月夜とバケモノ(1)
月の綺麗な夜だった。
星の見えない夜であったが、雲の隙間から見えた月が、格段に美しいと感じる夜だった。
今夜は町にとっても特別な日、年に一度の祭りの日だ。
町の人々は浮かれ、酒に、祭りの空気に酔っていた。
普段はあまり酒を飲まない鍛冶屋の倅も、今夜ばかりは他の者達に勧められて、浴びるほど飲んでしまった。友人の家に泊めてもらってもよかったが、家には先月、結婚したばかりの妻が待っている。あまり待たせるわけにはいかないと、先ほどまで、おぼつかない足で帰り道を急いでいた。
それでも男が足を止めたのは、森へと続く道の真ん中に奇妙な人影を見かけたからだった。
先にある森は、昼間でも薄暗く、獣も寄り付かないと不気味がられ近づく者も少ない。こんな夜更けに、人影を見かけるような場所ではない。男も普段ならば、関わるのを避け真っ直ぐ家に帰り、妻に怪しい人影の話をして終えただろう。
だが、今宵は男も酔っていたからか、人影を目にした時から、奇妙な高揚を感じていた。それはまるで、これから特別なことが起きるような、祭りの前日に戻ったような気分だった。
ただ挨拶をするだけのつもりだったが、月明かりに照らされた女の姿を見て、男は思わず溜め息を漏らした。
長く艶のある黒髪に、星空を切り取ったかのような黒い衣が良く似合う。黒一色に染まった後ろ姿でも、夜の闇の中で不思議と目を引く女だった。
その姿は、妖艶でいて、品があり、特に飾り立てているわけではないのに、今宵の月のように輝いて見える。女性らしい柔らかでしなやかな体躯も、服の上からでも艶めかしく、下からちらりと覗く白い素肌は、それだけで男を興奮させた。
女はただ立っていただけなのに、見慣れた近所の道が、まるで絵画の一枚のように幻想的な世界に変わっていた。そこにいるだけで、夢を見ているような気分になった。
自分のような田舎者が、酔った勢いで声をかけていいような女ではないことは、男にも一目でわかった。わかってはいたが、女の傍に寄らずにはいられなかった。
近づいて行くと、女の周りには、何とも言えない甘い香りが漂っていて、急に酔いが回った気がした。
頭と体が思うようにいかず、思考も徐々に掠れていく。それでも足だけは、しっかりと女の方へと向かっていた。
気づいた時には、目の前に例の女がいた。白い顔は、傍で見ると益々美しかった。
「人間か」
女が一言呟やいた。その甘く、それでいて冷たい声に、男の身体は震えあがった。
これが女の声なのか。たった一言聞いただけで、男は心臓を掴まれたように感じた。人間のものとは思えないほど魅力的で、恐ろしい。この声に逆らってはならないと、従わなければならないと、本能のように何かが訴えてくる。
恐怖に震えた男の身体が、足元から崩れ落ちる。顔は怯えてはいなかった。
倒れながら見上げた女の顔には、輝くような紅があった。
紅い瞳をした人間は存在しない。闇夜にも輝く紅い瞳は、人間の血肉を糧に生きるバケモノしか持たない。
美しすぎた女の容姿が、人間ではないことを物語っていたことに気付いた時には、男はもう、女の魅力から離れることが出来なくなっていた。