紛糾した思い - 2
どのくらい立ち尽くしていただろうか。久美はふいに寒さを感じて身震いする。
厨房から料理人の笑い声が聞こえてきた。料理を並べ終えて、片付けまでの時間を潰しているようだ。
「――涼、なんだか寒いわ」
「冬ですからね。どうぞ」
原因がそれだけではないことは明白なのに、涼はそう言い彼女の肩に上着を掛けた。久美は自分の目に滲む涙を理性で押し戻す。
「さっきはあんなことを言ったけど、私はきっと就職なんて出来ないわ」
「どうしてです? スカイルナに就職すればいいじゃないですか」
不思議そうに首を傾げる涼に、「みんなそう言うのよ」と溜め息を吐く。彼女の目は窓を通り越した遠くを眺めているだけだ。
「私がスカイルナに就職しても、コネだとしか思われない。私が昇格しても、誰も実力だとは思わない」
確かにそれは事実だ。どれだけ彼女が有能であろうと、久美が社長の娘であるというだけで、勝手な悪口はまことしやかに流れていくのだ。加えて、隆志が娘に甘いことは周知の事実だ。彼女が何を言われることか――想像は容易だ。
そう思った涼は何も言わなかった。こんな目をしている彼女に、見え透いた世辞は意味をなさない。それ以前に、彼の声すら聞こえないかもしれない。
久美は空の彼方に視線を向けたまま、はっきりと言い切る。
「私は空月隆志の娘ではなく、空月久美として生きたいの。ただ、それだけ」
それが、自分の感情を出来る限り隠そうとする彼女の本心だった。
* * *
「ん……」
久美は目を覚ました。闇に浮かぶ時計を見ると、午前一時過ぎだ。しかし、昼間寝てしまったこともあり目が冴えてしまった。
そっとドアを閉めて廊下に出る。隆志に見付かったら、またうるさく言われるだろうか。いや、あんなことがあった後なら何も言わないかもしれない。
「坂田、TRESSION社の件についてはどうだ」
何とはなしに二階のトイレへ行こうとして、久美は足を止めた。隆志の書斎から漏れる光と共に隆志の声が彼女の耳に入ったのだ。こんなことは珍しくない。全ての資料に目を通す隆志は、朝まで仕事をしていることも多々ある。
興味を誘われた彼女は、部屋のドアに耳を付けて神経を研ぎ澄ます。普段は、隆志は仕事の話になると「会社のことだから関係ない」とすぐに久美を追い出してしまうのだ。
「順調ですよ。今度のパーティーのときに商品の受け渡しをしたいというのがあちらの意向です」
その内容から、久美は何かの取引の話なのだろうと推測する。スカイルナでは洋服以外の商品も取り扱っており、アクセサリー類はその高価さ故に直接取引しているのだろう。
「そうか。承知したと伝えておいてくれ」
「わかりました」
「頼んだぞ」
隆志はそう言ったが、帰りかけた坂田を制したようだ。足音が止まる。
しかし、坂田は用件を催促するようなことはしなかった。一瞬の沈黙の後、隆志は絞り出すように声を発した。
「――坂田、双樹学院には貸しがあったはずだな」
……どうして、その学校を。
久美は心臓をぎゅっと押し潰されるような感覚を感じた。隆志が言ったのは、今日彼女が玉砕した高校だ。坂田はそれだけで話の流れを察したのだろう、硬い声で返答した。
「ええ。……社長」
「双樹学院に女子生徒一人の入学手続きをしてくれ」
すっと目の前が暗くなった。隆志が何をしようとしているのか。それは、久美の理解の範疇を超えていた。体から力が抜けていく。
しかし、彼女の膝が折れる前に坂田がドアの方へと近付く音が耳に届いた。見付かるわけにはいけない――先ほどまで動かないと思っていた足は、少し力を入れるとすぐにその一歩を踏み出した。久美は素早く側の部屋へと逃げ込む。
遠くなっていく足音を聞いた久美は、その頬に涙が伝っていることに気付いた。いろいろなものに対する行き場のない感情が、堰を切ったように溢れ出してくる。
久美は自分の砦に逃げ込み、全ての現実を押し出すと眠りについた。
* * *
朝食を済ませ食器を運び終えた涼は、突然腕をどつかれた。こんな風に彼に接してくる人間は一人しかいない。
「お疲れさん。……久美さんは不機嫌だったな」
「やっぱりわかりました?」
朝食の間、久美は隆志と口を利かないどころか、一度も目を合わせなかった。大食らいの久美に「サラダならまだまだ残っているぞ」と差し出した隆志の手は、彼女に払われ虚しく空を彷徨った。
涼は二人のやり取りを横目に見ながら、いつ喧嘩が始まらないかひやひやしていたのだ。自分の隣に座っていた坂田にも、その空気は嫌というほど伝わってきたのだろう。
「あれだけ露骨ならわかるだろ。社長も相当参ったご様子だったぞ」
顔をしかめる彼は、きっと原因を探ってこいと命令されたのだろう。しかし、その期待には沿えそうにない。涼は首を振って
「昨日は特に何もなかったと思うんですけどね」
「とすると、やっぱり受験絡みか」
坂田はそう言って頷くが、長年久美を見てきた涼にとってその考えは肯定出来るものではなかった。
久美は自分をよく知っている。自らに非があるにも拘らず責任転嫁をするような人であれば、涼は八歳も年下の彼女を敬慕しなかったであろう。
しかし、それ以外に考えられることはなさそうだ。人もいつしか変わっていくものなのだろうか。彼は坂田に気付かれないよう、そっと溜め息を吐いた。