月夜とバケモノ(2)
目の前の男が倒れていくのを、女は黙って眺めていた。
男を見下ろす紅い双眸は冷たく、男の体が地面に転がるまで、無感情に見ていた。
「いかがいたしましょうか?」
男が倒れてしまうと同時に、女の頭上から声がかかった。男のような低い声であったが、女の周りには、倒れた男以外に人影はない。唯一、屋根の上にいた烏が、女と同じ紅い瞳で、女の様子を見ていた。
女も烏に目を向けると、話しかけるように口を開いた。
「放っておけ。人間の一人や二人、気にするほどのものではなかろう」
意識が戻ったところで、この男は彼女のことなど忘れている。見たことすら覚えていないだろうと、女は続けた。
紅い瞳を持つ者には、人の心を惑わす力がある。記憶を消すぐらい容易いことだ。もしも、思い出すようなことがあっても、人間が、彼らに敵うはずがない。
「人間といえども、油断は出来ません。近頃は人間の中にも、おかしな力を持つ者が現れていると聞きます。
この男も始末した方がよろしいかと思います」
「力を持っていても、所詮は人間じゃろう。恐れるほどのものではない」
人間がいかに知恵を絞り、抵抗しようとも、バケモノと呼ばれる者が人間を恐れるなど、あってはならないことだ。捕食者が、餌にいちいち怯えていては、生き延びることも出来ない。
「そのようなことを気にするよりも、今宵の月を見よ。美しい満月ではないか。人間ごときに構う理由はなかろう」
そう言って、女の足が軽やかに、森の方へと向かっていった。
本来なら靴の音が響いてもおかしくないはずだが、女の足音は一つも聞こえなかった。
倒れた男が見つかったのは、その日の晩のうちだった。
夜中になっても旦那が帰ってこないことに不安を抱いた妻が、旦那の友人を伴い町中を探して回り、町の外れで横たわっていたのを漸く見つけたのだった。
幸いにも男は怪我一つなく無事であったが、何故、町の外れで倒れていたかは男にも思い出せなかった。
友人たちは酔って寝ぼけていただけだろうと笑ったが、男には信じられなかった。
男にも、友人の家を出た後のことは何一つ思い出せなかったが、とても心地よい夢を見ていたような、はたまた、とてつもなく恐ろしい悪夢を見せられたような、不可解な気分だけは残っていた。
行方不明になっていた男が、その晩の記憶を失くして見つかった話は、翌日、町中に知れ渡った。
年若い者たちは、男の友人たちのように男の失態を笑いものにしたが、町に古くからいる老人たちは、男のことを決して笑いはしなかった。
老人たちは神妙な顔を突き合わせて、こう言った。
「森のバケモノに誑かされたのだ。よく無事に帰ってこられたものだ」