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箱庭プリズナー  作者: 雨宮万里
本編
21/24

追憶と終焉 - 4

 坂田が気の抜けた溜め息を吐いたそのとき、軽く地面を蹴る靴の音が駆け抜けた。黒い影がシャッター横に積まれた段ボールから飛び出す。

「まずい、取り逃がした」

 坂田は苦い声を上げ、豊も入口を振り返る。彼らに見付からないよう隠れながら脱出を試みた男がいたようだ。坂田は舌打ちをして駆け出そうとしたが、背中の重みにいつものような一歩は踏み出せない。坂田の足と同時に飛び出した豊がその横を駆け抜ける。

 しかし、男が去った一瞬の後、がくんと音を立ててシャッターが下がり始める。

「あの野郎」

 坂田は顔をしかめ悪態をついたが、シャッターの閉まる速度は遅々としたものだ。彼は焦ることなく、隆志を背負ったままゆっくりと外へ歩いていく。壁に取り付けられた開閉スイッチは見るも無残に壊されていたが、まだ外に出る時間は十分にある。だが問題は――坂田は倉庫の中をぐるりと眺めた。

 西側に設置された鉄製の梯子を上がっている涼の姿を認め、彼は足を止める。涼は整備用通路から倉庫を見渡し久美を探そうとしているようだ。

「入り口のシャッターが下がり始めた。早くしないと閉じ込められるぞ」

「はい。すぐにお嬢様を見付けます」

 滑らかに返事をしてさらに上の段を掴もうとした手を、掠れた低い声が止める。

「藤江」

 それを発したのは隆志だった。彼は表情こそ苦しげだったが、その瞳にははっきりとした意志が見て取れた。隆志は涼をまっすぐ見据え、その思いを託した。

「頼んだぞ」

「ええ」

 涼はその言葉に確かに頷いた。すぐに顔を梯子へ向け、整備用通路へ上ると倉庫を見下ろす。

 作業場には目ぼしいものはなく、壁の側は立て掛けられたに木材があるだけだ。しかし、南に積まれた段ボールの陰に、壁を大きく切り取って造られた窓が見えた。二つの窓が見え、そのうちの一つは明かりが点いている。涼は裏口の通路を通ったときに、いくつものドアがあったことを思い出した。

 涼は通路の柵を軽々と越えると地面に降り立つ。彼は明かりの方へとまっすぐに走り出した。

 うず高く積み上げられた段ボールの奥には隠された窓があった。元々は作業場を見渡せるように設計されたそれは、次第に休憩所として使われるようになり、倉庫が倉庫ではなくなった途端存在意義を失った。そして、その窓は数十年ぶりに障害物を取り払われることになった。

 ガラス越しに凛とした声が響く。聞き間違えるはずがない、彼女の声だ。

「あなたも私をそういう風に見ていたのね」

 ガラスの奥には二人の人物がいた。窓に背を向けた少女は涼の存在に気付いていないのか、振り返ることはしない。電球が不規則に瞬く。薄く埃の膜が張ったガラスの向こう側に、赤いワンピースの裾が翻るのが見えた。

「――空月隆志の娘、って」

 久美が一歩踏み出す。その奥にいる今田と目が合った。彼は唇を吊り上げて微かに笑った気がした。今田の腕が華奢な体を抱き寄せる。

「久、美」

 涼の口の端から声が漏れる。コンクリートに赤い滴が落ちるのが、いやにはっきりと目に焼き付いた。

 かっと脳の奥が熱くなり、涼は衝動のまま銃を窓に叩き付けた。手が切れるのも構わず窓枠を掴んで部屋に飛び込む。

「何をやって――」

 今田を睨み付けた涼は目を見開き、言葉を失う。彼女の両手は見覚えのある柄を握っており、その先は今田の腹に深々と刺さっていた。しかし、今田は絶え間なく血を落としながらも、倒れることなくしかと立っている。

「動くな」

 そして、彼は片手で彼女の体を強く捕まえていた。見せ付けるように掲げられた今田の右手には、鉄製のガソリン缶が揺れている。涼の顔面はみるみる青くなっていく。

 久美の両手は涼が見ても明らかなほど震えていた。言い知れぬ恐怖を払いのけようとするかのように、彼女は今田を見上げて金切り声で叫ぶ。

「刺されたっていうのに、どうしてそんなに平然としていられるの!」

 今田の腹からは不規則なリズムで滴が落ち、足元に血溜りを作っている。涼へと向けられた目を下ろし、彼の瞳が久美を貫いた。

「人を殺そうとするなら、殺される覚悟もすることだな」

 ぞっとするような冷えた視線に射竦められ、久美は押し黙った。彼は周囲にガソリンを撒き、空になった缶を無造作に投げ捨てる。ポケットから取り出したオイルライターの火に照らされた彼の顔は狂気に染まっていた。

