人間の本質は悪なのだ
ユニは、スーを見た。スーは何を言われたのか、その瞬間は理解していなかったに違いない。
不安を色濃く宿らせた瞳を揺らしつつも、ユニを見上げて強張った微笑みを浮かべている。
「……この娘……この娘は」
喘ぐように繰り返した後、どこにいるともしれない貴族に対してユニはへつらって媚びた笑顔を浮かべてみせた。
「とっ、殿様……この娘は非力で、やせっぽっちで……」
「そして特殊な力を持っておる。汝はそれを知っておろう」
美しく涼やかな女の声は優しげでさえあったが、しかし、冷酷な確信に満ちていてユニは泣きそうになった。
この娘をどうするつもりか。ユニがそれを訪ねる前に、ギーネからの言葉が返された。
「汝を見逃すのは、脅威とならぬからである。だが、その娘は違う。その牙は我が喉笛に届きうる」
絶望的な言葉の羅列されて、最後にギーネ・アルテミスの審判が下された。
「死に値する」
「さあ、立ち去るがよい。そして我が慈悲を噛み締めながら、命長らえるがよかろう」
庇うように強く全身で抱きしめながら、ユニは震えるスーの頭に鼻をすりつけた。
「なら、その慈悲を……こっ、こっ、こっ」
「コケコッコー?」
トリックスターのようにふざけたギーネの返答に笑ったり、怒ったりする余裕なんてユニにはなかった。
「この娘に上げてくださいよぉ!」ユニは必死に叫んだ。
「お前は助けてやると言っているのだ。それでは不満か?」
響いてくる声に対して、ユニは顔を激しく首を振りながら、必死に説得を試みた。
「だって、こんな小さい。ほら!この娘が生まれた時。本当にお猿さんみたいで!小さいときにはよく熱を出して!この娘のお母さんはずっと付きっ切りで!近所のみんなで様子を見て!痙攣を起こしたとき、舌を噛まないように咄嗟に手を入れて!」
だが帝國貴族の返答は断固として変わらない。涼やかな美しい声で冷酷な宣告を紡いでいる。
「ならぬ。金目当ての下賤な殺し屋風情が。本来は首を跳ねられていたを助命したは温情であると知れ」
スーがユニの服の裾をぎゅっと摘まみながら、小さい声で言った。
「も、もういいよ。しょうがないよ。わっ、わたしも捕まえようとしたし。あの人からしたら……怒るのも無理ないもん」
「……も、もう行って。ね、もう行ってよ。ゆーちゃんは、ごめんね。ご、ごめんね」
繋いだ手からは震えが伝わってくる。友人だけでも安全なところへ逃げて欲しいのか。スーは必死でユニに立ち去るように訴えてくる。強張った表情で泣きそうに笑っていた。
ユニは鋭く息を吸った。天井、今もまだ高く美しい大理石の天井を爛々と輝いた瞳で失火とにらみつけた。
「だっせー!ちょうだっせぇええ!笑える!すっげえ笑える!ちゃんちゃらおかしい!」
ゾンビが寄ってきても不思議ではないような大音声を張り上げて、ユニは恐れもなく叫んでみせた。
「アルトリウスの帝國騎士って噂と違いすぎませんかあ!
円卓以来並ぶ者なき無敵の騎士でえす!異界種族を切り裂いたオーディンの剣でえす!
だけど、子供一人恐くて生かしておけないでえす!」
怯む様子を欠片も見せていない。世界の果てまで届けとばかりに声の限りに心のうちをたたきつける。
「聞いたことがあるよ!人類種の護り手! 現代に蘇った神話の軍勢!大人の中にはさ!アスガルドから帝國の騎士たちが何時か助けに来るんじゃないかって期待してる奴もいた!はっ!とんだ買い被りだったみたいだね!」
喉が張り裂けんばかりの叫びは、火を噴くような啖呵だった。
「十二選帝侯のギーネ・アルテミス様ぁ!どうした!かかってこいよ!臆病者ぉ!姿を見せてみろ!
国を捨てて領民を見捨てて自分だけティアマットに逃げてきましたぁ!
