09 娼婦の見た空
ミュータントの奇襲に咄嗟が反応できたのは、日頃の鍛錬の賜物であった。
水音を耳にした瞬間、ミュータントが飛び掛ってくるよりも一瞬だけ早く襲撃を察知したカインは、身を翻しながら槍を空中に突き出した。
槍の穂先は空中を舞っていたミュータントを捉えたものの、弾力と硬さを兼ね備えた筋肉に弾かれ有効な一撃とはならなかった。
しかし、それでミュータントの目測も狂った。
カインは振り下ろされた鋭い爪に頬を裂かれながらも、ギリギリで躱して後ろへと跳ね飛んだ。
初撃を躱されたミュータントが、地下水路の廊下へ音もなく着地した。
出入り口のある方面を後背に押さえられて、カインは舌打ちする。
迷い込んだ獲物へと向き直ったミュータントは、低い唸りを発していた。
地下水路の床の上をじりじりと距離を詰めながら、くっと体を縮めたミュータントの、糜爛して赤く解け崩れた肌に埋もれている緑色の瞳が、暗くカインを見つめていた。
冷たい氷塊を飲み込んだように胃の腑がきゅっと締め付けられる。
……なんだ、こいつ。俺を憎んでいるのか?
言葉に出さずとも、獰猛な悪意を孕んだ視線が肌で理解させてくれた。
自然と震えてくる歯の根を食い縛って押さえながら、カインは槍を構え直した。
息を整えながら、隙を見せないように意識して間合いを保ち続ける。
相対するミュータントの体躯は意外と小さかった。
カインより頭一つ背丈は低いだろう。
だが、油断は禁物だ。
丸みを帯びた骨格はがっしりとして筋肉でできた鞠のようだし、おまけに素早い。
敏捷さだけなら、廃墟や地下水路に棲息するネズミ型ミュータントのラットマンと同じくらいはあるが、膂力は比べ物にならない。
空中に突き出した槍を無造作に払いのけられただけで、カインの体はたたらを踏んだのだ。
あの短い腕にどれほどの力が秘められているのか。
捕まったら、五体ばらばらにされそうだ。
密林に棲むある種の猿の遠吠えに似た叫びを上げながら、ミュータントが再び飛んだ。
タイミングを見計らい、起こりを見逃さなかったカインは、渾身の力を持って槍を突き刺した。
腕に衝撃が走った。重い体に突き刺さる。が、途中で止まった。
ミュータントが槍の柄を掴んでいた。
「……え?」
其の侭、嫌な音を立てながらあっさりと柄がへし折れる。
いや、正確にはミュータントの『手』に『噛み』砕かれていた。
ミュータントが手を伸ばした。
どういうことだ。混乱しながらも迫ってくる『手』を視線に収めた時、カインは息を呑んだ。
ミュータントの『手』に指はなかった。
代わりに、牙の生えた口がある。口の周囲に六本の白く鋭い爪が蠢いていた。
肩から伸びているのは、二本の腕ではなく口吻。
指と勘違いしたのは、牙なのか。
それが人類の両手や指と同じ位置に……
槍を砕いたミュータントが地面に降りて、再び屈んだ。
飛ぶ気か。
機先を宣してカインが棒切れを叩きつけようとした時、ミュータントは唐突に叫んだ。
沸騰した薬缶の汽笛にも似た高音に、意表を突かれたカインの耳が痛みを発した。
「かっ」
視界が揺れた。短く息を吐いて後退する。
何をされたのか。分からない。激しい耳鳴りに一瞬だけ注意力が散漫になった。
カインの呼吸が乱れた瞬間、ミュータントが両手を振り回しながら飛び掛ってきた。
プラスチック製のプロテクター越しに強い衝撃が体を揺らした。
「畜生!」
抗うように棒切れを振り回したその腕に激痛が走った。
服の布地の上から、六角形の口でミュータントが腕に喰らい付いている。
むしゃり。
自分の腕から肉が抉り取られたカインは、大量の出血が迸る光景を目にしながら、麻痺したように呆然と棒立ちになった。
一瞬の麻痺の後、灼熱の激痛が左腕を支配しても、尚、動けない。
此処で死ぬのか、なんて感慨さえ浮かばなかった。
