3あたしと若者
あたし、七歳。小学生だね。義務教育ないけどね。
今更だけど家はずいぶんなお金持ちです。通いの教師とか雇っちゃう。あたしにも先生がついた。超聞き分けの良い生徒だったので、先生がたの評価は軒並みよかった。そこそこ楽しかったしね。特に歴史、神様の話になると興奮した。やっぱそういう世界観なんだ!
とある神様が、大事にしていた水瓶のひとつ、『蛇の鱗』を割ってしまった。悲しくて悲しくて泣き暮らす神様に、水瓶をくれた蛇が会いにきて、その鱗を一枚くれた。鱗はみるみる水瓶に変わったけど、それは今まで大事にしていた瓶によく似た別物だった。神様は怒って、蛇を殺してしまう。すると水瓶からは蛇の生き血が溢れて、神様は溺れる。その時始めて蛇が今まで真心を持って自分に接してくれたことを知って、涙を流す。蛇の血と神様の涙が混ざり、その中からいつしか新しい神様が生まれた。新しい神様にはふたつの手があった。左手には蛇の真心と、蛇のために泣く優しく清らかな心が宿り、人やその他の良い生き物を生んだ。右手には蛇を殺した勝手で残忍な心と、神様を飲み干そうとした卑しい心が宿り、きたない生き物を生んだ。血と涙の海は神様の他にもあらゆる自然の元となった。
神様と人とがまじわった末の血族が、今現在ある、各地の王族につながっている。
つまり、あたしの暮らすこの王都バグルジーンの中央におわす王家のみなさんは、神様の子孫ってことだ。
かなりワクワク。
あたしは教科書がわりの神学の本を開いたまま、そこにある蛇のイラストをなぞる。蛇ってより、竜、ドラゴンっぽいな。
脅竜も、こんな感じなのかな…
絵本では、暗闇にのぞく真っ赤な瞳として描かれていたきょうりゅう。その姿を本のイラストと重ね合わせて、あたしはひとりゾクゾクしていた。
ふふ。
あのね、聞いて驚かないでね。
どうやら、実在、したらしいのだ。
あの、ゆうかんなわかものの、きょうりゅう!!
過去にほぼ絶滅して、今では特別に管理されたものしか残っていないらしいんだけど、でも、本当にいる!
やばくない? 超やばくない?
あたしは奇声をあげてベッドに飛び込んだ。そのままクッションを抱きしめる。ゆうかんなわかものシリーズを並べた本棚を眺めた。去年、未完の名作となった、あたしの愛読書。
作者のグイウェン・ロッズが、死んだのだ。
聞いた時は、あたしの方がどうにかなりそうだった。三日三晩、本当に何も手につかなかった。お母様にもおじさまにも、訳は言えなかった。そんなことか、って反応されるのが怖かった。
最新巻のラスト。わかものは、ほとんどりゅうになっていた。暗闇に浮かぶ、ふたつの目。わかものの、若草色の、ただ前だけを見つめる瞳。
お姫さまも、若者を知るすべての人がもう死んでいた。りゅうの呪いでわかものは、恐ろしく長い寿命を得ていた。
それでも彼は、立ち止まることだけはしない。
あたしは最後の彼の姿を見て、立ち直った。
ううん、立ち直ることを決めた。
わかものが前へ行くのなら、あたしも頑張らなきゃって。
完結することがないなら、やっぱり今もどこかで、彼も進み続けているんだから、って。
わかってる。
正直、あたし、イタい。
でも、ほら、七歳だし、許してほしい。
じんわり浮かぶ涙を拭って、あたしはそのまま眠りに落ちる。
首にさげたネックレスの先、桜の石が、きらきら輝く夢を見ていた。
あたしはその日、運命を感じた。
黒髪に、若草色の瞳。
かの憧れのわかものが、そこにいたのだ。感極まって、視界は桃色。声も出せずに立ち尽くして凝視するあたしに対し、わかものは、
「何者だ」
かなり態度悪かった。
じろりと睨まれる。警戒してるっていうより、マジで邪魔、消えろよ今すぐ。みたいな、ゴミでも見るような視線だった。
……やっぱり、若者とちがうな。身長だって、あたしよりずっと大きいけど、わかもののようにたくましくはない。大人と子供の境目の、不十分な体つきだ。あたしの目、節穴だわ。
全力で自分の両目を罵りながら、あたしはにっこり笑ってごめんあそばせ、とだけ答えると、すぐさま踵を返した。
そもそもここうちの庭だし、お前の方が何者だよって感じだ。たまたまこっそり散歩に出て、絹菱蘭の花がそろそろ咲くかなあと、西の庭園に行ってみたらこうだ。どうせ身分をかさにきて偉ぶる嫌な子どもでしょ。お母様の客でも、あたしはパスだ。
一瞬でもわかものと重ねてしまったあたしを、どうか神様お許しください。
で。あたし、ほんとバカ。バカ。バカ。ばかばかばかばか!
