57、八兵衛、ストーキングされる。
江戸時代、大名旗本御家人に科せられた軍役は百石あたりでおよそ二人。
なので二万五千石の大名の場合、家臣は総数で最低限、五百人前後を召し抱えていることが義務となっていました。
「あーいいお湯だった」
蘭さん達がお湯から戻ってくる。
目の前を通るたび、四人から湯上りの匂いがした。
「お嬢たちもいただいてきたらどうです」
「うむ。そうしようか八兵衛」
晶さんが腰を上げる。
と、その時、廊下をどかどかと大人数で踏み鳴らす音が聞こえてきた。
すっと障子が開かれる。
「宿改めだ神妙にいたせ」
お役人が入ってきて、書付を手にあたし達を眺めまわす。
何事かを確認すると、お役人の表情が厳しいものへと変わった。
「お前達、番所まで来てもらおうか」
背後を振り返って云った。
「引っ立てろ」
小者が入ってくる。
晶さんが立ち上がった。
「お待ちください、お役人様。これは何かのお間違えではないですか」
「ええい。つべこべ抜かすな。この牢人どもが」
奉行所の小者があたし達に縄を打とうとしてもみ合いになる。
「仕方ありませんな。
お役人様、こちらをご覧いただきますよう……」
あからさまな棒読みで晶さんは、懐から取り出した書状をお役人に手渡した。
……胡散臭げな眼差しで晶さんを睨むと、お役人はおもむろに中身をを改め始める。
読み進むうちにお役人の顔色は段々と青ざめてゆき、最後には畳に平伏した。
「中納言様のお使いとは存ぜず、御無礼の段、平にお許し下さい。
こらっ、お前たちも頭を下げぬか」
お役人が訝しがる配下の小者を叱咤すると、彼らも慌てて頭を下げた。
晶さんの前でお役人一同が恐れ入る。
「よい。よい。わたしらはただの使いの者。
そう恐れ入ってしまわれると今度はわたし共の方が困ってしまいます」
「――皆様方も御役目で参られたと存じますが、ここは一つ、会わなかったということでいかがでしょうか」
そう云って晶さんがお役人を見る。
少しの躊躇いの後、お役人が書状を帰してきた。
手渡すと最敬礼。
「それでお願いいたします。では、これにて……」
小者を促して逃げるように退出していく。
その後ろ姿を見送るとあたしは晶さんに尋ねた。
それというのも、お役人とのやり取りの際に書状に書かれた文字が目に入ったから。
「梅」と「里」で中納言というとあれしか考えられない。
「いいんですか? その書状を出してしまっても」
「何。構わぬさ」
口を動かしながら晶さんが書状を油紙に包み直す。
「――ここの宿場も壬生領であるしな。さて、向こうがどう出てくるか」
「ええっ!? 壬生領だとわかってて泊ったんですか?」
「そうであるな」
さらりと晶さんが云う。
「では書状をお役人に見せたのは……」
「御家とは無関係と思わせるためだ」
「いいんですか? そんなことして」
この時あたしは「ええっ?」という表情だったと思う。
晶さんは気にする風でもなく問答を続けた。
「面倒事を頼まれたのだ。この程度の融通は効かせて貰わねばな」
「――それはそうと八兵衛。
この先何か聞かれたら、お前が水戸の縮緬問屋の若旦那というのはどうだ?」
「駄目ですって。訛りでバレます」
あたしは即答した。
そして翌日、宿を発つ。
飯塚宿を出て小山へ向かう道すがら、晶さんがあたしに身を寄せてきてささやいた。
「……つけてきているな」
「えっ?」
あたしは思わず振り返りそうになった。
「止せ。そのまま聞くのだ。
つけてきているのは一人。風体は牢人者に見せかけてはいるが、足の運びなどから見てどこぞの家中の者であろうな」
「見当は付くんですか」
落ち着くために深く息を吸い込んで吐く。
視野狭窄になると見えるものも見えなくなるからだ。
心を放てと何度も晶さんは言っていた。
「おそらく忍びではあるまい足音が違うからな」
つかず離れず距離を取ってついてくる。
同じ距離を保ち、こちらの歩くペースにずっと合わせていると晶さんは云う。
「向こうからは何もしてくるまい。やれるものなら最初からしていたであろうからな」
あたしも頭をひねった。
どんな時でも常に敵の立場で考えろと物の本に書かれていたのを憶えている。
「あの、晶さん達って、御公儀以外に他の御家中からの恨みなどは買ってはいませんか?」
「さて。身に憶えはないが」
晶さんの答えを聞いて呂久之輔さんが「何を言っているんだ?」という顔をした。
あたしは慌ててフォローに入る。
「となると、これってやっぱり壬生の加藤家絡みですかね?」
「前後の経緯からしてほぼ間違いなくそうだろう」
二万五千石では家臣の数もたかが知れている。
五百人前後しかいない家臣を江戸と国元に分けて配置しておかなければならない。
若年寄ともなれば江戸詰めも多いだろう。
その中から遊ばせておける人員はそんなに多くないはず。
斬り合いになって死傷した時の人的損失は加藤家にとってはかなり大きいと思われた。
だからたぶん、家臣を喪うような危険は冒さない。
「扇子を使った座興が効いていますかね?」
「効いているであろうよ。そのためにやったのであるしな」
一筋縄ではいかない相手と判断されたのであればうかつには仕掛けてはこない。
あたしは晶さんに御伺いを立てた。
「始末するのはやめておこう。一人だけとは限らんからな」
尾行役の見届け役がさらに背後から追尾してきている可能性を考えると、始末してしまうのは後々都合が悪いかもしれないということだった。
こちらの方はというと浪江さん姉弟がいる関係上尾行を振り切るのはほぼ無理。
それからあたしも碧さんも晶さん達ほどの脚力はない。
そんなわけで色々と話し合った末に晶さんが結論を出した。
「さて、どこまでついてくるかを見て考えるとしよう」