まるで肉食獣に食われる草食動物のように、現実感が乏しい。
己の肉を美味そうに咀嚼し、嚥下したミュータントが再び口を開き、牙を近づけてくるのを目にして、やっとカインは絶叫した。
間違えた。
迫ってくるミュータントの牙を目に焼き付けながら、ただ、そんな言葉がカインの脳裏に浮かんだ。
子供が駄々を捏ねるように身を捩りながら、絶望にすすり泣き、助けを求めるカインの甲高い声は、地下水路の彼方にまで尾を引くように反響した。
汗と体液の匂いが入り混じった事後独特の甘ったるい異臭が路地裏に漂っていた。
気だるい感覚に身を委ねていたかったエルミナだが、屋根が壊れてふきっさらしの廃屋に置かれたソファから身を起こすと煙草を咥えてマッチで火をつけた。
紫煙を蒸かしていると、横合いから男の声が掛けられた。
「煙草か、一本くれよ」
野生馬の描かれた空のパッケージを振った。
「生憎と此れが最後の一本」
舌打ちしたのは今日の客だった。ハンターを名乗っていたが、駆け出しに違いない。
エルミナよりは年上だが、まだ少年と言ってもいいような年齢で生意気そうな顔には雀斑の跡が残っている。
木材とワイヤーを手製で組み合わせた粗末なクロスボウを後生大事に抱えながら、エルミナを買った時も、緊張した顔つきから慣れぬ風を隠しきれていなかった。
きっと、町に来たばかりに違いない。
しみったれている客だが、くすりと笑うとエルミナは自分の煙草を咥えさせた。
安煙草を蒸かしながら、若い客は意外そうに眼を瞬いていた。
「いい味だな。これ」
「そう、安物だよ?」
言いつつも、エルミナも好んで買い求めている銘柄だった。
どこかの島にある会社が製造、流通させている製品で、船で多量に運ばれてくるので其れなりに安く入手できる。
文明崩壊後に生産されている嗜好品は、概して崩壊前の規格や輸入物には遠く及ばないのが相場だが、煙草だけはそれなりの味を楽しめていた。
味は良くないが、根気強く改良を続けており、最近のは大分マシになってきている。
直ぐに返してもらおうと思ったが、眼を閉じて美味そうに堪能している客を見ると、その気も失せた。
「お兄さん。お代」
肩に寄りかかりながら、エルミナは客の耳元に囁いた。
「幾らだったかな」
「1クレジット。前半分、後半分の約束だよ」
「……ああ、そうだったな」
青年がもぞもぞと身じろぎした。ズボンのポケットを探っているのだが、中々、財布を取り出そうとする気配がない。
エルミナの目つきが険しくなると、決まり悪そうにしていた青年は開き直った。
「……まからねえか?」
「失せろ、文無し」
客から煙草を取り返したエルミナは、青年をソファから蹴りだした。
「おい、客に対して偉そうな態度を取るじゃねえか」
ムッとした様子で青年が立ち上がった。
表情からあどけなさの成分が揮発して、ゾッとするような凶暴さだけが浮き彫りになっている。
「売女の分際で上等な口を聞くんじゃねえか。
てめえの貧相な体なんざ、半クレジットでも勿体ねえぜ」
開き直ったのか、侮蔑の言葉を叩きつけてくる。
「文無しは客じゃないよ。せめて金目の物を置いていきな」
「……この女ぁ。客に対する口の聞き方を教育してやる」
腕を掴もうとしてきたので、素早く範囲外に飛びのいたエルミナはナイフを引き抜いた。
「舐めるんじゃないよ!」
掌を切り裂かれた客は、顔を顰めて後退った。
興奮した牝猫のように目を爛々と輝かせている少女を前にして、傷を押さえながら忌々しげに舌打ちすると、周囲から覗き込んでくる複数の視線の気配に気づいて慌てて踵を返した。
「覚えていろよ、その顔を忘れないぜ」
服を羽織ると、そんな捨て台詞を投げかけて駆け去っていった。
文無しの客を記憶からも追い出して、ゴムやその他の後始末をすると、エルミナは煙草を咥えながら手提げ鞄から軟膏を取り出した。
