5、八兵衛、女騎士の家に泊まる。
遠野テレビ:南部藩凶作・水害年表
http://www.tonotv.com/members/fukudokuhon/rekishi_kikin.htm
五戸宿で一泊したあたし達はその日も一日中歩いて一戸宿の旅籠に泊まる。
ここまでは何も起きなかった。
そして弘前を出て四日目の朝、一戸宿を発つ。
ここまでの道中で気付いたことがある。
農作業をしている農家の人たちの顔がもの凄く暗い。
それは一戸宿を出て盛岡へ向かう道中でも変わらなかった。
痩せこけた姿の農民たちが黙々と働いている。
あたしがその光景に気を取られていると南部の女騎士から声がかかった。
「……凶作続きなのだ。
一昨年の元禄12年(1699年)の大凶作では餓えた者が27,186人だったところに続いて、昨年の不作だ。
それに重ねて今年も天候がこの有り様で宜しくない。
このまま暖かくならずに夏を迎えたら一昨年のようになるかもしれん」
そう云って南部の女騎士は陰鬱な表情で俯く。
津軽を出て南部に入ってからというもの、確かにあたしも肌寒さを感じていた。
やませが吹いているせいなんだと思う。
女騎士の表情は冴えない。そんな彼女の表情を晶さんは観察しているようだった。
「元禄7年(1694年)から三年続きの凶作と飢饉では、我が南部家は参勤交代の免除までお上に願い出た。
大浦為信めが津軽を横領しなければ、という思いが我が家中には100年前から燻っているのは確かだ。
津軽が我が領であったなら、津軽から米を回してこれるものをと、な。
何しろこちらの南部領は不作でも津軽はそうでないことの方が多い。
為信めが津軽を切り取らなかったなら飢饉が起きても餓えることはなかっただろうと民百姓に至るまで思っておる」
女騎士はまるで苦いものでも口にするかのような表情で言った。
「ところでお主たち、今日は盛岡宿泊まりか?
もしもそうなら我が家に来ればいい。宿代は取らんから安心しろ」
「……ならば、そうしよう」
ちょっとの間、女騎士と視線を絡ませた後で晶さんは同意する。
「ならば案内してやろう。ついて来るがよい」
女騎士の言葉を聞いて晶さんがふっと立ち止まり、思い出したように言う。
「ああ、序でだから言っておくが、為信公の津軽切り取りは当時の南部家当主、南部晴政公の指図によるもの。
弟の石川高信と南部家の跡継ぎを誰にするかで争っていた当時の総領、晴政公の与党であった為信公が当主の命に従っただけだ。
こんなものは謀反でもなんでもない。南部家中で起きたただの御家騒動にすぎん」
「……そんなことはわかっている。わかってはいるが、わかるわけにはいかぬのだ」
「――付いて来い、我が家に案内する」
そう言って踵を返した女騎士の肩は小刻みに震えていた。
盛岡の城下には夕方前に着いた。
女騎士の先導で城下を歩くと、盛岡城の北側にある武家屋敷の密集した地域にぶつかり、その一角に案内される。
「ここが我が家の屋敷だ」
長屋門の前で打ち水をしていた下女が女騎士の声に気が付くと急いで屋敷の中へと入っていった。
下女が誰かを呼ばわる声がする。
女騎士に案内されてあたし達は玄関の三和土に足を踏み入れた。
玄関の上り框の奥、取次ぎに品の善い老女が端座して待っていた。
「これは皆様、このようなむさ苦しい所へようこそおいで下さいました」
そう云って老女は一礼すると、女騎士をじっと見た。
「ところで呂久之輔殿は
陽もまだ高いうちからのお早いお帰りですが、
もしや御役目の方を投げ出してきたりなど……」
「は、母上っ、ち、違いますっ。
こ、この者らの道中を見届けることがお役目なので、それならばと我が家に案内したまでです」
老女に無言で見つめられた女騎士が慌てたように手を振って捲くし立てた。
女騎士の顔からは血の気が引いていて、身体が小刻みに震えている。
老女の目には名状しがたい眼力というべきものが備わっているのがわかった。
「……失礼いたしました。私はこれなる娘、呂久之輔の母でございます。
皆様も長旅でお疲れのことと思います。ささ、どうぞお上がりくださいませ」
老女は恐怖のあまり震えている女騎士をしばらくの間観察していたかと思うと、あたし達の方を向いて頭を下げた。
客間へと案内される。
連れて行ってくれる女中さんはこの前、弘前城下の川端町遊郭から助け出した少女だった。
「弥栄様、この間は有り難うございます」
「御役目のことゆえ気にすることはない。
身請けの金も拐かしの一味から取り立てたので安心なされるがいい」
お礼を述べる少女は晶さんの言葉を聞いて落ち着いた表情を作り、一礼する。
女中さんに導かれて庭に面した廊下を進むと障子が開け放たれた広間にたどり着く。
広間の大きさは12畳くらいだろうか。
「こちらが皆様方のお泊りになられる客間になります。
どうぞごゆるりとお過ごしくださいますよう」
女中さんはあたし達に御不浄(トイレ)の場所を教えると、一礼したのちに、障子を閉めて去った。
旅装を解いて一息ついたあとで、脚をマッサージする。
筋肉の疲れを取りながら身体を休めていると晶さんから素敵な提案があった。
「まだ日も高く夕餉までは今少しの間がある。
八兵衛、お主に魔法の手解きをしてやろう」
個人サイトなのでURLは伏せておきますが、ぐぐると出てくる、nifty上にある「牧庵鞭牛和尚の生涯」に南部における飢饉のすさまじさが書かれています。
日本史上において発生した飢饉は567年(欽明天皇28年)から1869年(明治2年)までに大小合わせて225回ほどで、江戸時代だけに限定すると、飢饉総数の1/6強である35回。(『日本災異志』による)
七月四日正午に更新。




