23 世界を我が手に
コルトM1851ネイビーが、製造されたのは西暦の1851年。当時、最も優れたパーカッション式機構を採用した最新型の回転拳銃で、販売元は米国の大手武器製造メーカー・コルト社。
19世紀は、銃器における発想と技術の蓄積が収斂された、まさしくエポックメイキングの時代であって、それ以前の拳銃を完全に乗り遅れた過去の産物にしてしまうような、世代を代表する革新的な名銃が次々と生まれては消えていった過渡期であった。
パーカッション式拳銃とは、リボルバーのシリンダーに空いている穴、薬室一つ一つに使用者が火薬と雷管、弾頭を詰めることで弾込めを行う、今からみれば原始的な、しかし発明時には、かなり画期的な設計の産物であった。
正しく当時を代表する名銃の一つとして販売当時から絶大な評価を獲得し、全世界で二十万丁が製造されたコルトM1851ネイビーであったが、ほぼ二十年後には、パーカッション式に比べて再装填の手間と速度が半分以下で済む金属製薬莢が世を席巻し、それに対応した新式の拳銃も次々と販売されて、完全に時代遅れとなってしまう。
それでも、優れた設計思想に基づく整備のし易さ。使い易さ、頑強さ、高い命中率といった銃にとっての重要な要素を兼ね備えたコルトネイビーは、人気において後代の名銃にも引けを取らなかった。
なにより、使用者が前準備を怠らなかった場合、予め準備した装填済みシリンダーを丸ごと交換することで、再装填では金属薬莢の銃をも上回る速度を発揮できることも在り、長く愛用し続けた人間も多かった。
しかし、牛泥棒に対する備えや土地を目当ての先住民との小競り合いなど、生身の人間同士が撃ちあう時代であれば、充分な殺傷力を有していたコルト・ネイビーであったが、遺伝子操作された怪物が彷徨うティアマットを自由に歩き回りたいのならば、もっと強力な武装を入手する必要があるだろう。
例えば、人間に対しては致命的な威力を発揮する45口径の大型拳銃でさえ、ヒグマやグリズリーのような大型肉食獣に対しては、急所に当たらない限り大した打撃は与えられない。
9ミリ弾など、分厚い頭蓋骨に弾かれたりする。
『煙草屋』が信頼を置く36口径のパーカッションガンでさえ、それら肉食獣からしてみれば、文字通りに小口径の豆鉄砲に過ぎないのだ。
そしてなにしろ惑星ティアマットであるから、遺伝子操作によって誕生した生物兵器の中には、グリズリー以上の巨躯や身体能力を持つ怪物がいても不思議ではないし、それと遭遇する日が何時、来ないとも限らない。
バンデットでも、レイダーでもなんでも構わないが、噂に聞く盗賊の群れや奴隷商人なども、防弾仕様のコンバットアーマーやらバトルスーツを纏う者はいるに違いない。
いずれにしても先住民である人類が、勃興しつつあるミュータント各種族と残された土地を巡って激しく覇権を争っているティアマットで活躍するには、西部開拓時代の火器はやや力不足だろう。
(……自分で言っててなんですが『先住民』か。全てを奪う気満々過ぎて恐すぎますのだ。
呼ばれる立場は、さぞ不快で恐ろしかったでしょう)
地球は北米地域において、押し寄せてきた新教徒たちとの争いに敗れた原住民達は『コロンブスの『発見』以前、アメリカに住み着いていた野蛮人』として扱われ、狭い土地に押し込められた挙句、今は僅かな生き残りが細々と居留地で暮らしているのみだと聞いている。
実際のところ、接触した当初、北米の原住民たちは、困窮していた初期の入植者たちにその地で生きる為の術や気候に適した作物などを教えたのだが、しかし、助けられた新教徒たちは道が開けたことを『自らの神』に感謝しつつ、改めて『新天地』の開拓を心に固く誓ったのだった。
広大で豊穣な北米大陸に生まれ、豊かさを享受していた先住民に対し、祖国で食い詰めた移民たちにはもはや後がなかった。
人数は劣り、技術の格差も初期には決定的な要因にはなりえず、しかし、もはや失うものもないピルグリム・ファーザーズたちは、こと危機感と野心に置いては先住民をはるかに凌駕していた。
内部意志の統一がなされ、先住民を外敵と見做し、その領土に対する征服でコンセンサスを一致し、長期的な展望と計画の立案、遂行においては人口と国土に恵まれている先住民とは比較にならなかった。