「お腹すいたぁ。何か食べに行こうかな。だるい」
ぼやきながら、性病防止を兼ねた塗り薬を局部に塗っている。
精子の働きも殺す作用も持っている軟膏は、ハンター協会の売店で買い求めたものだ。
些かなりとも崩壊前の文化が残っている大陸中央の企業は、昔の技術を一部なりとも保持し、或いは蘇らせていた。
外国製品は高いが、ティアマット製のものは手が届かない値段ではない。
こんなものばかりは今も流通している。
こんな薬品の製造技術を取り戻すよりも、もっと他に復活させるべきものがあるのではないかとエルミナも思わないでもないが、使ってる身としては有り難いことである。
「どうしたよ、エルミナ。なんかトラブルか?」
路地裏から出たエルミナに声を掛けてきたのは、派手なシャツを着たサングラスの男だった。
辺りで商売している娼婦のヒモの一人で、女の稼ぎに寄生して……というよりは上前を跳ねて生活しているが、暴力沙汰やトラブルから女を守りもする分だけ他のヒモよりはマシだろう。
他の娼婦にも色目を使ってくるし、打算からか。満更でもない様子で応える女もいるようだが、今のところエルミナは特定の男を作る心算はなかった。
「なんでもないよ、ダグ」
声を掛けてくる男をやり過ごすと、街路を歩きながらため息を洩らした。
うらぶれた雰囲気が漂う区画へと入ったエルミナは、崩れかけた建物に入っていった。
エルミナは、自分の住居には客を引き入れない
トラブルになった時、住処を知られていると面倒が増えるからだ。
部屋の奥。レンガをずらした隠し場所から、金属の缶を取り出す。
その日の稼ぎの半分を缶に仕舞うと、エルミナは蓋を閉じて仕舞い込んだ。
「結局、最初の半クレジットだけか。糞ッ、貧乏人」
ぼやきながら、手鏡を出して覗いてみた。器量は悪くない。とは思う。
とは言え、基本的にスラムに女を買いに来るような客は素寒貧の食い詰め者か、物知らずのお昇りさん。
或いは、その両方ということもあった。
どちらにしても、金払いのよさとは縁遠い連中ばかりであった。
兎に角、ろくな客がいない。まあ、来る訳がない。
金があれば、そもそもスラムには来ない。
まともな客層は、町の繁華街の方に廻ってしまう。悪くても、壁外区画に行くだろう。
大抵の男だって、路地裏でことに及ぶよりは清潔な部屋で女を抱きたいに決まっている。
かといって、エルミナの方から他の区画に出かけて大っぴらに客は取れない。
他の区画は他の区画で、地元育ちの娼婦たちの縄張りや掟が決まっている。
金払いのいい客は魅力的だが、彼女たちが、ささやかな利権を手放す筈もないし、侵害したものを目溢しする筈もない。
古い町だ。成長の余地はそれほどない。そしてパイも限られている。
最初に町を造った創始者たちの子孫である市民だけではなく、遠来から出稼ぎにやって来た人間も、住み着いて既に何代も経ている。
創始者たちの直系である市民が特権を独占している中、新来の移住者たちも同郷の町や村の人間ごとに集まって互いに助け合う仕組み。相互補助組織を形成するようになっていた。
やってきた出身地ごとに纏まって縄張りを形成している各区画の顔役たちは、仲間内で金や物資、出世の機会を廻しながら、同時に意図的によそ者を排除している。
反感を買うほどにあからさまな態度ではないし、よそ者が食べていけないほどではないが、そうした閉鎖的な古い淀んだ雰囲気は、防壁の内側に強く立ち込めている。
それぞれの区画ごとに掟や決まりごと、顔役となる血統が決まっており、娼婦にも縄張りがあった。
そしてエルミナは、幼い頃からスラムで生まれ育った住人であった。
区画を越えて商売女を使っている女衒やポン引きも、町には幾人かいる。
彼ら、彼女らの庇護下に入るという道もあるにはあるが、気は進まない。
一度、庇護下に入ってしまえば、気に入らないからといって気軽に止める訳にいかない。
