21あたしの春2
おう、春なのはあたしの頭だぜ。
クロッタ・ジルバが終わってこちら、季節はもはや夏に移り変わろうかというのに、爛漫がすぎるぞあたしよ。
窓から吹き込む風は爽やかである。四季はあるが梅雨はない。素晴らしいな。素晴らしいぞ世界。
あのあと、恐れ多くもバクルジーンに名を連ねるユクシュル殿下の前で醜態をさらしたあのあと、あたしは恥じた。さすがに、恥じた。
羞恥心の塊のようになって許しをこうあたしを、殿下は笑い、隣で見ていたアリシオもまた、ぶふっと笑い飛ばしてくれた。
おおなんと慈悲深い、神か天使か、と二人を崇め奉りたい感情に襲われたけれど、なんとか胸に収めて感謝の言葉を口にした。
しかし春は未だあたしに内在しており、この絵本を見ると溢れ出してしまうのだ。
あたしは竜が好き。
――ユクシュル殿下も、竜が好き。
そしてあたしたちは、お友達。
運命か! 運命なのか!
あたしは興奮を押しとどめようと胸を抑えるが、記憶は溢れ出す。数日前の出来事が、つい今しがたのことのように思い出された。
――お許しを得たあたしに、改めて殿下は教えてくれる。
幼い時分、危険だからと一人で外に出ることを許されなかった殿下は、何物をも恐れず大空を自由に飛び回るという竜の強さに憧れたのだという。
あーわかるー超わかるよそれー、竜マジヤバイよねー、と心の中で激しく同意の意を示しながら、あたしは「よくわかります」と短い相槌にとどめた。
そして殿下御用達の柔らかい座椅子に座り直す。
ここは先日、バカなあたしを周囲の目から隠すために機能した小部屋だ。なんと王子様のプライベートルームである。彼はこの空間を快適化するために、簡単な家具と本棚を持ち込んだ。
この間入った時は殿下に夢中でサッパリわからなかったが、王子の御用命で運び込まれた家具は色こそ地味にほとんど茶色、しかしその上等さは触れればわかる。この椅子だってふかふかすぎず硬すぎず、読書には最適だった。
しかし彼はあたしの背後に立ったまま、せっかく備え付けたであろう席につこうとはしないのだ。
あたしが寛いで、王子様は立ちっぱなし。
アカン。
しかしあたしがいくら座ってくれと懇願しても「ここでいい」「ここがいい」と譲らず、最後には「あまり言うと読ませない」と言われてしまう。あっけなくあたしは敗北した。
そして殿下は壁に寄せた本棚にもたれて、敗残兵のあたしが頁をめくるのをじっと見ているのだった。
――こんな状況で本が読めるか!
と最初は思っていたのだが、すぐに引き込まれてしまう。
『創世記』を開くのは二度目だ。
初めては、お茶会の東屋で。殿下が何冊か見繕ってきたと、並べてくれたうちの一冊が、これだった。あたしは殿下の存在も忘れて読みふけりそうになったが、さすがにマズイと、半分読んだところで我に返った。
目次と注釈を見れば、『脅竜』の項はここからもっと先の記載だとわかっていたが、いくらなんでもこれ以上殿下のお腹をお茶でたぷたぷにする訳にはいかない。
決断してお返ししようとすると「持って帰ればいい」との御言葉。ありがたくお持ち帰りしようとしたところで、あたしは自分の心が不自然に揺れるのを感じた。
――あ、ダメだ。
この本のこの続きは、良くない。
『創世記』は、あたしの心を動かしてしまう。せっかくここまで、あたしは穏やかにいられたのに、また戻ってしまう。
ただの物語ならまだいい。けれどこれは、この本は、違う。実在の『脅竜』へ、あたしの心を導いてしまう。
あの日、あの夏から『竜の死』は、あたしのタブーだった。
あたしは代わりに別の本をお借りすることにして、もう忘れてしまおう、と誓った。触れなければ、戻ることはない。あたしは、あたしの殻を守り続けることができる。
――けれど、ずっとどこかで、求めていたのだ。
そして、もう大丈夫。
あたしの『殻』は、『家族』によって砕かれたのだから。竜が命を落としても、あたしの居場所はなくならない。ちゃんと、すっかり理解できたから。
あたしは最初からまた読み始めた。二回目なので、覚えているところは飛ばし飛ばしになるのだが、水瓶の項は改めて大事に読む。
そして、ついに辿り着いた。
かなりドキドキしながら頁を繰ったというのに、その内容はあたしの中にあった緊張感もひとつまみの恐怖も、全て好奇心のワクワクへと塗り替えてしまう。
あっけなく、あたしはそれに触れていた。
――脅竜と、水瓶の蛇は、殿下の『創世記』では全くの別物として描かれている。
最後の注釈によると、姿は確かに似ているが、皮一枚めくってみれば、蛇はなんと、猫の仲間だというである。
猫……って、ネコか?