正邪は別として『持続する意志』が英雄の条件の一つであるならば、北米移民の初期の指導者たちは間違いなく英雄の資質を持っていた。
『善なる行いには相応する報いがある』という格言があるが、北米原住民の境遇が報いだとしたら、とんだ皮肉だ……そうギーネは思っていた。
北米原住民の哲学では『大地は祖先から受け継いだものではなく、子孫から借りたもの』と見做されている。
『子孫から借りたもの』は、しかし、結局、子孫の手には返ってこなかった
おそらく原住民は、迂闊に『また貸し』するべきではなかった。
開拓者たちを容赦なく鏖殺するべきだったのだ。
得てして、人は歴史の美や成功、輝かしい側面にばかり目を奪われがちであるが、ひとたび影の領域に目を向けてみれば、其処には闇に葬られた夥しい敗者たちが声なき怨嗟を上げ続けている。
ギーネ・アルテミスの母国・アルトリウス帝國にとっても実は他人事ではない。
惑星アスガルドの『先住民』であるアルトリアンもまた、異世界からやってきた『移民』『入植者』たちによって脅かされているからだった。
次元世界を結ぶ『門』を維持するには、地磁気の安定と微細な調整が必要不可欠であるのだが、建国の祖が惑星アスガルドへと入植し始めて半世紀。
大気改造工場が完成し、また極地に地磁気を操作する設備を構築し『ゲート』を安定させられるようになった頃から、相次いでアスガルド各地に異界からの『門』や『穴』が開くのが観測され始めた。
『門』を維持し易い地磁気の安定化とアスガルドの自然環境を暮らし易く改造した結果が、異界の侵略者達の関心を呼び、招かれざる客人たちを呼び寄せてしまったのだろう。果たして『門』や『穴』より現れたのは、その殆どが未知の知的生命体であった。
帝國人は、自らの技術で『門』を開ける文明を持つ種を『来訪者』と呼び、地球系とは異なる由来の種族を『異邦人』と名付けたが、その中には数々の危険で、しかも敵対的な知的種族が含まれていた。
一方、好むと好まざるとに限らず、偶発的に自然発生した『穴』を通ってこの世界へとやってきた種族の大半は、それほど高い文明を有していなかった。
帝國人は彼らを異民族と呼び、中でも敵対的で好戦的な傾向を持つ者たちを『蛮族』と呼んで忌み嫌ったが、関わりを避けようとも、本土であるヴァルハラ諸島の近郊にさえ、異界への『門』や『穴』が開く事態が幾度か発生している。
本拠地とは遠い東の大陸において、帝國は当初、他種族との接触を避け、レアメタルの鉱山や貴重な動植物の生息する地域のみに限って小規模なコロニーを築いていたが、やがて好むと好まざるとに関わらず、他者との関係を強いられることとなった。
従属を求め、或いは襲撃してきた勢力を打ち破り、時に移住先の他種族に、或いは『穴』の向こう側の敵対勢力に攻められて、庇護を求めてくる者たちを傘下に治め、徐々に東方領は拡大。
ローマ帝国のように守りきれないほどの長大な国境を抱える前に、帝國は東部国境線を制定。
不拡大政策を採用し、外部には不干渉と中立を貫く国是を定めたが、しかし、野蛮な『異民族』『蛮族』は、資源や生存圏、覇権を求めて争い続けているし、勿論、帝國領土も定期的に攻め込まれている。
幾つかの『異邦人』『来訪者』たちも強大な本国からの指令によって、時空の結節点である惑星アスガルドを支配下に治めんと今も蠢動を続けている。
中には母星が死に瀕しているらしく、死に物狂いで攻めてくる種族も存在しており、奇怪な技術を駆使し、接触した当初から、先に入植していた地球系アルトリウス人を『先住民』と呼んで駆逐しようとする『来訪者』勢力と帝國は、血で血を洗う闘争を繰り広げていた。
謎めいた『来訪者』の技術体系は、時折、偶然できる歪みも『穴』を通って零れ落ちたり、自然発生した『門』で往来している『異民族』とは比べ物にならず、精神的な意味合いでも、帝國の作った道筋にただ乗りする形で後からやってきた地球系の『新移民』たちより遥かに危険な存在であった。
アルトリウスの民も、また、ゲートを通ってきた植民者だと知った現在『来訪者』たちも我こそが先にアスガルドを『発見』したと惑星全土の占有権を主張しつつ、今も尚、戦いは続いていた。
外を眺めながら、ギーネ・アルテミスは自嘲に頬を歪める。
鏖殺するべきだった、か。ふん。言うは易く行うは難しだな。
果たしてわたしが同じ立場にあれば、できたのかな?
