20あたしの春
誰かに呼ばれた気がして、あたしは膝の上の絵本をとじた。
わずかに開いた出窓の隙間から紛れ込んだのか、そのままの姿勢で耳をすますけれど、その慣れたざわめきの中にあたしの名前は認められない。
部屋の外からというのも考え難かった。ここに寄りつく生徒はほとんどいない。少なくともあたしは、この小部屋で他の誰かに出会ったことはなかった。
気のせいか、と視線を落として、
「……ひょっとして、あなたが呼んだの?」
あたしは膝の本の表紙に、凛と描かれたその美しい生き物の背中を指でなぞった。
自分のつぶやきが静かな部屋に響き渡る。あたしはその台詞を言い終えた直後、閉じようとした口で呻いた。
「あたしきもっ……」
自分をなじりながらも、にやにやと口が緩むのがやめられない。気がつけばまた「エッヘヘエ」と聞き苦しい笑い声を漏らしている。震える両肩を自分で抱きしめながら、膝をジタバタと動かす。その拍子に滑り落ちそうになる本を慌てて受け止めて、そのまま胸に閉じ込めた。
「うふ、うふふ……」
教えてあげようか。
あのね、これはね、プレゼントである。ああ、いい響き……友達、友達からの、プレゼント、贈り物、そうだよディアあたし!
しっかりとした作りの、分厚い絵本だ。といっても一頁ごとに厚みがあるから、記載された文章に目を通すだけなら時間はかからない。……文章だけならね。
その表紙を飾る、緻密にかきこまれた鱗、
鋭い爪の輝き。強靭な体に、大きく広げたその翼。
ああまさに、これは……あたしの大好きな……そう、愛してやまない……!
もう頬ずりしたい。したいが、まかり間違ってあたしのよだれでも付いたらえらいことだ。えらいことである。大事なことなので二回言う。言い聞かせる。誰に? 自分自身に。
プレゼントの包みを開けた瞬間のあたしは、「なにこれ」とつぶやいた。よかった、帰ってから開封してよかった。もしこれをもらった相手の前で口走っていたら、あたしは残りのスコラ生活をまるっと懺悔の時間にあてなければならなかっただろう。
でもこの「なにこれ」は心からの言葉だったのだ。例えるなら、砂漠でラーメン。北極でコタツ。未開の地でウォシュレット。
あり得ない存在を目にして、思わず飛び出た、極めて正当性の高い、「なにこれ」である。
そしてあたしは思ったね。
ああ、夢でも見ているのだろうか、と。
しかしてそれは現実であった。穴が空くほど見つめても、それはあたしの目の前から消えたりはしなかった。
震える手で現実を受け入れたあたしは、ともかくそれをテーブルに戻し、体を清め、お茶をいれた。
そして最初は一日一ページずつ読もう、と思っていたはずだったのに、あたしはその日のうちに読み込んで、それを枕元に置いて寝た。
そして、送り主のことを考えた。
金の髪の、青い瞳の、王子様。
ユクシュル・バグルジーン王子殿下。
そう、あの殿下は休み明けに再会するなり、「渡しそびれたから」とあたしにそれをくれたのだ。その一見するとそっけない態度に、「あああ明日からどうしよおおおおおお礼なんていえばああああ」とそわそわしながら部屋に帰り、恐る恐る開けてみたらーーあたしの大好きなーー『竜』がそこにいた、というわけである。
翌日のあたしはひどかった。気まずさとか、色々な気遣いとか、嗜みとか、そういうものを全部昨日に置いてきていた。率直にいえば頭がおかしかった。終始ニコニコニコニコと感情だだ漏れ状態で授業を受け、お昼休みには部屋のテーブルであたしを待つ美しい生き物に想いを馳せた。
そしてよりにもよって、そんな夢見がちなタイミングで、彼は現れた。今思えば、ぎこちない表情をしていたと思う。でもそんなの関係ねえ! とばかりに、ていうか見えてなかったあたしは、その姿を目にするなりテラスの椅子を蹴たおす勢いで立ち上がり、ツカツカ歩み寄ると、その両手を取って、
「ユクシュル殿下!」
と黄色い声を出した。
いくら学園内で身分が問われにくいからといって、これは不敬である。いや、その前に不審だし、場所が場所なら即刻、弁解の余地なく手打ちである。
だがあたしは、その一瞬の周囲のどよめきも、殿下の後ろに立つ数人の取り巻き男子のぎょっとした態度も、そよかぜほども気にしなかった。ただただ目の前の王子様に、尋ねたくてしかたがなかった。衝動にかられていた。だからあたしは、彼の手を握りしめて声を張り上げたのだ。
「殿下は、魔法使いなのですか!?」
頭おかしい。
