16あたしの里帰り
氷を入れた赤花茶。その冷たさと花の蜜の甘さが、カラカラの喉と、汗をかいた体にしみるようだ。
あたしは弟と、ルトビイおじさまと、飲み物を渡してくれたお母様に見つめられながら、居間のソファに沈むように腰掛けている。
「姉様、一体何があったの?」
「んん……言いにくいことなら、無理にとは言わないが……」
あたしの隣にくっついたマクジーンを制するように声を出しながら、半ば身を乗り出すようなおじさまに、つい笑いが漏れた。それに続くように、おじさまの隣に座る女性――ロアーサ・シンクレイ、すなわちあたしの実母が、青い瞳を細めて微笑んだ。
「リコ――おっしゃい」
「……ロアーサ、あまり強引には」
「おっしゃい。リコ、何があったのですか。お母様に、訳を聞かせてちょうだい」
微笑みを浮かべた表情はそのままに、有無を言わさぬ口調でただすロアーサ――お母様に、おじさまは弱い。そんなことだから、不倫の噂なんてものが立つのだ。もうちょっと強気になってほしいものだ。
「……何もありません」
「そんなに目を腫らして、マクジーンにはりついて、何もないわけがないでしょう」
「はりついていたのはマクジーンですわ、お母様」
「嘘ね」
「本当です。会うなり飛びついて来たのです」
「そんなことはどうだっていいのよ。わかっているでしょう? お母様はずっとあなたを心配していたのよ。お母様だけではありません。ルトビイおじさまも、マクジーンも、あなたからの便りを心待ちにしていたのです」
「……ベリダ兄様にはきちんとお出ししていました」
「季節に一度きりのお手紙しかないと、ベリダッドは言っていましたよ」
「十分ですわ」
「全く不十分よ」
お母様は全く表情を変えない。依然優しい顔をしたままで、あたしを追い詰めるように言葉を繰り出すのだ。温厚が売りのあたしも、つい応酬に付き合ってしまう。
お母様はふうと小さく息を吐くと、立ち上がってあたしの横にしゃがみこむ。上目遣いに覗き込む。この癖はマクジーンにも受け継がれていて、された方はつい今までのやり取りも忘れて鷹揚になってしまう。そんな卑怯な技なのだ。
「リコ、思ったよりも元気そうで、母はほんの少しだけ安心しました」
「ほんの少し」を強調して、あたしの肩に触れ、頬にキスをする。
「しっかりと休みなさい。箱入りのあなたが一年も外で他人と生活を送ったのですから、気がつかなくとも疲れが溜まっているはずよ」
「……はい、お母様」
その返事に満足して、お母様はあたしの体を抱きしめる。いい匂いがする。懐かしい匂い。
懐かしんでいるのは、あたし? それともリコリベージの体?
そんなことを一瞬だけ考えたけれど、泣き疲れた頭では続かない。ただその温もりに包まれてホッとしていた。
「そういえば、ベリダッドが来ているよ」
昼食にはまだ早い時間ということで、あたしは自室で着替えたあと、居間に戻ってマクジーンにじゃれつかれていたのだが、不意にそんなことをいうものだから思わず顔を上げてしまう。濡れ布で目を冷やしてくれていた侍女がびくりと震えた。
「ああ、ごめんなさい」
「いいえ、お嬢様」
そう侍女は微笑み、目を閉じたあたしのまぶたを再度白い布が覆う。隣のマクジーンはくすくすと笑い声を立てている。
「残念、姉様、その顔じゃ会えないね」
「……そうね」
「ベリダッドに会いたくないの?」
「どうせおじさまが呼びつけたんでしょう」
「それは、向こうから進んで会いに来てほしかったということ?」
そう聞こえただろうか。
「そうかもしれないわね」
深く考えずに答えると、マクジーンは「…ふうん」と含みのある声音であたしから離れた。
「マクジーン?」
「姉様、ここでサリューと待っていて」
「どこへいくの?」
思わず尋ねていた。マクジーンは優しい声を出す。
「すぐに帰ってくるよ」
「……わかったわ」
右隣の空間に手を触れようとしてやめる。人肌の残った布地は、余計にあたしを孤独にするだろう。
「サリュー」
「はい、お嬢様」
「私、おかしいかしら」
「そのようなことはございません」
「そう……」
侍女の声がむき出しの心を優しく包む。彼女の存在もまた、あたしのさみしさを補うものだった。
「少しお休みくださいませ」
「うん。……そばにいてね、サリュー」
そんなことを言ったのは初めてだった。けれど彼女は驚くことなく、あたしの言葉を受け入れる。
ひょっとしたら、あたしは間違えていたのだろうか。
そんな考えが頭をかすめるけれど、すでに意識は眠りのなかに落ちて行った。