だけど今でも帝國の誇り高き大貴族でえす!かっこよすぎくううう!」
拳をブンブンと上下に振るって、鼻息も荒く叫び続けて一瞬。気づけば、ユニは赤毛女に背中から床に取り押さえられていた。床に顔面を叩きつけられた衝撃で鼻血が出ているのだけは分かったが、他は何がどうなったのかも分からなかった。
「首を撥ねますか?」
赤毛の女は、事も無げにスーの方に向かって尋ねている。
ひでえことをしやがるとユニは思った。女の声は、平坦だった。まるで卵を焼くか、茹でるかを尋ねるみたいに穏やかな声だが、きっと赤毛女にとって他人の命なんてそんなものなのだろう。
自分もスーも、虫みたいに扱われていることに口惜しさと絶望がユニの胸の奥から吹き出てくる。
巨大な血に塗れた斧槍が首に突き付けられている。刃を濡らす鮮血は泡立っている。
震えるスーの背後には、銀髪の女が立っていた。小さな頭にマスケット銃を突き付けて、昏く冷ややかな紫の瞳でスーとユニを見下ろしている。
ユニは、涙を流していた。
「死ぬなんて怖くない!でも、殺されてもいい!でも、見て!その娘を見て!本当に殺すと思う?!その娘が本当に殺すと思うの!?」
言葉は不明瞭だった。脳味噌が揺れているみたいに視界が不明瞭で、実際にはふごふご唸っているだけだったかも知れない。もがいたつもりの手足も弱々しくぺたぺたと床を叩くだけで、視界もくるくる回転しているし、顔も痛いしでユニは踏んだり蹴ったりだった。
「その娘は……スーは、母一人子一人で支えあって生きてるの。凄くいい子なの。その娘が死んじゃったら、お母さんはたった一人残されちゃうの!お願い。お願いよぉ」
「いい子は殺し屋の手伝いなんてしないのだ」ギーネは思わず突っ込んだ。
「……ユニちゃあん」
スーを泣かせるなよ。睨みつけるユニの視線を受け止めて、銀髪の綺麗な女は、口元に自嘲するような笑みを浮かべた。
「馬鹿な挑発です。大人は誰もが、葛藤や格好悪さを呑み込んで生きてきたのだ。そんな挑発は効きませんよ。そして苦しみや恥を覚えても前進をやめず、他者の命や尊厳を踏みにじっても欲しいものを手に入れるから、大人は子供より恐くて強いのだ」
帝國という戦争機械が千年に渡る試行錯誤の果てに作り上げた生粋の殺戮者を前に、情への訴えかけは全くの無力で、ユニの乱れていた呼吸は徐々に静まっていった。体から力が抜けてしまう。
「ふーひゃん。ひょへん(スーちゃん。ごめん)」ユニは力なく呟いた。
口腔内に溢れてきた血で発音が不明瞭になってしまった。
「……ユニちゃん」スーはギーネの片手に肩を抑えられて、身動きができずにいた。
「約束通り、お前の命は助けてあげます。友人の仇を取りたくなったら、いつでも殺しに来なさい」それが力の信奉者にとっては、情けのつもりらしい。
「いらない。スーちゃんを死んだら私も殺して」血と涎をペッと床に吐き出してからユニの返した言葉に、少し考えてから帝國貴族は頷いた。
「し、死にたくないです」
「私も同じです。死にたくない。だから、お前を殺します。だって、お前は金を目当てに私たちの命を狙った殺し屋ですから」
「違うです……殺し屋じゃないです」
心外だと言いたげなスーの言葉に、ギーネはクスクスと笑った。
「いいえ、殺し屋です。ほら、この傷。お前がつけたのですよ?
