死んだ少女(3)
角灯の明かりにぼんやりと映し出される少女の冷たい手に、本当は、自分もあの少女と共に、死んでしまったのではなかろうか、そんな考えまでもが頭に過ぎった。その方が、バケモノに助けられるよりも、納得がいく。
もし、目の前のこれが死んだ少女の亡霊だったなら、何をされても恨み言一つ言わなかった。
だが、今、自分に触れているのは、死んだ少女の姿を借りたバケモノだ。そう思うと、腹の底が急に冷えた。
「満足したのなら、いい加減、この手を放せ」
「嫌じゃ」
「何?」
男が顔をしかめると同時に、顔に添えられていた手が首の後ろに回り、驚く間もなく少女は男に抱きついてきた。甘い香りも近づいて、酒にでも酔ったかのように頭の方も揺れそうになった。
どうしてこうなったのか。男の両腕が、所在なさげに垂れた。
一方で少女は、男の首元に顔をうずめ、手を背中へとずらした。
そのまま、子供をあやすかのように抱き寄せられ、少女の髪が顔にあたった。
「そなたからは良き匂いがする」
「……血の臭いか?」
「違う。じゃが、それに近い。これは人間の匂い、生き物の匂いじゃな」
今更何を言うのかと思ったが、少女の吐息が男の首をくすぐった。
そのまま血を吸われるのかと、男は思った。
彼女がそのような存在だと頭の中ではわかっていたつもりだったが、こうして近づかれるまで食われることを考えてなかったことに、内心は冷や汗をかいていた。
こんなことをしてどうするつもりなのか、バケモノの考えることは、男には全く読めなかった。
無理に引き離して機嫌を損ねるのも恐ろしい。自分の命もまた、今はこの少女の手の中にある。下手をすれば、離れるより先に殺される。今は大人しく、されるがままになっていた方が賢明だ。
「それに、あたたかいな。そなたの体はあたたかい」
男に触れる少女の手は異様なほどに優しかった。
まるで初めて触れる玩具のように、大切に、壊さないように、それでいて、興味深そうに、少女は男の体に触れた。傷に当たり、僅かにでも顔を歪めたら、即座に手を引いて、傷のない場所にまた触れた。餌に触れる手ではなかった。見下しているのなら、もっと乱暴に扱ってもいいはずだ。
「お前が俺を助けたんだな。何故、助けたんだ?」
「何故、何故と、そなたは疑問が多いのう。理由など簡単じゃ、予はそなたと話してみとうなったからじゃ」
「俺と話を……?」
いったい何の話かと、男は目を丸くした。
すると少女は、男の肩に手をやると、顔を上げ、口角を吊り上げて笑みを作った。
「そなたは、予が月の眷属の肉が欲しいのかと問うた時、始末出来ればそれでいいと答えたな。
じゃが、その後でもう一度、殺す理由を尋ねたら、何か言いかけて倒れたじゃろう。あの時、そなたは何を言おうとしたのじゃ?」
男は一度、口を閉じた。そして、暫く部屋の奥の闇を見た。
「悪いが……それには答えられない」
「答えられぬ理由があるのか?」
「いや、単に覚えていないだけだ」
そう言って男は、少女から顔を背けた。
少女は、男の背けた顔を覗きこそはしなかったが、くくっと、小さな笑い声を上げた。
「おかしな奴よのう。自分が言おうとしたことすら、忘れてしまうか」
「忘れてしまうようなことだということだ。もういいだろ、これで満足か?」
少女の子供とは思えない態度に、男は少女から目を背けたまま顔をしかめた。
「いいや、もう一つ」
見ないようにと背けていた顔を戻され、瞳の紅が、再び、はっきりとわかるほどに近づいてきた。
「どうして、そなたには予の力が効かぬのじゃ?」
「力?」
「そうじゃ。そなたら人間が月の眷属と呼ぶ者は、他の生き物を従える力を持つ。どれほど意志が強かろうと、人間が我らに逆らうことなど出来ぬ筈じゃ」
「効かない理由を答えたら、お前は俺を殺すのか?」
「そなたが予に危害を加えぬ限り、予もそなたには何もせぬ」
「信じられんな」
「そうか。まぁ、そうじゃな……それなら、ここにいる間は、予もそなたの許可なくして、そなたの血を吸わぬことにしよう。
それでどうじゃ?」
バケモノの提案に、男は束の間、悩むそぶりを見せたが、ふと、眉を寄せた。
「ここにいる間と言ったが、お前は俺をどうするつもりだ?」
「今のところはどうもする気もない。予が何かをするとしたら、それは、そなたの所為じゃ」
静かに語る少女の声に、男は顔を険しくしていたが、少女は、それ以上は何も言わなかった。
そのまま黙って胸に頭を預けてきた少女に、男は一抹の不安を抱えながら、暗い天井を見つめた。