蠅の王
ホテルロビーで出立の荷物を纏めながら、帝國貴族は積み重ねた死体をじっと見つめた。
「可哀そうなことをしました」
傍らで戦利品の武装を一纏めにしていたアーネイが肩を竦める。
「無辜の被害者ではありません。彼らは望んで闘争の場に命を懸けました。
そして、ティアマットの世情であれば、いずれは無辜の者を手に掛けることも避けらないでしょう」
「かも知れません。それに、子供でも油断すれば命取りになる相手もいます。でも、あの子らは違ったような気がしてならぬのだ」
荷造りの手を一旦、止めたアーネイが、一応、悩んでいるらしき主君を眺める。
「……覚悟なされていた筈です。荒廃世界で生きる以上、これから先、幾度となく似たような選択を迫られるでしょう。その度に悩まれるおつもりですか?」
過ぎたことを気にするなとまでは言わないがと、チクリと揶揄する。
思考停止は忌むべきだが、考えすぎて思考の迷路に迷い込んでもらっても困るのだ。
「そう。でも、今日は違った。
弱肉強食の世界であるからこそ、心ある貴族は弱きものを庇護せねばならない。
それが帝國の支配階級が育んできた伝統的価値観であり、私も守る価値があると考えてきました。ですが……」
ギーネ・アルテミスは僅かにほろ苦い笑みを浮かべた。
「人間、思ったより環境に適応してしまうものです。今回は追い詰められたから例外と言いたいのですが……正直言うと、ギーネさん。自分が奉じてきた信念を踏み躙っても、全然平気だったのだ。
ちょっと休んだら、悲しみも憐れみも割とどうでもよくなってしまったのだ」
ため息を漏らしたギーネは、自慢の銀髪を指の先でくるくる巻いて弄っている。
「帝國から離れて伝統の有難味を思い知らされました。社会に拠らずして、人の理性がいかに薄く信用ならないか……ねえ、アーネイ。なにより、私は、自分の心根をもっと善良だと思っていたのですよ。割とショックですのだ」
「やっと気づかれましたか?」
忙しく手を動かしながらの家臣の返答に衝撃を受けたのか。首を傾げた主君をよそに、敵の持ち物を調べていた騎士が提案してきた。
「独裁者なんて、皆そんなものです。他者に対する不信と猜疑の塊でなければ務まりません。むしろお嬢様。此処は、いい独裁者になれると前向きにとらえてはいかがでしょうか?」
実際、優れた独裁者になるには猜疑心は必要不可欠な資質である。ポジティブシンキングな部下の提案だが、帝國貴族にはお気に召さなかったらしい。ギーネは不満そうに鼻にしわを寄せた。
「なんか、憐憫とか慈悲とかどうでもよくなっちゃいそうで恐いのですよ。ティアマットに来てから、新しい自分を発見する日々ですぞ」
少年少女を情け容赦なく殺害したギーネだが、自分でもビックリするほど動じなかった。ここら辺のメンタリティは割と本気でろくでもないのではと脅えるギーネだったが、相談した相手のアーネイも所詮、封建世界の住人である。
「いいことじゃないですか」
「ふむ?」
「支配者がタフで冷酷なのは頼りがいがありますよ。荒廃で生き抜くことだけを考えるなら、ね」
揶揄うようにそんなことをほざいているアーネイだけれども、己一人の命であったら、子供たちに反撃を食らう可能性を踏まえた上で助命したかも知れない。
けれど、帝國騎士には主君の行動に異を唱えるつもりはなかった。
なぜなら、自分はギーネのたった一人の味方なのだから。幼馴染がどんな判断をしようとも付き合ってやるつもりなのだ。そうアーネイは覚悟を決めている。
子供を手に掛けて衝撃を受けているギーネと違い、アーネイはとうの昔に殺戮の曠野を越えており、心の傷もけして主君に見せなかった。
アーネイ・フェリクスは、騎士となった遠き日に、庇護と奉仕の契約を超えてギーネ・アルテミスを守る為であればいかようにでも己が手を穢してみせると自らの魂に対して誓約していた。
一方、そんなアーネイの悲壮なまでの決意や内心を知ってか知らずか、いい加減な返答をした赤毛騎士に腹を立てた様子でギーネはむくれてみせた。
「むう、相談する相手間違えたのだ」機嫌を損ねつつ、ぼやく主君であったが、さりとて他に内心の弱さを明かせる相手などいよう筈もない。
手近な椅子に座ったギーネは、ゆっくりと目を閉じた。
「ゴールディングの蠅の王を知ってますか。文明世界から隔絶した孤島に漂流した少年たちが、獣性の赴くままに野蛮な世界を築き上げるのです。少年たちは最後、母国の船と接触して人に戻るのですが……」
手を休めて主君の独白に耳を傾けていたアーネイが静かに頷いた。
「蠅の王になるのが恐ろしいのですか?」
ギーネは目の前に手を翳した。蠅の王になっても仕えてくれるだろうか?沈む夕日の煌めきに輝く分厚い雲を見つめ、その彼方に広がる暗黒の宇宙を懐かしむように遠い瞳でつぶやいた。
「……強いつもりでも、気づかぬうちに世界の在り方に影響を受けるものですね。自分の中の人間性が少しずつ擦り切れていくのが分かるのだ。子供の死体が転がる世界で一人二人殺したから、どうなのだと囁く自分がいます。
頭で分かっていたつもりでも、善や慈悲を、かつては確かに美しく感じていた価値観を空虚に思い始めているのだ。
一年前だったら、果たして子供たちを断罪したでしょうか?
