ACT 13 茶釜が故国奪還の志をあらわにするのこと
虫狩人が狙う獲物はティアマットの曠野に数多存在すれども、中でも蟹虫は軟体アメーバと並んで、最弱ランクの手頃な相手であると評価されていた。
しかし、だからと言って蟹虫を侮る者は少ないし、棍棒などを持った大人にとっても確実に安全な相手でもなかった。
武器を持った大の大人なら、狩ろうと思ったその日から狩れる蟹虫でもあるが、従事する人間が多ければ、やはりそれだけ返り討ちに合う人数も増えてくる。
油断しなければ、子供でも狩れる相手ではあるものの、三、四匹に群がられれば、大の男があっさりと死んだりもする。
銃一丁を持っていれば、けして負けない筈である蟹虫や軟体アメーバを相手に、不具となったり、命を失う者もけして少なくなかった。
一方で、有象無象の狩人が獲物を持ち込んでくるギルドでは、一定数の蟹虫や軟体アメーバを狩れるか否かで、ハンターたちを見定めている節が見受けられた。
課題をクリアできるなら、最下級だが正規ハンターであるI級として認めていいと、選別を掛けている。
ギーネとアーネイは、無傷のままで複数の蟹虫を卸し続けているが、これはギルドの歴史でも稀有な事例であった。
野犬やお化け鼠よりは、まだ手軽な獲物と見られている蟹虫や軟体アメーバであるが、群れている事例の多い相手でもあって、ちょっとしたことで狩る者と狩られる者の立場は簡単に逆転してしまうこともあった。
町の周囲の曠野など少し散策すれば、怪物相手に気を抜いて白骨となった愚か者や、或いは、不運であった狩人たちの末路を幾らでも見かけることが出来た。
なので、無傷のままコンスタントに蟹虫を狩り続けられるペアというのは、数十名のハンターを管理しているギルドでもちょっとした注目を集めていた。
もっとも、それは有望株として見られていることを意味している訳でもない。
蟹虫相手に上手くやれる能力を持つハンターなどは、幾らでもいるのだ。
大抵は、もっと金になる大物を狙って上にシフトしていくが、中にはそこそこの腕と頭を持ちつつも、ずっと安牌で稼ぎ続ける傾向のハンターもいない訳ではなかった。
だから今の時点でギルドから見たギーネとアーネイは、精々、そこそこ使えるかもしれないから、粉を掛けておくか程度の、その他大勢と十把一絡げに扱われる凡百のハンターの一人に過ぎなかった。
実を言えば当初、不慣れであった時期には、ギーネたちも狩りで浅い怪我をしたことは一、二度ではあるが在ったのだ。
しかし、よほどに深い傷でなければナノマシンが新陳代謝を活発化し、普通の人間の3倍程度の速度で癒してくれる上、高い集中力と注意力を長時間、維持できる二人は、要領を飲み込む速さもあいまって、物凄い勢いで蟹虫狩りに習熟していった。
その日も狩りは成功に終わり、ギーネたちがギルドへと向かう途中。
「主人公は宿屋に泊まると24時間で全快するものですぞ!」
突然、路上でまた訳のわからんこと言い出したギーネを、アーネイが胡散臭そうな表情で見つめる。
「アーネイ。この間、野犬の群れから逃げ損ねた時、咬まれた尻の傷が完治しました」
「おめでとうございます」
「これはきっと私が運命によって選ばれたものだという証に違いありません」
確信を込めたギーネの言葉に、アーネイは首をかしげた。
「尻の傷がですか?」
「傷の治りの速さがです!」ギーネが力説する。
「RPGなどの主役は怪我をしても一晩寝れば治りますが、モブは寝込みます。これこそまさに主役と脇役の違いですぞ!」
アーネイはため息を漏らした。
「我々の傷の治りが早いのは、ナノマシンと遺伝子調整のお陰でしょう」
「いいえ、これはきっと主人公補正ですね。そうに違いない」
ギーネは、うふふと嬉しそうにほくそ笑んでいる。
「おかしいと思っていたのですよ。世界が一つの物語だったら主役間違いなしのギーネさんが、反乱軍に負けたり、犬に追いかけられたり、ため池に嵌まったり、これらはきっと全て序盤の強制負けイベントだったにちがいないです」
「空想もほどほどになさらないと、あちらの世界から戻ってこれなくなりますよ」
「この尻の傷の治りの速さ。これこそまさに私が世界の主役たる証。
そう、ナポレオンやカエサルのように運命に選ばれた英雄だと言う証です。
そうは思いませんか?」
「はいはい。また新しい設定を思いついたんですね。
この前は、前世が日本の戦国時代の侍でしたっけ?
