22、八兵衛、近世日本史の闇に触れる。其の四。
晶さんの全身から覇気が流れ出す。
明らかな力の奔流に晒されるのをあたしは感じた。
彼女の後に付いて外へ出る。
夜空には星が瞬いていた。
碧さんの口から出た説得の言葉が空気を通して漏れ伝わってくる。
「……ですからこのようなことは」
「碧様、このままでは儂らのことが役人に知れてしまいますだが」
「おお。皆の者、集まっておるな」
あたし達を守ろうとして碧さんが村人達を対峙している。
そこに割り込んだ晶さんはゆったりとした動作で、離れを取り囲んだ村人達をぐるりと見回して声を上げた。
顔には笑みさえ浮かべている。
「何が可笑しい」
晶さんの笑みを見咎めた村の男衆が、その覇気に呑まれつつも辛うじて叫ぶ。
「いやな、これは泣き笑いよ。お主達が哀れ故」
その言葉に村の衆がいきり立つ。
心配そうな表情の碧さんが村人を宥めようと唇を動かしかける。
「福音を口にしている者が福音を知らぬ。
ただ伴天連の口車に乗せられただけのお前達がな。
彼奴らは主を口にしつつも教えの親である耶蘇の教えに従ってはいない」
晶さんの言葉であたりの空気が変わった。
「お前達は知らないだろうが、オランダより買い入れた切支丹の経――バイブルを御公儀の重役方は皆読んでおる」
「……え?」
自分達を取り締まる側の高官が、聖書の読者であるなどということを彼らが予想できるはずもない。
人は想像の限界を越えた話を提示されると呆気に取られて惚けたようになるという。
この時の村人達の反応はまさにそれだった。
碧さんですら受けた衝撃の大きさからか、ただ、立ちすくんでいる。
「嘘だ」
誰かが叫んだ。
これに対して晶さんが応える。
「バイブルを読めるのは老中や若年寄だけではないぞ。儒者や坊主、神官なども御公儀に願い出て御許しを得れば誰でも読める」
「莫迦な。それなら何故御公儀は我ら切支丹を取り締まるのだ」
熱心党の男が反論すると同意する声があちこちから上がった。
「そうだ。我らのすばらしい教えに触れたというのならなぜ切支丹にならないのだ。おかしいではないか」
「そうだ。そうだ」
村人達はみなこの意見に頷いていた。
碧さんが揺れる瞳で晶さんをじっと見つめる。
「素晴らしくないからだろう?」
晶さんが事もなげに言い放つと村人達がいきり立った。
手にした農具を握りしめてあたし達に迫ろうとする。
「見ろ」
臆する素振りを一かけらも見せることなく晶さんは懐から一冊の書物を取り出す。
彼女が取り出したのは聖書。
「これがわかるか」
これ見よがしに高く掲げられた聖書の皮表紙には金箔で彩られた大きな十字架が鎮座していた。
「あれは……」
一人の村人の口から息が漏れた。
「そうだ。バイブルだ。お前達切支丹に福音を伝えた伴天連どもの厚い本だ。
よく見ろ、クルス――十字架が見えるだろう」
晶さんが本をひらひらと振って見せると村の衆はその場に釘付けとなる。
その様子を一瞥して晶さんは聖書を開くと、文面に目を走らせた。
「創世記章乃壱――」
「――太初に神、天地を創造給へり。地は定形なく曠空して黑暗淵の面にあり、神の靈水の面を覆たりき」
「――神その像の如くに人を創造たまへり。即ち神の像の如くに之を創造之を男と女に創造たまへり……」
村人が一体何事かとあやしみ、無言でこちらを見ている横で、碧さんは目を驚愕のあまり見開いて晶さんを凝視している。
「創世記章乃弐――」
「――霧、地より上りて土地の面を遍く潤したり。ヱホバ神土の塵を以て人を造り生氣を其鼻に嘘入たまへり人即ち生靈となりぬ」
今一度読んでやろう。
そう云って創世記一章と二章の天地創造の下りを何度も読み返した。
読んでいるうちに碧さんの顔が段々と怪訝な表情に変わっていく。
「どうだ。食い違いがあることに気が付いたか」
碧さんが考え込む様子で黙り込むのに頷いて晶さんは続きを読み進める。
「――そして町にあるものは、男も、女も、若い者も、老いた者も、また牛、羊、ろばをも、ことごとくつるぎにかけて滅ぼした」
「――申命記7:2」
「――すなわちあなたの神、主が彼らをあなたに渡して、これを撃たせられる時は、あなたは彼らを全く滅ぼさなければならない。
彼らとなんの契約をもしてはならない。
彼らに何のあわれみをも示してはならない」
「――サムエル記上15:2」
「――万軍の主は、こう仰せられる、
『わたしは、アマレクがイスラエルにした事、すなわちイスラエルがエジプトから上ってきた時、
その途中で敵対したことについて彼らを罰するであろう。
今、行ってアマレクを撃ち、そのすべての持ち物を滅ぼしつくせ。
彼らをゆるすな。
男も女も、幼な子も乳飲み子も、牛も羊も、らくだも、ろばも皆、殺せ』」
「――サムエルは言った、
『たとい、自分では小さいと思っても、あなたはイスラエルの諸部族の長ではありませんか。
主はあなたに油を注いでイスラエルの王とされた。
そして主はあなたに使命を授け、つかわして言われた、
『行って、罪びとなるアマレクびとを滅ぼし尽せ。彼らを皆殺しにするまで戦え』と。
それであるのに、どうしてあなたは主の声に聞き従わないで、ぶんどり物にとびかかり、
主の目の前に悪をおこなったのですか」
その後も晶さんが読み上げる、古代イスラエル人を主人公とした、旧約聖書の大量虐殺物語が続いた。
創世記34章にある、割礼を受ければ我々イスラエルと一つの民になれると嘘を吐いて割礼を受けさせ、
痛みで身動きできなくなったのを見計らって町に住む男を一人残らず皆殺しにして殺した話などはすぐにピンと来なかったようだけど、割礼の説明を聞いた途端、男衆の全員が無意識のうちに股間を押さえる。
「悪魔め……」
熱心党が睨むのを見ても晶さんは余裕ある笑みを浮かべるのみだった。
「これはまた異なことを。神の言葉は誰が伝えようが神の言葉であるのではないか。
お主達が生涯の中で読むことも聞くことも能わぬ筈のものを聞いているのだ。
そこで大人しくしているがよい。
聞くのは今を措いてほかにはないぞ」
二時間後に次回更新。