開拓者たちには、当然に女子供も含まれていたのに。
帝國の始祖たちには、その決断が出来なかった。
正しいが残酷な手段を取れなかった。
尊敬すべき高潔さか、唾棄すべき愚かさであったのか。
兎に角も、現在。異民族の浸食を許した惑星アスガルドでは、千年もの長きに渡って泥沼の戦争が続いている。
帝國に異種族をアスガルドから駆逐する力はあるのか?アスガルドから追い返された異種族はどうなるのか。
何が正しいのか。最終的な勝利を掴むには、いかな道を歩むべきか。
まつろわぬ全ての種族を根絶するつもりか。闘争か、共存か。いずれを志すにしろ、その道のりは長く険しい。
そこまで考えてから、ギーネは憮然として溜息を洩らした。
無駄に壮大なスケールで展開されている文明の興亡ですけど、そんなこと関係なくギーネさんは、逃亡先のティアマットで今日も虫狩りですのだ……あーあ。なんですかね。この展開。ちょっと人生イベント厳しすぎますぞ。ゲームだったら、ワゴン行き確実の糞ゲーなのだ。
破れた窓から外に広がる廃墟の住宅街を眺めつつ、物思いに耽っている亡命貴族を他所に、短時間に幾らかは打ち解けた『煙草屋』とアーネイが談義していた。どうやら互いの見知った情報を交換しているようであった。
「……バンデットと遭遇したことは?」『煙草屋』が尋ねる。
「幸いといっていいかな。今のところ、まだありません……連中、どの程度の武装を?」
壁に寄りかかったまま、アーネイは『煙草屋』に問いかけてみた。
「あくまで俺の経験した範囲の話だ。それでいいなら話すよ」
「ええ、其れで構わない」
アーネイが肯いたのを確認してから『煙草屋』は口を開いた。
「東海岸をうろついているバンデット連中の大半は、大した武装は持ってない。
ナイフだの鉄パイプだの、銃火器なんかも持っていてもスクラップ寸前のジャンクばかりさ。
ぼろぼろのライフルに弾を撒き散らすバカマシンガン、暴発しないのが不思議なガタガタの拳銃。まあ、きちんと伏せてれば、滅多に当たるものじゃない」
口元に皮肉っぽい笑みを湛えながら『煙草屋』は、眠たげな細目をやや見開いて言った。
「まあ、理由もある。人口の薄いここらじゃ実入りも少ねえ。
立派な武装を持ってても採算も取れないし、予備部品が入らんから整備も難しい」
最大の警戒対象であったバンデットの武装が、実はそれほど大したものではないと耳にしたアーネイは、内心、微かに安堵の吐息を洩らした。
『煙草屋』の話は、他の行商人や知己となったハンターなど、複数の人物から聞いた噂話と殆どの点で共通している。
裏を取らずとも、情報の精度と内容はまず精確に違いない。
例外であれば噂となるだろうし、各地で急激な変化が起こる可能性も低かった。
「総合してみれば、バンデットに対して、過度に警戒を覚える必要はなさそうです」
髪をかき上げつつアーネイが微笑んで言うと、『煙草屋』は舌打ちして肩を竦めた。
「……喜ぶべきか、其れとも悲しむべきかな。
まともな武器が手に入らないのは、恐らく俺たちにとっても同様なんだがね」
地球西暦で二十世紀頃の銃火器は、製造し易く、同時にそれなりの威力を誇っている。
異民族相手の長年の戦争と、それによる遺伝子調整によって、ギーネとアーネイの肉体は通常の人間を大きく凌駕している。9ミリ弾の二、三発受けても揺るがない強靭さを有しているが、効率的に火器を運用する武装集団に襲われたら、さすがに一溜まりもなく挽肉にされてしまう。