誰かの気配を感じて目を覚ます。気づくとベッドに横になっていた。胸の上の石を、あたしは握りしめていた。
「おはよう。もう夕方だけどね」
そんな風に冗談めかして、マクジーンは椅子の上で微笑んでいた。
ノックの音がして、「お待たせ致しました」とサリューが部屋に入ってくる。上体を起こしたあたしを認めると、すぐに近寄ってきて、握りしめたあたしの手を見つめると、少し不思議そうに首をかしげた。
「どうかした?」
「……いいえ、お嬢様。甘いお飲物はいかがですか」
湯気をあげるものと、氷を浮かべたものと、選べるように用意された盆。
あたしは彼女の気遣いをありがたく受け取ると、熱と共に立ち昇る香りを吸い込んで息をつく。おそらくこの指示を与えたであろう、弟に声をかけた。
「マクジーンも、待たせてごめんなさい」
「平気。でも、姉様、僕よりベリダッドに会いたかったんじゃない?」
「マクジーン……」
「ごめんね。久しぶりだから、ちょっと意地悪がしたくなったんだ」
その表情に陰があるように思えて、あたしはじっとその顔を見た。マクジーンは首を傾げる。「なんでもないわ」とあたしは甘いお茶を啜った。
色々あるのだろう。踏み込まれたくないかもしれない。あどけなく振舞っていても、子供のままでいられるわけではないのだから。
そう、弟は気遣いを覚えている。昔から人を見るのが得意な子だった。
あたしひとりが、立ち止まっているのかな。
「姉様は、僕に頼るのは、嫌?」
「心配をかけてしまったと、反省しているわ」
「……そう」
逃げを打った返答を、この弟は気に入らないだろう、と思ったが、意に反してにっこりと笑ってみせた。
「誰に言われなくとも、僕はきっと決めていたよ」
「?」
「食事が取れそうなら運ばせるよ。サリュー、あとはお願い」
「かしこまりました。マクジーン様」
マクジーンの去った扉を静かに閉じながら、サリューは何か思うように瞳を中空へ泳がせた。あたしが生きた分、この侍女も時を重ねている。その表情の理由は全く読めないが、見つめるあたしに気づくと、ほっと息をついて「お帰りをお待ちしておりました」と微笑んだ。
あたしは軽く食べて、その日は懐かしい部屋の中で眠った。たったの一年、とは思えなかった。とても長い間、あたしはこの家から離れていたような気がする。怖いくらいに居心地がよくて、特別うまくやってはいなかったけれど、あたしの根っこはここにあるんだ、と思い知る。
おかしな時間に寝ついたせいか、あたしは深夜に目を覚ました。
この時間帯ともなればさすがに冷えた。あたしは肩掛けを直して、蔦の絡む木戸を押し開ける。そのまま母屋の壁に沿って小道を歩くと、絹菱蘭を水面に浮かべた池に出くわす。西の庭園である。月明かりの下、赤い魚がちらちらと菱の間を泳ぐのを見下ろしていると、後ろから声がかかった。
「何をしている」
「……兄様」
振り向いたあたしは若草色の瞳に出会う。その若者は、いつかのあたしが見れば興奮してサインを求めて飛びつきそうな、そんな容姿を惜しげなくこの世界に顕していた。
月光のせいか、その黒髪はつやめかしく、瞳は優しく向けられるように思える。
「目が覚めてしまったので、夜の散歩です」
「そうか」
憧れの青年は、言葉少なにあたしの横に並ぶ。
あたしだって曲がりなりにも金髪碧眼で、貴族の娘だ。物語の若者と姫君が、こんな風に並んで月明りの下に立つシーン、なかったっけ? きっとあったんじゃないかな。
くすぐったい気持ちに笑みを作って、隣の若者を見上げる。お互いの肩が触れるような距離で、彼は目を合わせる。こんな風に見下ろされて、お姫様はどんな風に思ったんだろう。きっと悪くなかった。それは保証できる。
ーーでもあたしは、きっとあなたになりたかったんだ。
勇敢で、何にも負けない。そんな人に。
「ここにいたいのなら、いればいい」
あたしは驚いて、気遣う色をのせた瞳に向かって笑いかけた。
「……ありがとうございます。ベリダ兄様は心配性ね」
そんな風に優しい言葉を貰っては、本当にそうしたくなってしまう。
あたしの感謝を、兄様はどこか後ろめたそうに受け取る。
「気はつかわなくていい」
何かあったら相談しろ、ということだろう。
本当に優しい人。
「兄様こそ、何かあったら教えてくださいね」と、あたしはあたしなりの勇気を奮って伝えた。誰かに頼られるような強さを、今だけ模倣したかった。
彼は頷いてくれたけれど、その瞳は憂いをはらむように見えた。




