それはこの世に射した一条の希望っぽいもの
常夜の森でルフェイの迎えを待つこと五日目。
「ぐふぁ!」
腹を内側から貫くような痛み。
デュラハンは初体験の真っ最中だった。
抱える頭を強く握り締め。
腐葉土と粘菌の軟らかい地面に膝をつく。
視界が揺れ、身体がふらつき、突発的に左胸――心臓は存在しない――が苛まれる。
「うんうん。思ったとおり効果は抜群だ。言葉責めだけでこんないい反応をしてくれるなんて。新しい趣味に目覚めてしまいそうだよ。騎士殿」
邪悪な何かが背後で囁いてる。
しかし頭が受け付けない。
過去にあった負け戦の情景が不意に思い出され、同胞が蟲のように焼き払われたときの喪失感が繰り返される。
去っていく盟友、後輩たちの陰口、自覚のある時代遅れな感性、将来への不安……次々に沸いてはしかし消えずに精神を追い詰めてくる。
「ぐうぁ」
「もっと艶のある声のほうが好みかな。もう少し何とかならないかい」
邪悪な囁きに惑わされるな。
過去の好敵手――海妖精騎士への憎しみを思い出して怒りで精神の均衡を維持する。
仮初めの土台だがそれで十分。
「クルアハよ。クルアハよ。俺に挫けぬ心と漆黒の魂を」
祝詞により信仰心を呼び起こし己という自我を再確認。
デュラハンはあの世でもこの世でもないどこかに落ちかけていた精神を危ういところ救い上げた。
「おや? 立ち直ったかい。気絶という逃避手段がないからそのまま壊れないかと心配したよ。騎士殿」
見なくて判る。
蜂蜜を垂らしたような唇が愉悦に歪んでると。
未だ震える全身を気合で押し留めデュラハンは楽しそうに話す危害物件を振り返った。
「なんのつもりだ小娘!!」
「なんのとは?」
「なぜ毎日毎日、俺の手を煩わせる! 俺を侮辱する! 大人しく普通の手段で”刈り取り”に備えろ!!」
怒りの矛先はデュラハンの身を襲う心因性負荷による不調の原因。
事故物件から危害物件へと昇格した獲物。
その獲物ことルフェイ=モルガーナが不思議そうに首を傾げた。
熔けた銀のような髪が静かに肩から零れ落ちる。
「これも立派な学習だよ。ほら…………言葉だけで首なし騎士を撃退できるかどうかの実験とか? それにしても精神脆過ぎないかい」
「なぜ疑問系なんだ!!」
人間の首を刈り取る死と闇の使者であるはずのデュラハンは絶叫する。
……被害者として。
大領主代理という枷を解かれたルフェイは存分にデュラハンで楽しんでいた。
二日前の騎士物語の一件は始まりにすぎなかった。
ふらりと庵の外に出ては危険な獣に襲われ首なし騎士に助けられるのは序の口。
首なし騎士の武技を褒め称え煽て上げてから、魔女から仕入れたと思われるデュラハンの失敗談を語り落とす。
最近の騎士道を引き合いに出してデュラハンの思想を古くて時代遅れとからかう。
更にコシュタ・バワーの毛の手入れについても口出しをして。実際に小娘が毛並みを整えたら相棒が擦り寄る始末。
あの世の新人研修もここまで酷くない。
百の百倍の百倍回大鎌の素振りをさせるぐらいだ。
乙女の水浴びを監視するのは騎士として如何なものかと弄られるに至り……首なし騎士の精神が限界を迎えたのだ。
吐気がする。
眩暈がする。
頭痛がする。
胃袋なんてないし食事などしたこともないのだが口から体の中身が吹き出して裏返りそうになる感覚。
おそらくこれが人間が吐き気と呼ぶものに違いない。
ルフェイの巧妙なところは直接デュラハンの性格や能力を蔑み貶めるのではなくデュラハン自身が気がついてない問題点を『忠告してあげるよ』みたいな軽い口調で振ってくるのだ。
的を得ている内容もあるためつい聞いてしまい……墓穴に落とされる。
「あれか? これはあのヨメーイビーリという儀式か」
「ヨメーイビーリ…………? ああ、違う違う。あれはこんなに生易しくない。もっと陰湿で醜くて私でさえ躊躇する悪行だよ」
