こえたと思ったら、〈少女〉の姿が視界から消えた。
本当はどこにも消えてはいない。草木の付いた茶の上着は、森の緑とは別に存在した。甘い匂いも変わらず漂っている。それなのに、〈男〉の目には〈少女〉の姿が映らなかった。
ただただ、花の香りと甘い匂いばかりが鼻につく。
花のようなこの香りを〈男〉はよく知っていた。じわりと頭の奥まで染みていき、人間を惑わし狂わせる。
気を保とうと手に力を入れ、傍にあったものを掴んだが、堅く乾いた木の感触に、心臓がドクンと、飛び跳ねた。
〈男〉には、幼い頃に一度だけ、枯れた枝のような手に触れられたことがあった。
相手は人間の姿をした月の眷属で、〈男〉にとっては初めて見る『バケモノ』であった。
今、〈男〉のいる場所もまた、月の眷属が支配する森の中。
手に触れる木も、頭ではただの木だとわかっていても、手は汗ばみ、背中も濡れていた。
「この匂いはいったいどういうことだ! この森には月の眷属はお前とあの鳥しかいないんじゃなかったのか!」
「……何を焦っておるのか知らんが、この森でそなたに危害を加えられるものは、予と〈鳥〉だけじゃ。この匂いのこと言っておるなら、もうすぐ着くから、その目で確かめるのじゃな」
そう言っているうちに、〈少女〉の歩みが徐々に止まりかけていた。同時に前方から光が射すのを感じ、〈男〉は驚いた。
〈少女〉は光の当たらないぎりぎりの場所で足を止め、〈男〉にはこの先だと促した。
「先に窪地がある故、落ちぬように足元には気をつけて進むのじゃぞ」
〈少女〉の忠告に従い、〈男〉は足元に気を配りながら前を進んだ。
進めば進むほど、光は少しずつ強くなっていき、森の開けたその場所にたどり着いた時には、久しぶりの明かりに〈男〉も目を細めた。
この森に来てから、おそらく初めて見る空だった。太陽は傾き始めていたが、日暮れには早く、まだ青い空を〈男〉は少しの間、黙って眺めた。
そうしているうちに目も光に慣れてきて、辺りを見渡すと、森の中に自然に出来たとは思えない場所だった。
足元には、先ほど〈少女〉が言っていたように、大きな窪地が広がっており、不気味なほどに鮮やかな紅が〈男〉の目を引いた。あまりに見事に赤く染まっていたので、〈男〉は初め、窪地を池かと思い、落ちないように少し足を引き気味に近づいたが、よく見れば窪地を埋め尽くしていたのは、紅い花を咲かせた花畑であった。
〈男〉の目には映ってはいなかったが、細長い花びらの下には、花よりも黒く細い茎と葉が隠れていた。
花びらは閉じているように見えたが、風が吹くと、窪地の中から先ほどから感じていた花の甘い香りが、より一層強くなり、〈男〉は顔をしかめた。
「……これがお前の見せたかったものか?」
絞り出すような小さな声で、〈男〉は吐き捨てるように問うた。こんな小さな声では、〈少女〉の耳には届かないことは、〈男〉も承知の上だった。
「そうじゃ。我らの力の利かぬ、そなたにしか見せられぬものだ」
求めていなかった返答が来たことに、〈男〉は驚いて振り返った。
姿は見えなかったが、木の陰から汚れた外套が、ちらりと見えた気がした。上からは〈鳥〉の気配も感じる。