ティアマットを訪れた日から今日まで、複数の人間から聞いた話を総合したところ、やはり銃弾自体もかなりの貴重品であり、火器を集中運用できる規模の組織は、近隣には早々いなさそうであった。
自分たちにとっても銃火器が手に入り難いのは癪であるが、脅威が一つ減ったのは喜ばしい。
そう、アーネイがぬか喜びしていたのもつかの間『煙草屋』は知りたかったが、聞きたくない情報を聞かせてくれた。
「ただ、大きな街道筋に出没する連中は組織立っているし、実際に手強い。
先刻、あんたたちが懸念していたような、マシンガンやライフルで武装した集団も耳に挟んだことがあるぜ」
軽く舌打ちしたアーネイだが、逆に言えば、武器の製造能力も在るところには在るということだろう。
気持ちを切り替えて話題に突っ込んでみる。
「……そこのところ、もう少し詳しく話してもらえるかな」
「駅前のデパートや元警察署なんかを根城にして、通りがかったキャラバンや旅人を襲っている連中さ。
そういう連中は、獲物が大きい分、人数も多いし、装備も相当な代物だそうだ」
「悪漢がそんなに分り易く、派手に動き回っていて討伐などはされないのですか?」
「悪漢って……見た目の割りに古臭い言葉を使うねえ。あんたも。
だが、隊商の用心棒や腕利きのハンターが、何組も返り討ちにあっている。
他に英雄ぶった世間知らずや正義の味方を標榜する連中がいない訳じゃないが……
口ほどに行動が伴うとも限らんし、例え何処かの命知らずが悪との対決を志したとしても、必ずしも正義が勝てるとは限らないのが現実なのさ」
苦い表情を浮かべつつ、乱世を揶揄するような言葉を皮肉っぽい口調で洩らした『煙草屋』だが、バンデットのうちでも特に警戒を要すべき集団やその根城、縄張りについて二、三の情報を教えてくれた。
「と……俺の知ってることは、そんなところだな。出来れば、今度はそちらが人喰いアメーバと蟻んこについて知ってることがあれば、教えて貰えると有り難い」
「……貴方の話は参考になった。ええ、勿論」
アーネイは、手を振って肯いている。
「ですが、正直。蟻については、よく分かっていない。市街地の中心近くに大規模なコロニーが存在していること。それを中心に近隣に幾つかの小規模な巣があることだけは判明しているが、それだけです」
「そんなのは俺たちも知ってる」
「……でしょうね。なので、人喰いアメーバについてお話します。
此処、最近の話ですが……『町』から見て南の廃墟を中心に、相当数のアメーバが目撃されています」
「ふむ」
『煙草屋』は、興味を覚えたらしい。
身を乗り出しながら、アーネイの説明に耳を欹てている。
「私たちの知る限りでは単独、ないし二匹から五匹の小集団で彷徨っていることが多いですが、一方で百匹近いの集団に膨れ上がり、隊商を襲撃したような例もあります」
「……隊商?何処のかな」
アメーバの数を聞いて顔を顰めた『煙草屋』は、次に隊商の名前に興味を示したが、アーネイは首を振った。
「さあ。興味が無かったので名前までは……ただ隊商の護衛が幾人も負傷してギルドの治療院に担ぎ込まれたとの事。襲撃してきたのは、半端な数ではなかったと思われますよ」
人喰いアメーバについて知っている限りの噂をアーネイが語りだすと、疲れきった表情で床に寝転んでいた『服屋』も耳を欹ててきた。
あちらこちらと遍歴する行商人たちにとって、地元のハンターから聞く情報は命綱となる。