「はは……そうさ、最初からこうすればよかったんだ」

 今田はそのままライターを放り投げる。銀色は緩やかな弧を描き、コンクリートへ落ちていく。それは電球の光を反射し、一瞬きらりと光った。

 ライターが地面に叩き付けられると同時にガソリンが発火する。しかし、それは二人の周囲をも巻き込んだ爆発となった。

 凄まじい音を聞くと同時に視界が真っ白になる。遅れて、久美はじわりと皮膚をなぶる熱を感じた。彼女は唖然としたが、その一瞬今田の拘束する力が弱くなったことに気付いた。これを好機とばかりに、握りしめたナイフごと彼の身体を突き飛ばす。黒い服が赤い炎に飲まれていった。

「久美!」

 声の方向を振り返ると、涼が火の中心に飛び込んでいた。久美は自らへと伸ばされた手を取り、ひらりと火をかわして跳ぶ。そして、二人は事務室の外へと駆け抜けた。

「早く逃げましょう」

 涼は鍵を開けて裏口のドアノブを回したが、それは空回りするだけでドア全体が固定されているかのように微動だにしない。二人は通路を抜けて作業場へ飛び出した。

 錆びて劣化していた整備用通路は足場を焼かれ、炎の中に沈んでいる。通路に上って窓から脱出するという選択肢は選べない。さらに、既に火の手は回り、炎は倉庫内の段ボールや木材にも燃え移っていた。このまま放っておけば、大した火災対策をされていない倉庫が数分も経たず崩壊することは間違いないだろう。

 そして、表のシャッターは既に完全に閉まっていた。涼はシャッターの座板を手で持ち上げようとしたが、びくともしない。彼の膝が崩れ落ち、絶望が口をつく。

「くそっ……!」

 やるせない悔しさに、涼は硬いコンクリートの床を殴り付ける。手加減はしなかったが、痛みは感じない。彼は何度もその行為を繰り返した。皮がめくれ、赤黒い血に白い骨が見える。

 彼の様子をよそに、久美は事務室へ近付き体を向けた。元々年月によって劣化していた壁は爆発の衝撃で半壊し、その向こう側は火の海になっている。その赤に一つの黒い影が浮かぶ。

「一つ聞きたいの」

 今田は炎に揉まれて苦悶の表情を浮かべ、彼らへと手を伸ばしながら立ち上がろうともがく。肉の焼ける不快な臭いが鼻を突いた。頭が痛い。

「お母さんは私のことを愛していたと思う?」

 彼女の指す『お母さん』とは絵梨のことだ。炎から逃れようと足掻いていた今田は、その言葉を聞いて顔を歪めた。

「それを……どうして俺に聞く……」

 その台詞を最後に、今田は体勢を崩し、燃え盛る火の中へ倒れていった。その軌跡が綺麗だと思った。

 久美は踵を返し、涼の元へと戻る。拳を打ち付けることにも疲れ、全てを投げ捨てたように俯く彼に目を向けるとぽつりと呟く。

「私たち、死ぬのかしら」

 言葉と共に久美の体がぐらりと傾き、茶色の髪とスカートが宙を舞った。涼はそれを反射的に支えたが、体は鉛を身に付けているかのように重い。

 水の中をもがくような息苦しさに、火事の死因の一つが思い至る。倉庫を燃やし尽くそうとする火は一向に弱くなる気配がないのに、彼の背筋にはぞっと悪寒が這い上がった。

「お嬢様、寝てはいけません」

 ぱらぱらと火の粉が足元に散る。肌が感じる温度は次第に熱くなり、視界がぼんやりと不明瞭に曇っていく。

 遠のきかけた意識を引き上げたのは、シャッターの向こう側から飛んだ怒声だった。

「おい! 大丈夫か!」

「……父さん」

 聞き覚えのある声は彼の父のものだ。涼は重い瞼を押し上げ、炎に揺らぐシャッターを見つめる。

「そこをどけ!」

 涼がその言葉に反応する間もなく、白いシャッターはけたたましい轟音と共にへし曲がった。

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