0、八兵衛、江戸時代に巻き込まれる
「岩木山大神さま、あたしは一体何のために生まれてきたのでしょうか……導きをくださいませ」
赤倉神社から岩木山に入ったあたしは山頂にある岩木山神社の奥宮で手を合わせた。
八月の晴れ渡った空を風がぴゅうと通り過ぎていく。辺りをぐるりと見回す。
岩だらけの山頂。
厳しい山だと思った。
標高1625メートルの山頂から見える景色があたしの目には色褪せて見える。
「人生を失ったあたしらしい風景の見え方だわ……」
思わず言葉がこぼれる。
肩が震えた。
恋愛は人間という生物の根源的本能に由来するものであるから、時として人の命を喪わせることがあると人は云う。
劇作家、ウィリアム・シェークスピアは当時起きた実在の事件を元にして戯曲「ロミオとジュリエット」を書き上げた。
シェークスピアが生み出したあの有名な台詞――O Romeo, Romeo! wherefore art thou Romeo?――に含意されているものは、人間の存在の本質より出でる、より根源的な問いかけなんだと思う。
そしてあたしの傷は致命傷だった。
振られたのなら割り切りもできたのだろうけど、べつに振られたわけじゃない。
男と女には根本的相違があると訳知り顔で人は言う。
男の恋愛はコピー&ペーストで女は上書き&ペースト。
だから男はみんなハーレム願望があるし乗り換えができるんだと。
でも、あたしはコピー&ペーストじゃなかった。
上書き&ペーストでしかないんだ。
だからあたしの世界はあの時に死んだ。
恋愛でのコピー&ペーストが男の性だというのなら、あたしは男ではないことになってしまう。……莫迦な!
そうしてあたしが死んだ世界の中でもがいている間に、あたしの外の世界も追い詰められていた。
そんな時、不意にあたしの心の眼に浮かんできたのは岩木山だった。
子供の頃から目にしていた懐かしい山の形がよみがえる。
あたしのこれから――死に生くを問わず、一度、お山に登ろう。そう思った。
一晩を岩木山で過ごす。そう決めて自宅を出たあたしはこうして山頂に居る。
このご時勢だからだろうか、周りには人の気配がまったくなかった。
もう一度奥宮に手を合わせる。
祈りの時間は長くなった。
思い浮かぶ感情のすべてを素直にぶつける。
祈りの先から声は聞こえなかった。
もやもやは晴れない。
それでも一歩を踏み出した時、地面が揺れた。
岩だらけの山頂を這うようにして下りる。気だけが急く。
下山の途中、鳳鳴ヒュッテに立ち寄ってデポした荷物を回収した。
傍らにある慰霊碑に一礼して急ぐ。
錫杖清水を越えてカラスの休み場に差し掛かった時に異変が起こった。
轟音。山頂を見上げると山が揺れている。どこからか霧が湧いていた。
尋常ではない雰囲気に自然と足が速くなる。
「時間は存在しない。無いものは幻想であるがゆえに巻き戻る」
霧の中、誰のものともわからない、年齢不明な女の声を聞いた気がした。
こうして這う這うの体で下山するうち、いつしか地面の揺れは収まっていた。
息を整えつつ慎重に歩を進める。
姥石あたりから垂れ込めていた濃霧が消えたと思った瞬間、怒声が轟いた。
「動くな!」
あたしに警戒の目を向けながら近付いて来た男はあきらかに異相だった。
こんな所にいる筈がない。
思わず口が動く。
「エルフ……」
あたしの言葉に男は怒気を膨らませる。
「我々はダークエルフだ! その物言い、エルフの方々に対して無礼であろう!!」