「アメーバが繁殖し、大集団で行動するには、中心となる箇所に大きな水場が必要だが、この近くにその条件を備えた格好の場所があります」
「アトラス自然公園か?何度か、通り抜けたことがあるな」と『煙草屋』
「あくまで推測ですが……恐らくは自然公園中心部の湖を中心に縄張りを拡大しつつあるのでしょう」とアーネイ。
「……だが、繁殖に絶好の条件なら、何故、今までは大発生しなかった?」
『煙草屋』が首を捻る。
「分からない。ただ、頭だけは抜群に切れるうちのお嬢さまが言うには、人喰いアメーバの繁殖サイクルからして、急激に生態系のバランスが崩れた可能性はかなり低い、と。
それよりも誰も気づかないうち、かなり以前から公園の奥地で密かに繁殖していたのではないか。
そして、その集団が何らかの外部刺激を切っ掛けとして行動範囲を広げ始めたと推測しているそうです」
「……切っ掛け?」苦い表情の『煙草屋』
「書籍や文献などのデーターベースから、過去の事例を紐解いただけの推測と前置きした上でですが、多分、外敵の攻撃による可能性が高い、と。
それこそ巨大蟻との接触かも知れませんし、何処かの馬鹿なハンターが刺激になったのかも知れません」
飲み込めないような顔をしていたので、窓際のギーネが説明を補足した。
「つまり、大発生に伴って形成された小規模な群れのひとつが住み着いたのではなく、巨大なコロニーの生息域が広がった可能性が高いということです」
二人の帝國人から聞いた言葉を脳内でゆっくりと咀嚼した『煙草屋』は、苦い笑みを口元に湛えながら顔を掌で撫でた。
「参ったなあ……もし、それが事実だとしたら、少人数では通り抜けるのも難しくなる」
不機嫌そうに鼻を鳴らしてから、カウボーイハッとを抑えて天を仰いだ。
「おまけにギルドがハンターを雇って討伐したとしても、でかい群れの末端を叩いたに過ぎん。すぐに幾らでも湧いて出る。となると、この先、ずっと道が使えなくなる可能性もあらあな」
言った『煙草屋』が陰気な沈黙に沈み込むと、重たい時間が通り過ぎる。
暫くは、誰も口を聞こうとしなかった。
大半のティアマット人。少なくとも『煙草屋』のような一般人の感覚からすれば、変異生物の大発生という凶報は、一種の自然現象であった。
いかな手立てを取ろうが人の力では防ぎようのない、地震や津波と同様の天災。
とは言っても、地震や台風は何時までも居座りはしない。
一方で、この災害には意志があって、人類に対して悪意を抱いているか否かは定かではないが、ずっと街道に居座る上、下手をすれば時間と共に拡大しかねないのであった。
それでも一見、突然の『大発生』に見えるこれが、巨大な群体の生息圏の拡大に伴う先触れだとすれば『煙草屋』は勿論『町』のギルドや市議会も手のうちようはないだろう。
一匹二匹や小規模な群れなら兎も角、蟻やアメーバなどの生息圏そのものとなると人類の国一つと同義であった。仮に発生しても、下手に手出しするよりは、神に祈るか、念仏でも唱えたほうがいい。
運が良ければ、何事も無く頭の上を通り過ぎてくれるかも知れない。
二世紀も前の先祖が、万物の霊長。生態系の頂点の座からうっかり滑り落ちてしまって以来、そうした局面では諦観を持って静かに受け入れるのが大概のティアマット人類の習い性となっていた。
生まれながら自然環境と育っていく過程での経験が、そんな常識を人々の意識下に育んでいる。
怪物も、変異生物も、自然の一部。時に大発生して人類を脅かそうと、自然災害と諦めて、なんとか折り合っていくしかない。