たったの一年でそれさえも分からなくなってきている……何時か、後悔すら感じなくなるかも知れない」
人差し指を斜めに唇に当てながら、内心を吐露した主君を見つめ、アーネイもまた物憂げにガラス壁の彼方に広がる夕焼けの空を仰いだ。主君の囁きが耳の奥に何時までも残った。
「なってしまったら意外と悪くないと思うかもしれません。でも、今はまだ堕落するつもりはありませんよ」
ギーネとアーネイが作戦行動を開始したのは、夕刻に入ってからであった。
それまではホテルのロビーで実測済みの【町】の街路図を前に、雷鳴党メンバーが入り浸っている場所や時刻、使用する移動経路、作戦計画を検討し、手はずを詰めていた。
雷鳴党と揉めてから調べた訳ではない。そのような暇も猶予もなかった。ギーネ・アルテミスは、この一年【歩き回って目にした全ての映像】を記憶していた。
一年間、暇を飽かしては【町】を歩き回り、屋台の商品、品揃え、値段、交渉、住人の時間帯の変化、行動パターン、縄張り、武装、喧嘩の頻度や物価の変化、湿度、温度、天気。体臭や大気中に含まれる粒子の分析まで、ありとあらゆる情報を脳内に貯めこんでいた。
一つ一つはさりげない情報であっても、一年を通して観察し続ければそれなりの情報量となる。ましてギーネの観察力であった。帝國貴族は、雷鳴党の存在を知る以前の記憶も含めて、常人の万倍の分析力と処理速度を用い、脳内の映像から敵性と思しき人物を選別し、行動パターンを分析し、戦力と解析し、思考パターンを推測・類別し、予想される行動を数種類、組み立てて地図へと書き込んでいく。ギーネと違い、常人並みの頭脳であるアーネイも機械の力を借りれば、同程度の分析は行える。
インテリジェンスに優れた人物にとっては、日常の僅かな情報の欠片でも数が揃えば、対象の行動を分析してのけるのは容易いことだった。つまるところ、ギーネたちは敵の戦力と戦略をある程度、把握していたのに対し、雷鳴党は日常の危機感がまるで足りなかった。
「我らは連中のアジトを知りませんのだ」
ギーネは告げた。
「しかし、おそらく、連中の行動範囲と黒影党との抗争における出動の時間から推定するに、いくつかの候補は絞り込めます」
ギーネ・アルテミスは、数回の雷鳴党と黒影党の抗争や揉め事、睨み合いを目にしていた。電話や無線のない崩壊世界であるからして、抗争が始まれば、仲間の屯っている事務所へと誰かが知らせに入る事例が多い。複数回の揉め事の始まりの地点と団員の移動速度。応援が駆けつけてくるまでの時間。そこから街路を移動するにかかったであろう時間を逆算し、雷鳴党の行動半径が街路上に複数の触手を伸ばした地上絵のように広がって、ギーネの脳裏の町の立体図へと重なり、接触地点を一群の建築物まで絞り込めた。
かなり狭いエリアに範囲に絞れるとは予想していたが、街区でも人気の少ない一帯と近隣での武装した雷鳴党の人員が複数名、界隈の路地を徘徊している姿の目撃例から、十中八九間違いないとギーネは断じた上で、他にも詰所と思しき複数の場所などを地図上に書き込んでいく。
「恐らく、この一帯のいずれかが本拠地でしょう。第一攻撃目標とします」
レストランの食卓に広げた地図の一点を指で叩いているギーネに、アーネイが頷きつつ質問。
「第二攻撃目標は、いかがなさいますか?」
「設定しません。全くの外れであった場合、余裕があれば敵人員を尋問します。なければ撤退。また、許容される行動時間を過ぎて特定できなかった場合も、反撃を受ける前に速やかに撤退します」
機動力と攻撃力において優越するギーネたちであるから、利点を殺さない為、戦力温存を優先とするゲリラ戦を骨子として戦略を組み立てている。ここら辺、主従の認識は完全に一致していた。
「攻撃目的は、那辺にありましょうや」
アーネイが再び尋ね、ギーネは即答。
「第一に資金および武装。第二に主要構成人員。第三に構成人員。第四に建築物及び設備といたします」
「了解いたしました」
「内部構造が分からないのが不安ですが……」
ギーネは、肩を竦めてから、退路について検討する。
敵拠点に対する強襲と、追撃を受けにくい退路の確保まで想定してある。