ストレスが溜まっているから無理もないけど、厨二病の発作によく効く薬ってないものかしらん」
別にどうでもいいと投やりにぼやいているアーネイの愚痴を、ギーネは既に聞いてなかった。
「くふふ、反乱軍の連中め。
取り敢えずは帝國東方を抑えたことで慢心しているでしょう。
ですが、しかし、ここで終わるギーネさんではありません。
必ずやこの地で兵力を整え、捲土重来をしてみせましょう。
我がアルテミス軍(総勢2名)の逆襲の時は近い。
その時になって慌てふためき、恐れおののくがよいのですぞ!」
ふっふーん、と鼻息も荒くドヤ顔したギーネ・アルテミスが、とりあえずやり遂げて満足げな表情をしているので、アーネイは何も言わずに主君の妄想を聞き流していた。
「取り敢えずは捲土重来の第一歩として、捕まえた虫を小銭に替えましょうよ」
「はーい、了解ですぞー」
蟹虫たちを担いでギルド支部へと入っていくギーネたち。体を防護できるしっかりした厚手の服と動きやすいズボンという服装も半日かけて曠野を歩き回って埃に塗れているが、ギルドを訪れるハンターの約半数は似たような有様なので特に何も言われない。
ちなみに残り半数のハンターは、洗濯もせずにぼろぼろの服が擦り切れるまで着こなす連中で底辺ハンターに多かった。
受付へと向かう途中、ギーネは意外な人物を見とめて、思わず足を止めた。
「あれは……シャル?」
同じホテルの簡易宿泊所に泊まっている。それだけの関係でしかない若い娘が食い入るようにして、柱に貼られた獲物の料金引き換えの張り紙を見つめていた。
ギーネの視線の先を追ったアーネイも、娘の存在に気づいて足を止めた。
「ハンターするつもりですかね?」
ギーネが呟いた。
「変異した兎がハンターの首を噛み切ったのを見た時は、目を疑いました。
あの娘に勤まるとお思いで?」
やや沈鬱な声で言ったアーネイに、ギーネは首を傾げた。
「どうなんだろう?まあ、油断しなければ美少女のギーネさんでも務まるお仕事ですし」
「美少女?……とは言え、上手く巨大蟻や野犬の群れを躱せないと一巻の終わりです」
疑問を呈しつつアーネイがため息を洩らすと、ギーネも首を振った。
「顔見知りでもありません。やれとも、やめておけとも言えませんしね」
目を閉じて呟いたギーネだが、やがてくるっと回転するとアーネイに向き直った。
「それはそれとして、わたしは美少女でしょう?
ネットの帝國美人ランキングで、アテナやウェヌスを見事抑えて、連年一位に輝き続けたこのわたしの美貌を何だと思ってるんですか?」
ギルドの待合室でキリッとポージングを決めるギーネ・アルテミス。確かに美貌だけを見れば、女神に湛えられる領域に達していた。
「あれは枕に残念と冠した美人ランキングでしょうに。まともな方では、ヘラさまとか、ペルセポネさまに毎年ぶっちぎりで差をつけられていたではありませんか」
「ぬう、ギーネさんのこの輝かんばかりの究極の叡智に気づかないとは。
どいつもこいつも見る目のない凡夫ばかりですぞ」
不満そうなギーネだが、アーネイは異なる見解を有していた。
「恐らく、その高性能の外見と知性で嵩上げして、十位ギリギリが妥当なのでしょうよ」
ぼやいてはみたものの、性格や言動に難があるのを知った上でギーネを慕う者は領内の内外を問わずに意外と少なくない。外国にすらファンクラブがあるらしい。
特にネットにおいては、ポンコツ可愛い!ダメ可愛い!と書き込む者が絶えぬのはアーネイにとっては衝撃的な事実だった。
これも私の人徳の賜物ですぞ!と無邪気に喜んでいた主君を傍らに、アーネイは、うちの国は大丈夫なのか、と祖国の未来に空恐ろしいものを感じたのだった。
「兎に角、7匹です!新記録ですぞ!」
喜びを露にするギーネと賞賛するアーネイ。
「おめでとうございます。お嬢さま」
「というか、そろそろ持ち方を工夫しないと獲物を持ち帰れないですよ?」
「結構、重たいですからね」
「背中に二匹背負い、左右の腰に一匹ずつ吊るして一人4匹ですね。
まだ持てますが、余り重いだと動きも鈍るし、とっさの事態に対応できなくなります」
言いつつ、受付に姿を見せたギーネであったが、ギルド職員たちに心無い言葉を投げかけられようとはその時点では予想だにしていなかった。
「あ……虫の人だ」
「ほんとだ。虫の人」
「虫の人来たね」
意気揚々と買い取り用のブースに顔を出した途端、ギーネを目にしたギルド職員たちが何気なく口にした言葉を耳に入れて亡命貴族は顔を曇らせた。
「……え?」