あたしはどこからどう見ても『竜』にしか見えない『蛇』と、その横にちんまりと描かれた『猫』の挿絵を見比べた。
共通点…えっと…えっと…爪が鋭い、噛まれたら痛そう…あとは……し、尻尾がある!
……
この問題に際して、あたしが頭を抱えたのを誰が責められるだろう。
答えをくれたのは、他でもない、本の持ち主だった。あたしの質問に、彼は本棚に預けていた背中を持ち上げて、楽しそうに
「普通の蛇は知っているか?」
と尋ねた。
無論、知っている。ニョロニョロした、とぐろを巻くだ。
殿下は満足そうにあたしの反応を見て、教えてくれた。
神話の蛇と、地を這う蛇は、元は同じものである。
なんだと!
そんな内容はあたしの読んだ教科書にはなかったぞ! てっきり、他に適当な呼び方がないから『蛇』って昔の人が当てはめたのかと……。
――猫は蛇に足が生えたものである。
混乱するあたしに、殿下は続けた。
この世界よりも以前から、蛇と脅竜とは存在していた。多くの蛇が、脅竜に憧れた。手足を生やした。爪を伸ばした。けれど、空を飛ぶことだけは叶わなかった。それが、猫の原型である。
ーーしかし一匹だけ、その願いを叶えた蛇がいた。
蛇はその手足であらゆるものをつかむことができた。その爪であらゆる物事を区切ることができた。そして羽ばたき、すべてを見通すことができた。
けれど、以前のように水上を走る術だけは失ってしまった。だから蛇はその手で土をこね、血を混ぜ、火を吐いて、水瓶を作り、これをのぞくことで心を慰めたのだ。
そして脅竜は、神様に作られた生き物ではない。彼らは自由に飛び回ることができたし、誰の助けを借りる必要もなく生きることができた。
脅竜は古い神様にも、血と涙から生まれた新しい神様にも従わない。ただ時折お腹を空かせて舞い降りては、人や獣を脅かした。
新しい神様は脅竜が生き物を襲うことを禁じたが、古い生き物は聞き入れなかった。彼らは世界よりももっと古い決めごとの中にいた。
新しい神様は一つだけ残った古い水瓶をかき混ぜることで、竜の目を回して、竜が地に降りるじゃまをしている。
それが竜巻ってわけかい、竜だけに。
あたしは内心で簡潔にオチをつける。
殿下の話には、率直に言ってテンション上がったという他ない。
「諸説あるとは思うが、私が教わったのはそういう話だ」と殿下は控えめに付け加えたが、王子様が言うのだ。神様の子孫が言うのだ。疑ったら天罰が下る。
だけど、とあたしは殿下の話を振り返る。後半の脅竜についてはあたしも今しがた読んだから、おさらいのように受け入れた。けれど、改めて神様の子孫であるところの殿下の口から聞くと、なんだか違和感がある。
「……殿下は、竜がお好きなんですよね」
神様の言うことを聞かないのに。
あたしの意図を汲み取って、殿下は少し困ったように、小卓からすっかり冷め切ったお茶を取り上げて口に運んだ。
そして潤した喉で呟くのだ。
「竜は、自由だから」
小さな王子様が憧れた大空を、今の殿下も見上げたままなのか。
あたしは殿下のことを何も知らないんだな、と、その時今更ながらに思ったのだった。
――でも、これから知っていけばいいんだ。だって、恐れ多くも、あたしたちは友達だもの。
あたしは膝の絵本に手を重ねたまま、硬い木の椅子の背にもたれて目を閉じる。古い本の黴びたようなにおい。塔の中の小さな書斎。埃っぽいけど、殿下の小部屋に比しても悪くない居心地だ、あたしには。
そのごく浅い眠りの途中、やはり誰かに呼ばれた気がした。