逃げられないように借金や薬で縛られた挙句、使い潰されて廃人みたいになった女たちを幾人も見てきた。
生きる為に傘下に入って、文字通り命まで搾取されるのでは本末転倒に思える。
食い物にされるよりは、自分で勝手気ままに生きられる立場のほうが、不安定でもマシと思えた。
先行きは常に不安定だった。かといって、他に女に出来る仕事なんか、エルミナには思いつかなかった。
いや、一つだけあるにはあるが、もっと気が進まない。
「ハンター稼業か……ふう、無理だし。死ぬし」
髪に縫い付けたガラス球を指先で弄びながら、少女はベッドに腰掛けた。
部屋の天井の隅には大穴が空いていたが、薄い布切れで覆って外気を遮っている。
一年を通してそう気候が変わらないティアマットだから、特に不便は感じない
痩せっぽちの小柄な体にキャミソールだけ羽織った格好で、エルミナは殺風景な廊下へと出た。
元廃屋のアパートには、似たような境遇の女たちが集まって暮らしている。
隣の部屋のドアが開けっ放しになっていて、裸の男女が寝台で抱き合っていた。
事後のようだ。隣の部屋の住人アメリアに若い男が熱心に睦言を囁いている。
アメリアの情夫。というよりはヒモだろう。最近、界隈でよく見かける。
名前は知らない。三流ハンターで、アメリアは金も取ってないどころか、小遣いをやってる姿を幾度か見ている。
今も少ない稼ぎから、男に小遣いをやっている。
「すまねえ」
金を受け取った若いハンターが、笑顔を浮かべてアメリアを抱きしめ、体をまさぐる。
「なあ。いつか、一緒にこの塵溜めを出ような」
アメリアが嬉しそうに肯いている。
……馬鹿だな。
思うが忠告はしなかった。夢や愛を買っていると言う事なのだろうか。
鼻を鳴らしたエルミナには、ヒモはいなかった。
仮初の絆でもいいから、人と寄り添っていたいという気持ちは、年若いエルミナには、今はまだ弱味にしか見えなかった。
稼ぎは全て自身の取り分に出来る代わり、誰もエルミナを守ってはくれない。
同じ界隈に住まう同業の間には幾ばくかの仲間意識はあるが、助け合うほどでもない。
集団で纏まるほど結束が強い連中は、大抵、別の仕事についている。
ハンターや傭兵として徒党を組んだり、自由労働者の集団を選ぶことが多い。
其の侭、成長してヒモになる男もいるし、好んで食い物にされる女もいる。
薬の売人よりはマシな生き方なのかも、エルミナには良く分からなかった。
両親と暮らしていた頃に持っていた価値観も、薄れて今はよく思い出せなかった。
外に出た。強い夕日が射しているが、空気は冷たかった。
肌寒さを感じるが、煙草を咥えた侭、壁に寄りかかって空を見上げた。
どんよりと曇った空ではあるが、建物の内部よりも空気は上手かった。
諦めが人を殺す、と、何時か読んだ古い漫画に描いてあった気がする。
違う。人を殺すのは何時だって希望だ。
煙草を咥えながら、濁った虚ろな瞳で空を見上げてエルミナはそう思った。
スラムを出て行く、か。出て、何処に行こうというのだろう。
「アメリアも眼がないな。
もっと頼りがいのある男を選べばいいものを」
呟きながらエルミナが思い浮かべるのは、決まって毛皮を纏った無骨な大男だった。
もう十年も前の話になる。
エルミナの生まれた小さな居留地は、ミュータントの襲撃で滅ぼされた。
父親が死に、母親と共に町に出てきたものの右も左も分からないそんな時、死んだ父親の親友だとかいう毛皮の大男は、近所に住まうエルミナたちに何くれとなく面倒を見てくれた。
幼い頃は、大鉈を腰にぶら下げた異相の大男はミュータントの仲間のように見えて、恐ろしかった。
訪れるたびに、まだ生きていた母親の背中に隠れておどおどと窺っていたのを覚えている。
それが待ち遠しくなったのは、何時の頃からだったか。