が、此処に全くの異世界からやってきた無知な異邦人が二人。
ギーネ・アルテミスは窓辺に佇みながら、天を仰いだ『煙草屋』を不機嫌そうに見つめていた。なぜかは分からない。男の口元に浮かんでいる穏やかな笑みが何とも気に入らなかった。
思わず、音高く舌打ちした。少しはしたない振る舞いであったかも知れないが、今の亡命貴族は、そうしなければ気持ちが治まらなかった。
気に入らなかった。どうみても一角の男であろうに、災厄が荒れ狂い、悪が栄える世の中を当たり前だと、諦念さえ抱かずに受け入れる『煙草屋』の皮肉っぽい言葉も、だからといって、何が出来る訳でもない己の無力さも……。
『気に入りませんね。うん、やはり気に入らない』
主君の独り言を聞きつけて、アーネイが眉を顰めた。
『……お嬢さま?』
『力なき民草が悪の栄え、怪物に踏み躙られるを当たり前と見ている。己や正義の力なきを嘆くことさえしない。此れを末法の世と呼ばずして、なんと呼べるでしょうか』
ギーネ・アルテミスは顔を上げると、決然として帝國語で言い切った。
『よし、決めました。世界征服しましょう』
朝食に納豆食べたいと言うのと同じくらい軽い口調で、ギーネは世界征服すると宣言した。
聞き間違いかと主君を凝視したアーネイだが、ギーネは目をパチクリとしている。
『何をそんなに見ているのです?ギーネさんが美人だからといって、そんなに見つめられると照れるのだ』
頬を染めつつ首をフルフルさせている主君の姿に、アーネイはホッと胸をなでおろした。
『良かった……何時ものお嬢さまだ』
何処か安心しながら、アーネイも微笑み返した。
他人の眼から見れば、突拍子もない発想を思いついたり、或いは実行に移すように映ることの多いギーネだが、傍にいるアーネイは知っていた。
主君の着想は基本のところで堅実であり、地に足が着いている。
少なくともこの時点までは、今までの経験からアーネイはそう思っていた。
ギーネ・アルテミスが正真正銘の天才だとしても、無から有を作り出す全能の力の持ち主でもなければ、軍隊の出てくる魔法の壷を所持している訳でもない。
こんなあっさりとした口調で、地球にも劣らぬ表面積を持つ広大な惑星の征服に取り掛かろうなんてと言い出す筈ないと『信じたかった』。
きっと、耳の錯覚だろう。疲れが溜まっているのかな。
ホテルに帰ったら、ゆっくりと休もう。
そう自分に言い聞かせてつつ、アーネイはギーネを別室へと引っ張っていった。
「……な、なんです?引っ張って」
「少し二人きりで相談したいことがあります」
『煙草屋』が怪訝そうな眼差しを向けてきたが、ええい、構うものか。
物影に移ったアーネイは、咳払いしつつ主君へと向き直った。
『申し訳ありません。どうにも聞き間違えたらしく、私の耳には世界征服と聞こえたのですが……』
『くふふ、聞き間違えではありませんぞ』
何を勘違いしたのか。胸を張って堂々のたうギーネの返答を耳にして、アーネイは今度こそ絶望のどん底に落とされた。
『気でもくるったかー!』
アーネイの脳裏で目玉の妖怪が叫んでいた。
『な、なんですか……いきなり大声で叫ばないでくださいよう』
無意識のうちに、口に出していたらしい。びっくりしつつも、憮然として耳を指で塞いでいるギーネの前で、アーネイは頭を抱えて唸り声を洩らした。
やっぱりだよ。一生懸命、錯覚だと思い込もうとしたのに台無しだ。
どうして世界は、こんなにもわたしに辛く当たるんだろう?