「よく働きますね」
思わず動きの硬直したギーネに対して、何事もなかったかのように挨拶してくる買取担当のギルド職員。
「ねえ、いま虫の人って言わなかった?」
つかつかと歩み寄って身を乗り出したギーネの詰問にも、ギルドの女性職員は首を傾げただけであった。
「そうですか?」
「私のことを言ってるのかしら?ねえ、虫の人って」
不安と怒気を絡めているギーネに対しても、変わらぬ笑顔を向けて言い切った。
「気のせいですよ」
「だけど、わたしの顔を見て、虫の人って別の人たちが三回も……」
「そうだ。そんなことより、これどうぞ!
そろそろ差し上げようと思っていたんですよ!」
ギーネの追求を強引に打ち切ったギルド職員が机の下をごそごそして、カウンターの向こう側に取り出したのは、鉛色に鈍く輝くタグだった。
「毎日、虫を売りに来てくれる貴方たちにはこれを差し上げます」
「また虫って言ったよ!こいつ!どういうことさ!」
「落ち着いて!お嬢さま!」
「パンパカパーン!おめでとうございます!昇格ですよ!
これであなたたちも晴れてギルドに登録した正規ハンターチームです!」
ギーネの追及を強引に無視しつつ、職員はギーネたちにIと刻まれた古びたタグを手渡してきた。
「ううう、虫の人って」
尚も虫にこだわっているギーネを放っておいて、アーネイが職員に尋ねた。
「正規ハンターになると、何か特典があるのですか?」
「それは勿論!町にあるギルド協賛の宿屋で長期契約が割引になります」
「それだけ?」
「え?でも、欲しがる人は沢山いますよ」
タグの鎖を掴んでじっと眺めていたギーネが、しょっぱい顔を見せて首を捻った。
「んー、なんかちゃちいですね。別にいらないかも」
手に掲げ持ったタグを振りながら、どうでも良さそうに呟いたギーネに、職員が慌てて声を掛けた。
「でも、でも、待って!Iランクは仮免のようなもの!
このまま、蟹虫を沢山獲っていたら、いずれはH級にもなれちゃう!……かも(小声)
そしたら、さらに特典がましましですよ」
「……特典?」
「ギルド宿舎の抽選に申し込めたり、ギルドの食堂で定食が大盛りになったり、一品おまけがついたりするんです!わー、凄い」
流れるように淀みのない口調で一気に言い切ると、女性職員はパチパチと小さく拍手した。
「もう、いいです。貰っておきますよ。デメリットもないようですし」
一応、古いタグと一緒に、ギーネは貰ったタグを首元にぶら下げた。
真横でアーネイが何気なくギルド職員に尋ねかけた。
「ちなみにGになったら?」
「G級ですか?良くぞ聞いてくれました!」
女性職員は大げさに手を広げると、明後日の方向を指差しながら宣言した。
「なんと!身分証代わりになります」
ギーネたち二人の反応が薄いので、ギルド職員も困ったように椅子に座りなおした。
「G級になりますと、ギルドに正式に登録されて、近隣の他の支部にも通達が出されるので、よその土地に行っても最初からG級のハンターとして活動できるんですよ。
また他所の地方に行く際にも、規定の手数料を払うことで身分証の発行を頼めます。
大きな町に入る際にも、G級は通行料を免除、減免されることが多いですね。
まさに正真正銘のハンターですよ!G級目指して頑張ってくださいね!」
「G級ハンターが凄いのは、まあ勘弁してやるとしても、先刻の説明。
なにか引っ掛かりませんか?アーネイ」
玄関を出たところで、ギーネはギルド会館の古びた建築物を振り返り、鼻を鳴らした。
なにを勘弁するだろうか?思いつつアーネイが尋ねる。
「騙されているとお思いですか?」
「騙すとか、騙さないではなく……」
しっくり来ないようで、ギーネは頬をかいてから考え込んだ。
「うーん。違和感を分析すると、多分、肝要なことを説明していない。
あの時、浮かべた笑顔からは、G以上になることは出来ないと思ってるようなこちらへの嘲りを感じました」
ギーネの自信なさそうな言葉に、アーネイは肩を竦めた。
「たしかに、今いるホテルの一階にも、IやらHのハンターは見かけますが、G以上となるとまず見ません」
首を傾げたギーネは、疑問を呈した。
「ねえ、アーネイ。簡易宿泊所とは利用層が違うのもあるのでしょうが、そもそもG以上って滅多にいないようにも見えませんか?」
「ふむ……確かに、あまり見たことがないですね。
ただ、身分証代わりだそうですから、あまり大勢に与える心算はないのかもしれません」
「身分証を餌にして、食い詰め者を集めている側面もあるのかな?