今、何歳ですか?十歳?それとも二、三歳上ですか?その年齢でこのギーネに傷付けたものは、十二貴族の血族とアーネイを除けば、お前が初めてです。
ふふ、あと少し火力があったら死んでいました。でも、それを責めるつもりはありませんよ。わたしも目的や利益の為に人を殺しますから」
囁きは、帝國貴族が自身を納得させる為の言い訳であったのかも知れない。年端もいかない少女を殺すことへの躊躇は、ギーネにも幾らかあった。
震えるスーの瞳から、涙が零れ落ちた。少女の涙を拭って、ギーネは言葉を続けた。
「そんなつもりはなかった、ですか?でも、一歩間違えれば、そんなつもりのないお前の軽い気持ちで私の生命は踏み潰されていました」
「……ごめんなさ」
「謝ってはいけません。世界の本質は何時だって弱肉強食で、人の本質は悪なのだから。お前は、好んで世界の暗黒面に足を踏み入れたのです。そこでは弱いものは全てを奪われます」
幾らかは少女の恐怖を楽しんでいたかもしれない。猫がネズミを甚振る残忍さを発揮して、今のギーネが、残忍な気分に浸っているようにアーネイには見えた。
アーネイ・フェリクスは、主君を止めなかった。追い詰められ、追い掛け回された怒りと鬱憤を帝國貴族は発散していた。冷静さを取り戻せば、基本的には善良でバランスの取れた人格に立ち返るだろうから、好んで、鉄火場にやってきた現地人が怒れる君主の贄となろうとも帝國騎士はなんら痛痒は覚えない。
「ち、ちがくて……追いかけて、恐い思いさせてごめんなさい」おずおずといったスーにギーネは微かに唇の端を動かした。
「悪い子ではなそうですね。だけど、生かして帰しても我らにはなんのメリットもありません。加えて、お前たちを生かして町に返すと、雷鳴党にいろいろと伝わってしまう。
派遣した部隊が壊滅したとの情報は伝わるのが遅ければ遅いほどいい」
ギーネが、スーの細い首に指先で触れた。帝國貴族の鋼鉄のような手が首に掛かると、スーはびくりと体を震わせた。鍛えた大人ですら抗いようのない恐ろしい力が、確かにスーにも伝わってくる。
「子供は殺したくありません。でも、お前たちが沈黙を守ると期待して、生かして帰すという事は、我らにとっては危険を増すだけの行為です。賞金稼ぎたちの縁者に伝われば報復を目論むものもいるかも知れません。生かして帰せば侮られることもあり得ます。日常の緊張には耐えられるし、殺し殺される日々を受け入れてますけれども、不要な闘争が増えるかもしれない。それは現状、好ましくない」
「そしてなにより、私はお前が恐いのです」
床に伏せていたユニが思わず顔を顰めた。百名とは言わないまでも、軽く七、八十人はいる賞金稼ぎのことごとくを鏖にしてのけた殺戮者が、スーみたいな気弱な少女を恐れていると口にする。だがギーネ・アルテミスは紫の瞳を細めてスーを見つめていた。
人の感情で、最も強いものは未知に対する恐怖だと云われている。ギーネにとって、スーは正体不明の能力者だった。今も恐れている。弄ぶつもりはなかったが、次にその同類と遭遇した時に備えて、幾ばくかでも正体を突き止めておきたい。
警戒しながらも遺伝子のサンプルを摂取し、体温や肉体のデーターを観察して、映像を記録している。この時、スーが自分の能力を全て明かしていたら、果たしてギーネは害意を弱めただろうか。
だけど、スーはただ怯えていて、ギーネは淡々と言葉を続けた。
「お前は、私の命を執念深く狙う毒蛇かもしれないし、見た目通りの猟犬の群れに紛れ込んだ子猫なのかもしれない。後者のような気もしますが、私はお前を知らないのだ。誰かを助命するか判断するときは、いつも考えます。
命取りとならないか。例えば貴女がセシリアやアーネイのような強者と組めば、十分に私を殺せます。しかも一度、私を狙っている。その人格ではなく能力において、生かしておくには危険すぎる」
少し躊躇ってからギーネ・アルテミスは、スーの髪の毛に指先で触れた。少女の髪の毛をもてあそび、自分の殺す相手を記憶しようとでもいうのか。鼻先に持っていって軽く匂いを嗅いでみる。
「参りましたね。生かしておく理由がありません。逆に殺すべき理由はいくらでもあります。
万人が万人に対して闘争を行っているこの惑星で、私がお前を生かしておく理由がありますか?」
掛けた言葉は、ギーネにとって最後に与えた弁明の機会であったが、スーは死の宣告と受け取った。
静寂に包まれたホールで、小鹿のようにただ震えるスーの足元に、ホテル入り口の方角からゆっくりと影が伸びてきた。
「夕焼けが奇麗ですね。まるで桜の色のようです」
スーに掛けたギーネの声は、優しい響きを伴っていた。
「今日は何時に起きましたか?