侍女のサリューに言われるまで気づかなかった。
「お嬢様、今日は首飾りを外していらっしゃるのですね」
いつも肌身離さずさげている、それ。
が。
「ない」
「お嬢様」
呼びかける、サリューの声が遠い。
え? 落とした? どこで? わ、わ、あたし、え? あたしを、落とした?
冷や水を浴びせられたみたいに絶望が全身に広がって、血の気が引いて、床に膝をついた。自室の絨毯は柔らかく、あたしを飲み込んでしまいそうに思えた。
「探さなきゃ。あたし、探さなきゃ」
どこを歩いた? 今日は、部屋を出る時はあった。お母様のお部屋を訪ねた時も、あった、と思う。弟と走って遊んだ時になくした? それとも
「お嬢様、顔色が悪いです。 首飾りはサリューが探しますから、どうかお休みになってください」
「やだ、やだよ、サリュー、どうしよう。あ、あたし、あたしが」
「リコ?」
おじさまの、声。
「おじさま、おじさま、どうしよう」
這うようにして、扉を開けたばかりのおじさまに駆け寄ると、しがみついてめちゃくちゃに訴えた。サリューが説明してくれる。
「お嬢様が、首飾りをなくされたようなんです」
おじさまは得心した、とばかりに、膝にくっついたあたしを抱え上げる。
「わかった。すぐ探そう。ベリダッド、悪いが紹介はあとだ」
ベリダッド、と後ろを振り向き声をかける。あたしからは見えないけど、そこに誰かいるのだろう。いや、いたとして、今のあたしには見えない。なにも。もう、おじさまの手の感触さえ、不確かだった。明らかに錯乱していた。
その時だ。ひどく場に似つかわしくない、静かな声がした。
「失せ物は、首飾りですか」
「ああ、先の割れた赤い石のーー」
おじさまが驚いた声で、ベリダッド! と声をあげる。あたしはびくりと跳ねた。
「お前、これをどこで……」
「昼間、庭園で。お嬢様をお見かけしたあと、近くの藪に引っかかっていました」
「藪」
おじさまが何か言いたそうにあたしを見下ろす。あたしは聞いているけど聞いていない、変にぼんやりした気分だった。
「おい、リコ? ベリダッド、早く渡してやってくれ」
誰かが、黒い影が、近寄って、若草色の、ふたつの瞳が、あたしを見た。それは黙って、真っ赤な、血の色の花びらを、あたしに差し出す。
真っ赤な、花びら?
「っ!!」
あたしは飛び起きた。そのまま花びらに飛びつく。
「あ、桜……あたしの、あたし」
「リコ、お前、ちょっと待て、こら」
「桜!」
飛びつきながら、誰かのうめき声を聞いた。けど、そんなことより、あたしの、あたしの桜! 手の中に抱いて、ちゃんと握る。あ、あたし、まだ生きてるよね。大丈夫、生きてる。律子、生きてる。
深呼吸する。涙がぼろぼろ落ちた。そうしたら、そういえば近くにあった若草色の瞳が、何度か瞬いたような気がした。
「あなた? あなたが見つけてくれたの?」
ああ、と、ごく小さく返る声。
「ありがとう、ありがとう、ありがとう!」
桜の石を胸に抱いて、ひたすらお礼を言った。おじさまに抱え直されるまで。
「リコ、落ち着け。ベリダッドが驚いてる。悪いな、ベリダッド」
「いえ」
お前も顔色が変わらんな、と呆れたようなおじさま。あたしはその腕の中で、もう二度と離すまいと、心に誓っていた。
その後紹介されたベリダッドという名前の少年は、若草色の目をしていた。あ、この人、アレじゃん。あたしをゴミみたいに見た奴じゃん。
その相手に自分がつかみかからんばかりに迫ったことを思い返して、青くなればいいのか赤くなればいいのかわからなくなった。