追撃を受けにくい退路と、反撃を行いやすい退路。また追撃を受け難いにしても、遮蔽が多くて攻撃を防ぎやすい地点の多いルートと、曲がり角の数から追撃を振り切りやすいルートが存在している。屋根の上などは、速度が上であれば一気に引き離せるが、敵に遠距離攻撃手段が存在すると危険な狙撃可能ポイントが数か所存在している。
複数の退路を想定してから、敵戦力の検討に移り、ギーネが携帯端末を取り出した。
「予想される【町】に待機している雷鳴党員は二十七名。軽度に候補も含めると三十二名。微小の人員も含めれば四十七名に拡大されますが、高確率の二十七名も、全員が雷鳴党だとは言い切れません」
顔を始めとする身体的特徴をデーター化して脳内から携帯端末へと送り、さらにアーネイの端末に転送する。
「これ以外に他に知らないメンバーがいる可能性もあります。雷鳴党の確立が90%で黒。70で赤。50%で紫。30で青。10で白。端末が認識し、該当した場合に警告が出ます。もっともこのデーターは過信しないでください。情報の断片からの推測に過ぎませんし、例え別勢力でも親交を重ねていれば、雷鳴党に与して攻撃してくる可能性もあります」
短時間で完全な構成員リストの入手は、流石にギーネ達でも不可能であったが、それなりに精度の高いものを作成できたと、帝國貴族は考えている。
「質問はありますか?」とギーネ。
「一つ懸念すべき事項がございます。【町】での戦闘行為が露見した場合、我々は司法機関を敵に回す可能性が高いと憂慮いたします」
顎を撫でたアーネイが主君を真剣な眼差しで見つめ、言葉を重ねた。
「交戦規定はいかがしますか?」
これは重要な質問のつもりだったが、帝國貴族は耳を掻きながらあっさりと応じた。
「無関係のものを巻き込むかもしれませんが、市民でなければ構いません。
敵拠点に居合わせた目撃者も殺害します。
また、二十七名のうち九名が非戦闘員のポジションと想定されます。まあ、遭遇したら殺害しますが」
「子供はどうしますか?」アーネイの質問する声は淡々としたもので
「殺します」ギーネの声も平素と変わりなかった。
目撃者を出す訳にはいかない。
雷鳴党への攻撃に対して【町】の司法機関が如何な反応を見せるかは、今のところ不明瞭であった。実効力に欠ける治安機構が、市民権を持たない愚連隊同士の抗争を放置する可能性は低くなかったが、しかし、万が一でも敵に回す確率は下げておきたい。
アーネイは微かに鳶色の瞳を細め、帝國貴族は物憂げに瞳を細めた。
「ですが、これが最後です。許されるとも思いませんが」
吐き捨てるように呟いてから、ギーネは傍らに控える家臣へと視線を転じた。
「それとも何か……目撃者や子供を殺さないで済む方法を思いつきましたか?」
問いかけに騎士があっさりと肯いた。
「御座います」
腰に付けたポーチから小さな袋を取り出しながら、しかし、騎士は首を傾げてみせた。
「といっても、目撃者を逃がせば当然、作戦遂行の難度は上がりますし、確実性にも欠けますが」
「ふむ」とギーネ。
「ですが、よろしいのですか?」
「どういう意味です?」
「お嬢様が……帝國選帝侯ギーネ・アルテミス閣下がいかな選択をなされようとも、アーネイ・フェリクスは付き従いましょう。ですが、明らかに自らを危険を晒すような選択を取られるのであれば、此れにご再考を願うのも臣としての責務と心得ます」
襲ってきた相手が子供だからと言って迂闊に見逃すと、ティアマットでは命取りになりかねない。
曠野や廃墟を徘徊する襲撃者の群れには、生まれた時より殺人や人肉の味を覚えて生まれ育った獣の子も少なからずいる。
中世スコットランドの伝説的犯罪者・ソニー・ビーンの一族のごとき、禁忌を持たぬ野獣の子らと遭遇した時、いかに対処するか。
遭遇した【獣の民】が少人数であれば、ギーネとアーネイは容赦なく始末してきた。
幸い、今のところ、子供は含まれていないが、いずれは遭遇するやも知れない。
見逃せば、他者に類が及ぶ。それは日々を善良に生きる人々かもしれないし、或いは知己かもしれない。仮に【獣の民】にも事情があるとしても、それを斟酌して見逃すのは、アルトリウス帝國の貴族の価値観からして有りうる判断ではなかった。
一方で、街中でひったくりやスリを仕掛けてきた者が子供であればどうするべきか?