今朝は、早起きをしました。
雲がとても綺麗で、まるで天国のような光景でした。
アスガルドで見た夕焼けを思い出しました。
この惑星の日光は、アスガルドと同じ色なんですよ」
死ぬのだ、とスーは悟った。頭の中で遠く鈴を転がすような透明な音が鳴っていた。
「目を閉じなさい」
ギーネが囁いた。
「母親を思い浮かべなさい。家に帰った時の光景を想像なさい。きっと魂が還りつくでしょう」
スーの後頭部にこつんと硬いものが当たった。
「おかぁさん。おかあさぁん」
目を閉じたスーは、耐えようとしても後から後から湧いてきてしまう万感の思いに、涙と鼻水と涎を垂らしながら、ちっちゃな体は瘧のようにぶるぶると震わせていた。食い縛った歯の間から小さく咳き込んでは、へひっへひっと泣き声を漏らしている。
ユニが身を起こした。アーネイが視線で首を撥ねるか尋ねてくるが、ギーネは微かに首を振って思うが儘にさせてやった。
「大丈夫だから……大丈夫」
にじり寄ったユニは、スーを強く強く抱きしめる。
「一緒にいるよ」耳元で囁いた。
スーとユニは振り返った。そこには巨大なホテル・ユニヴァースがあった。二人はホテルを後にして歩き出した。手を握って帰り路を歩き続ける。家に帰るのだ。
家路への一歩一歩が心躍るようで足を弾ませた。
街が見えてきた。二人の少女は顔を見合わせて笑うと、駆け足になった。
町はずれにある廃棄地区の狭い街路を駆け抜けて、廃工場の横を通ると我が家が見えてきた。お母さんが笑顔で手を広げて待っていた。抱き着いたスーとついでユニも何時ものように抱きしめてくれる。母の匂いが鼻腔を満たした。胸一杯に幸せの匂いを吸い込みながら、転げるように笑うスーの視界に光が溢れた。
涙を流してこと切れた徒弟たちの亡骸を変異獣の巣へと投げ入れてから、ギーネ・アルテミスは、木製の椅子に深々と座りこんだ。
「私は間違えましたか?。怯えに負けて余計な殺戮を行いましたか?」
主君の問いかけにアーネイは淡々と答えた。
「少年らは自ら望んで闘争の場に上がった。そして返り討ちもまた武人の習い」
「でも、間違えたような気もします」頬杖を突きながら、ギーネはため息を漏らした。
「お言葉ながら、私はそれをお嬢様に申し上げる立場にございません。
お嬢様はアルテミスが当代の主として自らの答えを導き出さねばなりません」
つまり、てめえで考えろ。家臣にそう言われて、ギーネは肩を竦めた。
グジグジと思い悩む軟弱な主君を侮蔑しているのか。しかし、ギーネの脳裏には、少女の透明な涙が焼き付いている。しばらく忘れられそうにない。
「万人の万人に対する闘争を終わらせ、ティアマットに王道楽土を築き上げます。余はティアマットを統べるのだ。こんなところで僅かばかりの危険を侵すわけにもいかないのだ。史上を見れば、敵に情けを掛けて死んだ人間は幾らでもいるのだ。我が血の一滴は、下賎の者らの命百万よりも尊いのだ」
言ってから、結局は言い訳だと鼻で笑い、帝國貴族は遠い目をした。
「違いますね。全部、言い訳です。結局のところ、死にたくなかったのだ」
ギーネ・アルテミスは、己が百万のティアマット人が命を費やそうとも為せない世界の再生を行えると本気で信じている。ティアマットの地に千年王国を築き上げようという野望は、しかし、それを言い訳にするのは、奪った命に対して不誠実でもあると感じられた。
奇妙な恥の感覚に苛まれながら、ギーネは指先で側頭部を支え、思索に耽っている。
闘争は生命の避けようのない本質であり、目の前に立ちはだかる者がいれば、それが何者であろうとも、ギーネ・アルテミスは容赦なく粉砕してきた。
今日までは、闘争になんら恥じる部分がなかった。が、近くの窓ガラスに映る自分の顔を敢えて見た。
醜い顔です。幾度となく見てきた暴力に浸かった人間の顔。
余が東海岸を征服するのは、暴力の支配するティアマットの嘆きの連鎖を止めんがため。万人の万人に対する闘争を終わらせるためです。ティアマットでは、何時でも、何処でも、人は無価値に死んでいく。
そんな世界を気に入らないからこそ、ギーネは力を欲していた。だが、踏み越えてはならない一線はあったのかも知れない。自分の中の無垢と純潔の部分を永遠に穢してしまい、失ったことを自覚してギーネは舌打ちした。
「まあ、どうでもいいですが、雷鳴党に対する反撃を開始するのだ。可及的速やかに敵主力を制圧し、状況における主導権を取り戻さなければならない」
そしてその暁には、雷鳴党は専制君主の怒りの凄まじさを身に染みて思い知ることとなるだろう。 ギーネ・アルテミスの紫の瞳が、憤怒によって氷河のような輝きを放っていた。
文章担当のヌッコ
「スーとユニ、助かったよね?
書き直させてよぅ」
脳内のアイディア担当の悪霊
「おう。好きに書き直してええんやで(ニッコリ
作品としてもっと面白い展開を描けると思うんならなぁ(ゲス顔」