デュラハンへの態度が人間の婚姻時に行われる奇妙な風習――女たちが囲炉裏の支配権を奪いあう――に基づくものかという問いに否と答えるルフェイ。
兜ごと自身の顔が引きつるのが分かる。
「これよりえげつないことを身内で行うだと……狂ってぞ人間。人間狂ってる。人間狂ってる」
嫁姑間にある闇はあの世の騎士すら慄かせた。
再び吐き気を催すデュラハン。
これまでこういう方面から首なし騎士を攻めた勇者や英雄はいなかった。
皆無といっていい。
いたとしてもそんな人物を誰も勇者や英雄として認めないが。
――実の母と娘で夫の寵愛を奪い合う風習なんかもあるのだが……デュラハンは知らないし知ることもない。
「それに寧ろ悪意とは逆なんだがね。まだまだお互いに理解が足りないようだ。さて……」
次は何をしようかなと考え込むルフェイ。
出会ったときは狼眼石のように美しいと感じたが今は宝石ではなくて本物の狼そのものだとしか思えない。
そして獲物はデュラハンだ。
誰だ! こんな物騒な娘を獲物に選んだのは! と首なし騎士は声なき声で叫ぶ。
「救援は、迎えはまだこないのか?」
常夜の森に穿たれた一本の道。
そこから訪れるであろう王国騎士だけがデュラハンをこの苦境から救ってくれる唯一の希望。
任務について愚直なあの世の騎士はたとえ己が磨り潰されようと現場放棄ができないのだ。
「…………あんたたち何してんだい」
見慣れつつある世にも不可思議な光景に夕食の準備ができたと告げにきた魔女マーティスも呆れるのだった。
「いえ、なんでもございませんわ」
別人の如く顔と態度と声を変えたルフェイがにこやかに笑い庵へと戻る。
しかしデュラハンに一瞬だけ向けた目が伝えていた。
『またあとで、ね』と。
「…………」
デュラハンはあの世へ救援要請を出すべきかどうか真剣に検討を開始した。
だが首なし騎士からあの世に胃に穴が開きそうだから助けて(意訳)、と連絡がなされることは無かった。
「うむ?」
抱えた膝の上に兜を載せて己の面子を潰さないよう当たり障りの無い救援要請の文言を考えていたデュラハンは、何者かの気配を感じた。
また獣の類いかと立ち上がり確かめる。
しかし首なし騎士の視界に映ったのは獣に非ず。
森の外へと続く道を青の外套を纏った男が一人のんびりと歩いていた。
「まさか……救援か?!」
だが救援の到着までまだ数日かかるはず。
早すぎる迎えに精神的疲労が見せる幻覚かと目を疑うデュラハン。
妖精の悪戯という可能性もある。
「どうやら我輩が一番乗りのようでありますな。駆けて跳ねて走ったかいがありましたぞ」
相手もこちらに気がついたようだが……幻覚ではないようだ。
二本の指で目深に被っていた鳥羽根帽子を持ち上げた優男は実在中年。
幻覚ではありえない活き活きとした目が好奇心に輝いている。
「魔女の庵に首なし騎士とは良い楽想になりそうですな。いやはや我輩ついてます」
その男は丁寧に整えられた栗色の顎鬚に指を這わせ言い切る。
首なし騎士の姿に動揺するそぶりすら見せない。
デュラハンはほう、と感嘆する。
王国とやらは中々肝の据わった騎士を……騎士、騎士?
デュラハンはやってきたその男をルフェイを迎えに来た王国の使い――騎士と思っていた。
だがおかしい。
青い外套の下には剣や盾などの膨らみは無い。
体格はいいが武術を修めている気配は無い。
そもそも馬を連れていない。
ついでに騎士は最低でも数名供回りがいるはずなのにそれもいない。
「……問おう。貴様はルフェイの迎えか?」
縋る思いで問うデュラハンに騎士らしくない謎の男は、
「我輩の名はフェイクトピア! 嘘も偽りも謳わない吟遊詩人インベント=フェイクトピア! 期待を裏切ったようですが傷心を癒す喜劇譚などいかがですかな? なに御代は結構ですぞ!」
と万来の観客をもてなす役者の如く大仰な身振りで演じた。
「帰れ!!」
デュラハンが叫んだのも止むを得ない。