無罪放免は舐められる。法も秩序も身を守ってくれない世界では、舐められたらお仕舞である。
しかし、他に生きる術を持たない、貧しさから盗みに手を染めた子らを情状酌量もせずに裁くのは公正ではないと帝國人たちは判断した。ゆえに、衆人環視の前で尻を鞭で叩くことで放免してやったこともある。逆恨みで集団で襲ってくる子も当然いて、その際は手足の一、二本はへし折って放置したが、それ以外は尻叩きが応えたのか。帝國人の懐を狙ってくることはなくなった。
さて、武器を持って襲撃を仕掛けてきた子らをどう遇するべきだったのか。
許すべきものを許し、裁くべきものを裁く。その境界をどこに置くか。
「お嬢様は、一時の感傷に流されておられませんか?」
ギーネはアーネイを鋭く睨んだ。自身の想いを理解してくれない腹心への甘えを孕んだ苛立ちか。或いは、痛いところを突かれたからか。
「余は二度も過ちを犯したくない」
「過ちだったとは限りません」
主君の勁烈な眼光に怯むことなく帝國騎士は淡々と言葉を返した。
「お前は、何時もギーネさんが最も欲しい言葉をよく知ってるのだ。アーネイ」
ギーネが微笑みながら、言葉を続けた。
優しげな笑みに、しかし、紫の瞳は凍土のように冷たく輝いている。
「とても耳障りのいい聞きたかった言葉です。だから、この件に関して二度とそのように言うことは許さぬ」
アーネイが懸念するのは、ギーネの心がひび割れて、裁くべきものを許すようになる弱さを発露することあった。
しかし、帝國貴族は、不愉快さを隠そうとせずに言葉を紡いだ。
「倒すべき相手を打倒するのであれば、それは互角の闘争であろう。
しかし、ネズミのように追い詰められた私は、脅えのままに無慈悲に命乞いをする子供を殺した」
「やり直すべき機会を与えるべきであったと思うよ。余は暴力に対して無感動になり、恐怖で自分を見失いました。恥ずべき行いであったことは余が一番よく知っているのだ」
心の中に押しとどめるものがあったのに耳を傾けなかったと、帝國貴族は告げた。
人差し指を立てたギーネがアーネイを射抜くように鋭く見つめた。
「魂を失って生き永らえるくらいなら、死んだ方がましです」
断言してから肩を竦めて、皮肉っぽく笑みを浮かべた。髪をかき上げてつぶやく。
「とは言え、魂を失うのも恐いが、命を亡くすのも惜しいのだ。
だから、きっと誰もがそうしたいように、保身と危険の境を歩きますよ。
この危険なティアマットで生死の境界線に張られたロープの上からギーネさんが転がり落ちないように、お前は背中からしっかりと見張っておくのだぞ。アーネイ」
獣同然のティアマット人共に慈悲をかける価値があるのでしょうか。口元まで出掛かった言葉をアーネイは呑み込んだ。
慈悲とは自らの為ではなく、他者の為の行為であるが故に、純粋にただ生き抜くという観点で見れば不利に働く。ギーネもお花畑ではないから、誰にも彼にも大盤振る舞いすることはなかろうが、それでも危険な要素には違いない。しかし、それを承知で主君が望むのであれば、アーネイに否やはなかった。
「御意。マイロード」帝國騎士は、恭しく頷いた。
なにが正解かは誰にも分からなかった。答えなどないのかもしれない。ギーネ・アルテミスの選んだ道が未来へ繋がっているか否かは、いずれ時が教えてくれるだろう。
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