26、八兵衛、門前で一席打つ
「……瑞巌寺ですか?」
「そうだ」
「ひょっとしてこの旅籠の裏手にある?」
「うむ」
「どうするんです」
「わたしと半蔵で瑞巌寺の蔵に入ってノストラダムスとやらの中身を確かめてくる。
その間八兵衛達は暇となるであろうから、門前で一席打って間を持たせるがよかろう。
わたしらはその隙に用を済ませる」
「一席打つ……って落語ですよね。あたしは別に構いませんけど、晶さんの方はどれくらい掛かりますか?」
「半刻ほどあれば足りるであろうな、半蔵」
「へい、それで充分でさぁ」
「……ということだ。八兵衛」
「では、先に出る」
朝餉の後で宿を発った。
晶さん達が宿を出たあと、あたし達もゆるゆると暖簾をくぐる。
旅籠を出て海岸沿いを歩いくと、瑞巌寺の参道は指呼の間だった。
参道には出店が立ち並び、道を通る人も多い。
参道の入り口に建つ出入りの門を抜けて適当な場所を探しながら寺に向かって歩く。
山門の近くまで来たところで良さそうな空きがあるのを見つけた。
「ここなんかどうですかね」
「いいんじゃない」
あたしの問いに蘭さんが言葉を返す。
「あの、誰か他の方が来られたら……」
「半刻なんだしあんまり気にしても仕方ないんじゃないかな」
碧さんは心配そうだけど蘭さんは「その時はその時」という感じであたしを見る。
「まぁ、商売しようってわけじゃないので取り敢えず始めてしまいましょうか。
呂久之輔さんと碧さんは呼び込みを、
牛若さんと蘭さんはお囃子をお願いします……」
細かな打ち合わせを四人としてから、あたしは近くにあった木の切株に腰を下ろした。
目を瞑って深呼吸をし、竹筒に入った湯冷ましを軽く口に含んで喉を湿らせる。
瞑目したまま懐の扇子に手を伸ばし、軽く掴む。
「寄ってらっしゃい。見てらっしゃい。御用と御急ぎでない方は……(くっ、なんで私がこんな……)」
「(……呂久之輔さん聞こえてますよ)」
「(碧殿、南部家の騎士である私がこのような小者の真似事など……)」
「(……八兵衛さんの芸を只で見れるんですから)
ただ今これよりお目に入れますは、今、上方で評判の芸、落語ですよ。
今を逃したら次はないかもしれません」
「(言えばいいのだな。言えば)
聞くは一時の恥。
聞かぬは一生の恥だ。
寄っていけ。聞いていけ」
自棄を起こした女騎士の口上と碧さんの穏やかな語り口が通行人の注意を惹き、
牛若さんと蘭さんの三味線と太鼓が座を温める。
なんだなんだと人が集まってきて興味が高まっていくのが感じられる。
瞑目を止めて目を開けた。
座布団も畳も何もないので正坐する訳にもいかず、切株に腰を下ろしたまま頭を下げる。
「えー、本日皆様の御耳に入れまする芸は落語と云いまして、
今から三百年ちょっとばかし前の足利将軍家の頃に、お坊さんがお釈迦様の教えを村々に伝え歩くために始めたのが事の起こりとなっております」
ふむふむ、なるほど、という声が漏れ聞こえてくる。
「それでお坊さんが忙しいお百姓衆にお経の経文をただ説いて聞かせたってしょうがない、
これを面白いお話にして、老若男女問わず、
大人から子供まで誰が聞いてもわかりやすいようにしよう。ってのが落語と云うものの始まりでして、
言ってしまうなら、笑いというものが土台にあってのお釈迦様の教え、ということなんですね」
「――よく言うじゃありませんか。笑う門には福来る、って」
不図見たら呂久之輔さんがびっくりしたような顔をしている。
「その後、足利将軍家が倒れ、戦国の世を経て、天下泰平の元禄と移り変わる中で、
上方では落語がますます盛んとなっていき、今、こうしてあたしが皆様方の前に居るというわけです」
「――斯様なわけで、元々落語というものにはお釈迦様の教えに由来するものが多うございます。
今から皆様の御耳に入れまするところの蒟蒻問答。
これなんかは禅問答に由来するものなんですが、禅宗の修行というのは殊の外厳しいもののようでして、
昔、唐土の倶胝和尚という禅宗のお坊さんが、訪ねて来た客という客に人差し指を立てて見せる。
その倶胝和尚の仕草を見ていた小僧さんが面白がってこれを真似して、誰彼構わず人差し指を立ててみせていたんですね。
これ、、人差し指だったから良かったものの、小指を立てて『これ、これ』ってやってたら、
『この小僧、色気づきやがって』と破門だったと思います」
「そりゃそうだ」
観客の中から笑いが起こる。