するとGになれる人数は、絞られている可能性もあるか。
よく分からないねえ。まっ、いいです。今はまだ、考えても仕方ない」
土台となる社会やギルドに関しての情報が少なすぎて、現時点では推論しようにも話にならない。
ギーネは、胸元から受け取ったばかりのI級タグを手に掲げた。
「中古のタグですね。おや……この番号は」
タグをしげしげと眺めたギーネが、刻まれた番号に気づいて瞳を僅かに翳らせた。
「偶然か……いや、空いているタグから手渡しているとしたら必然かな。
そういえば、ティナは元気ですかね?」
夕刻。ギルドから根城としているホテル一階の簡易宿泊所へと戻ってきたギーネ・アルテミスの機嫌は余りいいとは言えなかった。
暇つぶしに市場で買い求めた『ガンカタ入門』とかいう怪しげな本を読みながら、借りた寝台の上で寝転がっているアーネイの傍らで、ギーネは枕を抱えてごろごろと転がりながら不満をぶちまけていた。
「あーあ、個室を借りたいですね。
大部屋では、プライバシーもなにもありませんよ。
此の侭では、女の子の秘密の時間も持てないではありませんか」
ギーネの胡乱な呟きを耳にしたアーネイは、雑誌を捲る手を休めて、疑わしげな眼差しを主君へと向けた。
「……秘密の時間?」
「女の子の秘密で素敵な時間のことですよ。
何を言わせるんですか。もうっ、アーネイったらHなんですから」
頬を染めながらギーネが潤んだ瞳を向けてきたので、うんざりしたアーネイは熱っぽい視線を黙殺して明後日の方向を眺めた。
「……他人の振りしたい。恥ずかしいので、あまり話し掛けないでください」
「酷ッ!こやつめ」
「なら、人前で堂々と下ネタを言わないでくださいよ。もう」
部屋が欲しいとの主君の要望を受けたアーネイだが、手元の携帯端末で収支のデーターを吟味しながら難しい顔をみせた。
「基本的な収入が増えないと、難しいですね。
現在、一週間あたりの収入が平均して18クレジット弱。
これから食費や宿代、狩りの経費を差し引くと、大体、1週間に6クレジットが貯蓄に回せます」
ギーネが驚愕に目を瞠った。
「少なッ!というか、私たちでそれだと、他の蟹蟲とか狩ってる人たちとか、よく生活できますね?」
主君の呈した疑問は尤もだったが、アーネイは今まで町を歩き回って集めたデーターや、仕入れた噂話などから、一定の答えを導き出していた。
「ティアマットで食料や宿泊施設のうちでも、安い物は本当に安いのですよ。
この惑星の土で育てた砂みたいな味の麦のお粥とか小銭で買えますし、個別の寝台もなくて大部屋での雑魚寝とかなら、一週間1クレジット掛かりません」
「うわあ、美少女のギーネさんが大部屋での雑魚寝とか、有り得ませんぞ。
餓えた狼の前にお肉を置いておくような物ではありませんか」
ギーネは自身の端末を操作すると、アーネイの携帯端末とリンクして情報を共有した。
収支を流し読みしていくうちに、何かに気づいて形のいい眉を顰めた。
「ん?でも、これって初期よりも貯蓄に廻している額が減っていませんか?」
「減っています」
肯いたアーネイが、背景を説明しつつ、現在の発言もまたデーターに打ち込んでいった。
「初期は、色々とギリギリまで切り詰めていましたから。今はそれなりの食事を定期的に食べますし」
「うむむ。これだと個室は難しいか。それに定期的な休日を作るのも今のままだと無理臭いですね」
悩ましそうなギーネ。アーネイは、個人的に気は進まないが選択の一つを提示した。
「防壁の外部で広い一室を借りるという選択もありますが……」