いくら親友の連れ合いとは言え、何年も付き合っては援助し続けられるものだろうか。
或いは、レオも母に惚れていたのかも知れない。
二人の間には、静かな慕情らしきものも感じられたが、多分、肉体関係はなかった。
母は、エルミナを育てる為だろう。
今のエルミナと同じ仕事をしていたが、軽蔑する気はなかった。
周囲には、似たような境遇の女たちが大勢いたし、毛皮の大男も、折を見てはやってきて、何かと慈しんでくれた。
カインやリサだのと言った幼友達と知り合ったのも、その頃だ。
幼い頃は、あの幸せな世界が永遠に続くと信じていたものだ。
今思い返してみれば、人生で一番楽しい時期だったかもしれない。
二人での暮らしは幸せだったが、ある日、突然、母親は姿を消した。
壁を乗り越えてきたミュータントが暴れまわった日のことだ。
混乱の中、町中で逸れてそれっきり見ていない。
浚われたのだ。漠然とそう思ったが、真相は分からない。
一口にミュータントといっても、千差万別。
ティアマットには、様々なミュータント種族が存在しているが、人類に友好的なのはほんの一握りの少数派である。
殆どのミュータント種族は、ティアマットの人類を深く、激しく憎んでいる。
ミュータントが誕生した時期、大崩壊の混乱による激しい差別とそれに続く追放劇、そして大虐殺が尾を引いているのか。
或いは、人類を滅ぼして、追放された生まれ故郷を取り戻したいと渇望しているのか。
自分たちの存在を呪い、生み出した人類を道連れに全てを滅ぼそうとしているのかも知れない。
兎に角、母なる種族である人類に対して、曠野のミュータントたちは総じて激しい憎悪を燃やしているように思えた。
いずれにしても、ミュータントは人類にとって最大の脅威の一つであった。
(最大の脅威の一つとは、妙な言い方かも知れない。
ミュータントは、人類を滅ぼしかねないという意味では最大の脅威である。
しかし、覇権を望む勢力や異世界国家の進駐軍、人類抹殺を目論む機械軍、解放された生物兵器の末裔、変異生物の群体、それに異次元や外宇宙からの奇怪な侵略者たちや何処からか生じたか不明な蟲なども、人類にとってはミュータントに匹敵する脅威なのだ。兎に角、ティアマット世界は詰んでいる。それは殆んどの人類にとっての共通認識でもあった。)
種族によっては、人類を奴隷にするだけではなく、家畜や食料にもする。
ハンターの遠征部隊によって、ミュータントから救い出された人間たちの姿を見たことがあるし、壁新聞や映画ではミュータントの脅威の記事が絶えず報じられている。
浚われた際に外科手術で脳を削られ、もはや人間とも言えないほどに知能が低下させられた人類の科学者たち。
捕虜とした人類の兵士たちの健康な精子や子宮を使い、家畜小屋に産み落とされ、言葉も知らない獣同然の繁殖用食肉人類。
生まれた頃から狂った社会で歪んだ教育を受け、ミュータントに奉仕することが人類として正しい姿だと信じている奉仕人類。
さらには変異性のウィルスを打ち込まれて、かつての美しい肢体を豚や馬のように変化させられた元美女である人豚たち。
忠実な下僕となるチップや細胞の一部を脳細胞に埋め込まれ、操作されて涙を流しながら家族や仲間を襲う元ハンターの端末人類。
爆発する首輪に脅えながら、同じ人類に銃を構えて突撃してくる使い捨ての奴隷人類兵。
ウィルスを感染させて人類を同族や奉仕種族に変異させたり、女の胎や男すら使って繁殖したりもする種族もいる。
町を襲撃したミュータントがどんな連中なのか。繁殖方法も、捕虜への扱いも分からないが、母の尊厳の為にも、ミュータントに浚われているよりかは死んでいることをエルミナも祈らざるを得なかった。
兎に角も、ある程度の年齢まで育っていたエルミナには、生きていく為に二つの選択肢があった。
ハンターか、娼婦である。そして言うまでもなく、ハンターは危険な仕事だ。