「そういうわけで、この小僧さんの行状が倶胝和尚の知るところとなりました。
倶胝和尚、『立てるのが人差し指のうちはいいが、小指を立てるようになってはいかん』と思ったのかどうかはわかりませんが、
小僧さんを呼び出して、『お前は何時も何をしているのか」と聞いたわけです。
すると、小僧さん、得意そうに『これ、これ』と人差し指を立てた。
この時、倶胝和尚、小僧さんの人差し指を引っ掴んでちょん切っちゃった」
まるで目の前に小僧さんが居るかのように、碧さんが痛々しそうな顔をする。
「突然の痛みに逃げ出そうとする小僧さん。
倶胝和尚、走り去る小僧さんに向かって大喝一声、
お前、その指立ててみよ。
……これでこの小僧さん悟っちゃった。
指一本と引き換えに禅の悟りに入っちゃった。
ここらへんは儒学の祖、孔子さまの教えを記した書物である論語、里仁の
『朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり』に通じるものがあるんじゃないでしょうか」
あたしの話にしきりに頷いている呂久之輔さんの横では、見回り中の町方同心が同じようになるほどと唸っていた。
「そういう風に禅の修行というのは何事につけとにかく厳しい。
禅問答のお題のことを考案と云いますが、無門関という禅の考案を集めた本の中に
香厳上樹という禅のお題があります。
この香厳上樹という考案がどういうものであるかと云いますと――
断崖絶壁から横に向かって生えた木がある。木の幹は口で噛みつけるくらいの太さしかない。
禅の修行僧であるあなたはその木に噛みついて崖にぶら下がっている」
聴衆に言葉が染み渡るようにあたしは間をあけて、喉を湯冷ましで潤す。
「この時、実に間の悪いことに……って言っちゃいけません。
師である香厳和尚が崖の上に現れて、あなたの名を呼ぶ。
仏弟子であるあなたは祖師の呼び掛けに『はい!』と応えないわけにはいかない。
しかし口を開いて答えたら最後、あなたは崖下へ真っ逆さま。
『さあ、どうする! どうする! 之に答えよ!!』
『進むも死、退くも死、その中で生死を越えて腹の中から湧き上がる己の生命を見せよ!』
これが禅の問答というものです。
そして今しがた、あたしは香厳和尚が呼ぶと言いましたが、
本当に呼んでいるのは天照大御神かもしれないし、お釈迦様かもしれない」
碧さんが目に入った。
真剣な目であたしをじっと見つめている。
それ以外にも視線が刺さってくるのを感じたからそちらを見ると、
いつの間にかお坊さん達が聴衆に混じってあたしの話を黙って聞いていた。
「そういうわけで禅の考案というのものは兵法にある真剣白刃取りというものにものすごく近い。
禅問答に敗れたお坊さんが勝った方に寺を明け渡して追い出されるところなんかは武芸者の道場破りそのまんま。
生き死にの世界で日々を過ごしているお侍様方が禅の修行に打ち込むのはそういったことがあるからなんですね。
これはそういう、刃物を用いない、切った張ったの世界に紛れ込んだ蒟蒻屋のお話でして……」
ここから噺に入って、蒟蒻屋の勘違いと禅僧の深読みのし過ぎを巡るすったもんだに移る。
夢中になって噺を演じ終わると予想外におひねりが飛んで来たのにあたしはびっくりした。
蘭さんや牛若さんに混じって碧さん達も頂いたお足を集めていく。
あたしが切株から立ち上がって伸びをしていると、見物していたお坊さん達の中から白髯の老僧が進み出でて話しかけてきた。
「いや、実に面白いものを見ることができました。私にもまだまだ修行の至らぬところがあると気付かされます」
老僧が笑顔で話しかける。
「いえ、拙の方こそ未熟な芸を披露してしまいお恥ずかしい限りです」
「おやおや、それではお互い未熟者同士ということで、感想などよろしいですかな」
「はい。なんなりと」
「では……、この問答で本当に勝ったのはどちらの方でしょうかな」
「…まことにおっしゃる通りにて」
「はっはっは、そのようですな」
「はい。まさに」
「では、拙僧は失礼致します」
老僧はあたし達に会釈をして寺へと戻っていく。他の僧侶たちはその後をついて行った。
「あたし達も出ましょうか」
老僧を見送りながら、あたしは碧さん達にそう告げて撤収作業に入る。
後日、この瑞巌寺が禅寺であることを晶さんに聞かされたあたしは背筋に冷や汗が走るのを感じた。
釈迦に説法をしてしまった恥ずかしさといったら……!




