11あたしと王子様
壊れてもいいかなと、思った。
ううん、期待した。
リコリベージの殻が壊れて、律子が生まれてくれないかって。
新しい環境で、お母様もおじさまも侍女も、あたしの狭い世界の住人が誰もいないところでなら、あたしは律子を解禁して、望むままの自分をさらして生きていけるんじゃないかって。
で、
結論的には叶わなかったわけですよ。
だっておかしいでしょ、リコが「ちょーお腹減ったんだけど。マジ早く終わらないかな」って授業中に机にもたれかかったり、暑いからってスカートバサバサしたり、暇だからって教科書の偉人の髪を消しゴムで消したり、新商品のお菓子(不味い)を美味しいって言い張って友達に食べさせたりしたら、変でしょ。
リコは律子じゃないんだから。
そう、あたしの育てたはずのリコリベージは、困ったことにお嬢様なのだ。見た目も金髪碧眼だし、病弱だし、色白だし細いし、フリルの付いたドレスとかが普通に似合う、ほっとけない系の女の子だし。間違ってもテスト前だけ徹夜するような女子高生じゃない。
しかし確かにあたしはリコリベージなんである。ややこしいね。
つまりね、生まれてこのかた猫をかぶりつづけたせいで、もう脱げない。どころか、今の振る舞いが定着して、もう本音の出し方がわからないのよ。
だから律子はもう、リコリベージの心の中にしかいないのだ。
そう、この桜の石の中にしか。
……。
やだ、あたし、ヤバイ人みたい。
ともかく、とあたしは机に向かう。今日出された課題を片付けてしまおう。提出は休み明けだけど、早く終わらせればそれだけゆとりがある。
あたしはノートにペンを走らせながら笑った。
……誰だこれ。
舞踏会の夜が明けて、翌日。週末なのでお休み。
月火水木金土日、ではなくイチニサンシゴロクナナ、の日である。
十二の月も週もそのまま数字で、たとえば今日は四月一週六日。六、七の日は授業はなく、生徒は町へ出るのも自習するのも、一日寝て過ごすのも自由だ。
ちなみに曜日や月の名前には、地方によっていろいろ呼び方があるんだけど、みんなが自由に言うとわかりにくいから、スコラにおいてはシンプルで間違いのないものに統一されている。
さて、休日は寮が賑やかなのが常だけど、今日は特別女子が騒がしい。
男子寮は当前だが別れている。建物自体は繋がっているけど、通路の鍵は施錠されている。見たことはないけど、扉が何枚か間にあるそうだ。
男女交際禁止、とかはないそうだけど、妊娠したりさせたりしたら、休学することになる。即退学、とかにはならないのが甘いよね。
さて、騒ぎの原因は、どうやら昨日の王子様らしい。あの人、スコラジルバに編入するんだって。マジかよ。
寮の中には食堂もある。たいていの生徒はここで朝夕の食事をとっていた。昼は本校舎の食堂があるので、わざわざ帰ってきて食べる人は少ない。ちなみに黒玉はあまり食堂を利用しないらしい。なんかわかる気がする。
寮の真ん中の塔。その一階が食堂である。真ん中には庭があって、そこで食べるのも可。
さてそこへ行くには短い間とはいえ、お日様の下を歩く必要があったので、あたしは帽子を被って、朝食を求めて向かう他の生徒に混じった。
サラダのレタスをよく噛んでいた時だった。食堂内が突然色めきだつ。平たくいうと、キャー! 殿下よ! 王子様ァ! というテンションでいっぱいになった。みんな育ちがいいから駆け寄ったりはしないけど、その場でザワザワと、テラスで教師と連れ立って歩く姿に注目している。どうやら案内されているようだね。
「赤実に入るのかなあ」
「違うって、とりあえずどっちも紹介しとくんだよ。角が立たないように」
「えー……でもさ、ひょっとするかもよ。王子様がこっちがいいっておっしゃるかもしれないし!」
「そんなことあるわけ……あ、あったらどうしよう!」
きゃあきゃあと、近くで盛り上がる女子二人。
あたしは口の中身をごくんと飲み込んだ。
う、羨ましくなんてないんだからね!