陸に打ち上げられて三時間は経過した魚類の眼差しをしつつ、気を取り直してアーネイは主君に問いかけた。
『失礼。つい本音が……ではなく、冷静さを欠いてしまいました。申し訳在りません。
ところで今の話の流れで、如何にしてお嬢さまが世界征服という結論に至られたのか。
非才の身であるわたくしにも理解できるよう説明していただけると幸いなのですが?』
『こんなどうしようもない惑星、私が征服して統治してやらなければ治まらないでしょう?』
なにを当たり前な、とでも言いたげにギーネは胸を張って答えた。
突っ込みどころも満載を過ぎて零れ落ちるほどになると、人とは逆に何も言えなくなるのだと、アーネイはその身を持って思い知った。
それでも常識人の範疇にあったアーネイは、なんとか気力を奮い起こし、主君を翻意させようと説得を続けた。
『……自慢の銀月騎士団も主力の連隊も散り散りなのですよ?どうするんですか?』
『なればこそ!この地で新たなる騎士たちを募るのだ!』
例え、その頑張りが山脈を針で突くが如き、無為徒労に終わるのが明白な行為であっても、アーネイの努力は誰にも否定できないだろう。
絵画にしたら『絶望』と題されそうな表情を浮かべているアーネイを他所に、決然と言い切ったギーネは、鼻息もふっふーんと荒く、満面のドヤ笑顔となっている。
余人であれば冗談として受け取ったであろう主君の言動だが、しかし、不幸にもアーネイ・フェリクスは知っていた。
地上でただ一人、ギーネ・アルテミスを骨の髄まで理解しているアーネイにだけは、理解できた。
こいつは、本気だ。アスガルドの神々に懸けて、やるといったら絶対にやる。
いずれ、そう遠くないうち、無謀にも『世界征服』計画とやらに向けて動き出すに違いない。
そして、その時、付き合わされて割を食うのは誰だろう?私じゃないといいなあ。
現実逃避しているアーネイの手が微かに震えていた。目の前のポンコツ君主は、まるで名案を思いついたかのように瞳をきらきらと輝かせている。もう駄目だ。手の施しようがない。
惑星ティアマットは、崩壊世界である。大陸中央には狂った軍事コンピューターが居座って、今も殺人機械を工場で量産している。恐るべきミュータント軍が人類の居留地を脅かしている一方、各地で異形の蟲たちが奇怪な生態系を築き上げ、バンデットたちは今日も力なき人々を襲って餌食にしている。『封印世界』に指定されないのが不思議なくらいの人外魔境であった。
社会情勢も、勢力分布も、地理や資源も、情報は何一つ存在していない。
社会の規範も、生活の基盤も、法も、秩序も、何もかもが一度は朽ちて滅びて、いまだに再生の道のりも萌芽も見えない文明の崩壊した惑星で、お供一人の国を失った小娘に何ができようというのか。
複雑怪奇な脳髄の内面で主君が何を如何考えているのかは、アーネイにもとんと分からぬ。
しかし、たかが反乱軍如きに敗走した身の上でありながら、ギーネ・アルテミスがこの恐るべき人外魔境を征服する気になっているのだけは間違いなかった。
『今、この瞬間がギーネさんとアーネイの伝説の始まりです。
くふふ、わくわくしませんか!ついてきてよかったでしょう!』
アーネイの精神に容赦なく追い討ちを掛けるギーネ・アルテミス。
家臣の胃壁を保護する貴重な粘膜を、己が言葉の剣がザクザクと突き刺しているとは想像すらしていまい。
「……一兵もいない敗残の身で、よくもそこまで楽観的になれますね」
キリキリと痛む胃の腑の辺りを掌で押さえつつ、呻くように言ったアーネイの目の前。
「地球産の古い文献によれば、遠い昔、遥か彼方の銀河系では、数億からのクローン兵士を揃えている銀河共和国だか、銀河帝国だかも存在しているそうですぞ」
精々、賢者っぽい口調と外見で、なんか重々しく述べるギーネ・アルテミス。
だが、不幸にも中身はポンコツなのだとアーネイは知っていた。
「いざとなったら、クローン技術を応用してバイオソルジャーを培養するという手法もありますのだ」
「……クローンだと……不吉な……」
呟いたアーネイの脳裏で、不意に沢山のちっちゃいギーネたちが黒地に銀弓を意匠したアルテミス候国旗を掲げ、赤茶けた不毛の曠野を駆け回っている情景が浮かび上がった。
『征服いたしますぞー』『ですぞー』『征服なのだー』『下々共ー』『敬えー』
限界であった。アーネイの胸の奥からこみ上げてくる熱いものがあった。勿論、感動ではない。
「……かっふゅ……!」
「アーネイが吐血した!?」
次の掲載は月曜日の予定でござる、ストックはまだ少しあります。