殿下は「は?」と呟く。当然の反応である。もはや視界に殿下しか映っていないあたしは、ぶるぶると濡れた犬のように首を振りながら訴えた。
「だって、だって殿下……どうして……!」
あたしは竜が好きだなんて、彼の前で口にしたことはないはずだ。
そう告げようとしたけれど、感極まって言葉が告げないあたしを見下ろして、殿下は顔を赤くした。たぶん恥ずかしかったんだと思う。なんていうか、目の前のバカ女の存在が。
「……その、ちょっと、場所を移してもいいだろうか」
あたしは一も二もなく頷いた。場所なんかどこだっていい。この疑問にさえ答えてくれるなら。そして、この溢れて止まらない喜びを彼に伝えられるなら。
そういう溶けた脳みそだったので、手を引かれるままにあたしは彼のあとに従った。そのあとの食堂の空気は、あとでアリシオに聞いた。なぜなら彼女はあたしに同席していたからだ。
本当にすみませんでした。
殿下はひと気のない小部屋にあたしを引っ張り込むと、席につかせた。やや冷静さを取り戻しかけていたあたしは、しかし今だにパーであったので、差し向かいに腰掛けた殿下に
、やはりニコニコニコニコ気持ち悪く笑い続けていた。
「それで、リコリベージ……」
「はい、殿下!」
「……少し、落ち着いてほしい」
「はい! ……あっ、はい……!」
返事ばかり威勢良く、全く落ち着く気配のない小娘はかなりうざかっただろうに、海より深い懐の殿下は、そんなあたしを臣下に命じて縛り上げるどころか、一笑して、「よかった」と言ったのだ。
「まだ怒っているのかと思っていたから」
「え? 誰が?」
もはやタメ語になるあたしである。
「君がだ。約束を違えた私を許せないから、冷たいのだと」
あたしは心当たりがなかった。え?あたしが? 殿下に? 冷たくした?
そんな不敬なことするわけがない、とその時のあたしは確信していた。今まさに失礼を働いている自覚はなかった。
「あ……わ、私は、そのような態度をとったつもりはございません!」
まったくない! かけらもない! 今まではもちろん、金輪際、未来永劫致しません! という勢いで噛み付くように否定すると、殿下はきょとんとあどけない顔をした。
「そうなのか? ……そうか、なら本当によかった」
またこれだ。
……なんだ、あたし、なんだよ過去のあたしよ! どういうことだ、どうしてあたしはこの神がかり的な善人を不安にさせてるんだ!
でも理由がわからん! めっきりわからんぞ!
「申し訳ありせんでした……」
とりあえず謝っておく。しかしこのとりあえず、は処世術的なあれではない。誤解を生むような態度をとったあたしを、ただただ詫びたいという一心である。
「いい。……それより、贈り物は喜んでもらえたと思っていいんだろうか」
「もちろん! あっ、それで、」
一旦脇に置いておいた疑問を、再度殿下にぶつけるのだ。
「殿下は人の心が読めるのですか…!」
「読めない」
即答された。
「じゃあ、どうして……あの絵本をくださったのですか。申し上げたことはないはずです」
そうだ!
心を読めないなら、どうして、なんだって、
『ウロコ持つものと水瓶の世界』
なんてベストチョイスができるのだ……!
読心術だ! 伝説の使い手だ! すごい! 王族ぱない!
とあたしが盛り上がるのも無理はないであろう。
「ああ、それで『魔法使い』か」
殿下は得心した、と頷いた。
「以前本を貸したことがあるだろう? 創世記だったか、あれの水瓶の項を熱心に見ていたから、好きなんだろうと踏んだんだ」
確かに読んだ。子ども向けのお話を好むあたしのために、殿下はわざわざ取り寄せたり、彼自身の蔵書からいくつか持ち出してくれたのだ。
創世記、あれは素晴らしい本だ。子ども向けといって侮るなかれ、さすが王子様御用達。平易な言葉で綴りながら、他にはない視点で語られるその物語は、あたしの心を鷲掴みにした。
と、あたしは自分の記憶と向き合って、殿下の言葉に首をもたげる。
「でも、水瓶の頁には、蛇しかのっていなかったはずです。竜はもっと後期の章の扱いでした」
「……よく覚えてるな」
殿下はあたしの過度にまっすぐな視線から目をそらし、ポツリと答えた。
「その、蛇が好きなら、竜も気に入ると思ったんだ」
やっぱり読まれてる! と内心で歓喜の雄たけびをあげるあたしに、殿下は駄目押しの一言をくれた。
「私も、竜は好きだから」
あたしはその時、確かに見た。
殿下の背景に、桜の花びらが舞うのを。
この世の春か。