怪物やミュータント人類、そして殺戮機械や狂信的氏族を相手に廻すなど、到底、正気の沙汰ではない。
好き好んでハンターになろうとする奴は、気が狂っていると思う。
怪物を間引きできるほどの装備と腕の持ち主なら、まだいい。
喰い逸れることはないだろうし、成り上がりの目も少なくない。
凄腕なら英雄扱いされることもある。
用心深く振舞ううちには、二十年、三十年続けられる者もいる。
纏まった金を貯めて、離職する者も少なくない。
だが、それらは一握りとは言わないまでも、当然ながらに少数派であった。
比較的、弱いとされる蟹虫や人喰いアメーバでさえ、武装した成人の男女を返り討ちにする。
小さな変異生物を採って食料や金銭に換える小遣い稼ぎの真似事でさえ、一年通して死傷者が絶える事はない。
何時死ぬか分からない仕事よりは、娼婦の方がマシだとエルミナは思っている。
全ては命あっての物だと思うのだ。
だけど、ハンターには、可愛い女や美人さんも少なくない。
もっと楽に生きられるだろうに、何を好き好んで何時死ぬか分からない仕事をするものだと思う。
とは言え、向こうは向こうで、体を売るよりはマシだと思っているに違いない。
何時死ぬか分からないからこそか、誇り高く生きようとする人間も多いが、そうした人間の中にはエルミナのような職業の娘を蔑みの目で見る者も少なくない。
いずれにしても、崩壊した世界でも、意外と道徳は廃れていない。
逆説的に言えば、道徳を維持しないと世の中が持たないのだろうか。
余裕がないから、人の本質が色々な意味で剥き出しになっているのは面白いと思っていた。
ハンターになる気はないかと、幾度となくマギーに誘われた。
颯爽としていて気のいい人だった。
気に掛けてくれるのは、有り難いとは思う。
受けていればどうなっていただろうかと今も時々、思いもする。
もっとも、そのマギーも死んでしまった。
全うな別の道を歩こうとしていたリサやカインがどうなるのか。
彼女たちの未来が眩しかったし、同時に少しだけ妬ましかった。
そして憧れているし、上手くいけばといいとも願っている。
これからどうなるのかな。落ちるのか、持ち応えるのか。
二律背反な想いを抱えながら、エルミナはフィルター近くまで吸い終った煙草を吐き捨てると足で踏み潰した。
さて、これからどうしようか。もう一度、客を探す?
それも悪くないが、口や腰を使い過ぎて休みたい。
寝台に寝そべるのは魅力的だ。
しかし、手持ちにもう少し余裕が欲しい。
取り敢えず気前のよさそうな客でも探すかと踵を返しかけた時、暗い路地ををふらふらと此方に向かって歩いてくる影にエルミナは気が付いた。
心臓の鼓動が微かに上がった。
まさか、ゾンビ?
壁に半分、身を隠しながら、エルミナは用心深く人影の様子を窺った。
「いてぇ……ちくしょう」
黄昏時の夕日は強く、路地の濃い闇に小柄な人影の顔は見えなかったが、苦痛に呻きを洩らしているのは聞き取れた。
僅かに警戒して何時でも逃げ込めるように腰を落としていたエルミナも、意味のある言葉を耳にして安心してほうっと息を吐き、ついで舌打ちした。
影が寄り掛かっているアパートの壁には、血の跡がべったりとついている。
しくじったハンターの子供だろう。どうでもいいが、此処で死なれては迷惑だ。
死ぬなら、他所で死んで貰わないと。
「ちょっと、壁が汚れる」
ずかずかと歩み寄りながらエルミナが文句をつけると、人影は顔を上げた。
額から流れ落ちる鮮血の下で見覚えのある顔が固い強張った笑みを浮かべた。
「……わりい、な。エルミナ」
「……え?カイン」
呆然としているエルミナの目の前で、知己の少年は力を失って崩れ落ちた。
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