「いえ、それだけはありません」とギーネは即答で却下する。
安全確保がギーネのみならず、ティアマット住民たちの住居に求める第一条件だった。
「仮に北の怪獣みたいな蟲たちが襲ってきたら、町の防壁なんて薄紙同然でしょうが、そうでない場合はかなり頼りにしてよさそうです」
これまでは、敢えて避けていた節がある北部統合府にギーネが触れると、ハッとした表情を見せたアーネイが、微かに息を飲んでから肯いた。
業火のなかで脆くも崩れゆく北方統合府の光景は、アーネイの中にも未だ生々しく焼き付いて、薄れてはいなかった。
「外町を歩いていると廃墟の中で、普通に人間並みの鼠が目を光らせていたりするし、道端に転がっている死体の数が全然、違うではありませんか」
嫌そうな顔で呟いてから、ギーネは天井に視線を彷徨わせつつ思案に耽っている。
「食事と休日の二択になりますね。週1くらいは休みを取りたいですし」
アーネイに言われて考え込んだギーネ。
念の為にアーネイの現状に対する認識と意見を確認した。
「一応、聞いておきますが、何か大きな不満はありますか?
現状の生活のはそれほど悪くないと私は思っていますが」
「私も、そう思いますが?特に辛いとか、我慢しているとかいう部分はありません」
「なら、別に無理して向上させる必要もありませんか。よし、決めたぞ!」
ギーネは、現状維持の方針を固めた。
「美味しい物を食べる回数減らして貯蓄に廻す額を増やすよりも、暫くは現状維持でティアマットのことを学んでいきましょう」
「賛成です。体やメンタルにあまり負担を掛けても意味はありません。
私たちの寿命は長いんですから、のんびりいきましょう。
ただでさえ物騒な土地です。余裕のない状況で一度転ぶと立ち上がれないかも知れない」
「貯蓄が増え、心身ともに余裕が出来てから、もっと稼げる獲物を探したり、割のいい仕事がないかに当たります。宜しいですか?アーネイ」
「ええ、それが適当かと思われます」
結論を出したギーネは、体を丸めて亀のように毛布に潜っていた。
「では、明日の朝までごろごろしますぞー。夜が長いって楽しいですよね。
ティアマットで唯一、素晴らしいと思える利点です。沢山眠れます」
ちなみに毛布は買い求めたギーネたちの私物である。
出かける際には折りたたんで枕元のロッカーに収納するか、ホテルのクリーニング係りに代金を払って仕事の間、干してもらうかしている。
土地柄から寝台に置きっぱなし、干しっぱなしという選択肢は存在しない。
毛布は貴重品で、盗める物ならなんでも盗む奴が少なくないティアマットであった。
毛布の感触にぬくぬくとしてきたギーネが欠伸を噛み殺すと、アーネイが本を閉じた。
「寝る前に湯冷ましでも貰ってきましょうか?お嬢さま」
「お願いするのだ……できれば紅茶が欲しいのだ」
「在る訳ないでしょう?」
アーネイが、ホテルの給仕室へと歩き出した。
その背中を見送ってから、伸びをしたギーネは再び寝台にこてんと横になった。
ん……アーネイが戻ってくるまでの間、少しだけ休んでいるとしましょう。
今日も色々在って疲れた。
それにしても、ティアマットにも大分慣れてきました。
明日の展望が見えないのは相変わらずで悲しいですが、なんとか生きていくことだけは出来そうな目処がつきましたよ。
うとうとしながら待っているうちに眠気が襲ってきて、目蓋が自然と下がってくる。
……何時の日か……もう一度、アーネイと一緒に紅茶を飲めるように……
肩からずり落ちた毛布を誰かが体に掛け直してくれたような気もしたが、もう亡命貴族は深い眠りへと落ちて寝息を立てていた。