あの王子様、ベリダ兄様に突っかかってきてたから、印象よくないんだよね。
……何があったんだろ。
あたしがぼっちでパンをちぎりながら考えていると、アリシオが声をかけてきた。
「おはよう、今朝もぶれないわね」
あたしもおはようと返し、向かいの椅子を勧めた。彼女がテーブルに朝食を置くのを待って話しかける。
「殿下のことなら、みんなが話しているから知っているわ」
「その殿下がすぐそこにいるっていうのに、パンの方が大事って顔をしていたんだもの」
まあね、と切り分けたソーセージを口にしながらアリシオは続ける。
「あなたの目の前までいらっしゃって、名前までお尋ねになったというから、今更遠くからのぞき見る必要なんてないというのはよくわかるけど」
「もう……それよりアリシオさんはどうなったの? まだあなたの成果は聞いていないわ」
「あら、なんのこと?」
白を切る彼女を前に、あたしはもったいぶってスープを口にした。
「上級生や大人の方と踊るアリシオさんはとても綺麗だったもの」
見るたびに違う人とダンスしていた。もう、引く手数多だったのだよ、この人は。
アリシオはふう、とため息をつく。
「それがねえ……どうも子供扱いというか、向こうが落ち着き払いすぎというか。女性として見られてはいなかったわよ」
まあ十四歳の女の子相手にマジでそんな態度取ったら変態だからね。
「そういうことにしておきましょう」
「本当だからねー」
アリシオは今日は友人と買い物に出かけるとのことで、少し急いで朝食を終えると、王子様がいなくなってもまだ賑やかな人波を縫って、支度のために部屋へ帰って行った。
こんな感じで、あたしとアリシオの関係はしごく良好だ。
うむ。
アリシオと別れ、あたしは暇だった。ゆっくりと朝食をすませ、意味もなく他の生徒がはけたあとのテラスに行ってみたりしたけど、眩しいし、周りは二人組かそれ以上が多くて落ち着かなかった。
別に凹んでたとかじゃない。
繰り返す。あたしは別に、凹んでたとかじゃなくて、ただ暇を持て余して、塔の二階の小さな書斎にこもったのだ。外国の古い絵本とか、かびた地図とか、 No.が歯抜けの辞書とかがごちゃごちゃ詰め込まれた空間で、誰でも入れるけど利用者は少ない。というかあたしは誰かに遭遇したことはない。
べ、別に孤独感に苛まれて一人になれる場所を探してたらたまたま見つけたとかじゃないんだからね!
書斎というか、あたしはそう呼んでるけど、椅子と机がいくつか並べられてるだけの資料室兼物置、という感じかな。
あたしは一番奥の席に座ると、棚の横に積まれた一番上の雑誌を手に取る。外国語の子ども向け情報誌だ。表紙には翼を生やしたトカゲの絵が、デフォルメして描かれている。
りゅう。
「はあ……」
あたしはそれを適当に開くと、そのままの姿勢でため息を落とす。
今日はここでぼんやり過ごそう……。
居眠りしていたらしいと気づいたのは、がたんと体が揺れて、椅子の足を蹴飛ばした時だ。
「寝てたー……」
腕の下に敷いていた雑誌をとじて、元のように返しておく。
あたしがここに入り浸るのは、竜について書かれたものが多いからというのもある。
未練がましいけど、こういう空間って、なんかホッとしてしまうんだよね。
さて、塔を出て日差しに目を細めたあたしは、食堂に帽子を忘れたことに気づいた。
取りに戻ると、食堂には誰もいなかった。
職員もちょうど休憩中なのだろうか。完全に不在にしていいのかよ、とかちょっと思いつつも、カウンターを横切る。
あたしの座っていた席には、帽子はなかった。
とすると、テラスかあ。
開放されたままの出口に違和感を覚えながらも、外へ出る。
赤や茶色のタイルがはめ込まれたざらつく床は、やっぱりちょっと落ち着かない。
早く見つけてしまおう。
と、思ったのだが。
あれ、どこに置いたっけ。
首を捻る。庇はあるものの、今はあまり役目をなさない時間帯だった。手で光をさえぎりながら、きょろきょろとする。
「これは君のものか」
声のした方を見るが、やはり眩しくてあたしは目をすがめる。
こちらの様子に気づいたのか、その人は日陰へあたしを促した。
そこで気づく。
金髪に碧眼。
向こうは驚いていなかった。逆光に目をやられていたのはあたしだけだったのだ。
「探していたのではないのか」
怪訝にされ、あたしはすぐに取り繕った。
「ええ、助かりました。ありがとうございます」
どんな態度がふさわしいのかあたしにはわからない。偉い人。王様の子ども。殿下。兄様と、あんまり仲のよくない人。
あたしの内心の錯綜は当然知らずに
「そうか」
とだけ彼は言って、帽子を差し出した。あたしは両手で受け取ると、またお礼を口にする。
ところで王子様、一人なのだろうか。従者とか、なし?
そう思ったのだが、質問は先を越された。
「一人か」
「ええ」
「今日は暑くなるから、気をつけるといい」
「ええ、ありがとうございます」
あれ、なんか良い人?
あたしは頭を下げて、そのままがくんと視界が揺らぐのを感じた。
え?
「っおい!」
ええ、と返事をしようとしたのだが、息が詰まって返せない。あたしの体は腰で二つに折れて、それを支える手がぎゅっとしめつけていたからだ。く、苦しい。
王子様は近くの椅子にあたしを座らせると、ため息をついて見下ろした。
「言った先から……顔色が悪いと思ったんだ。具合が悪いなら一人で出歩くな」
「は、っはい。すみません」
思わず素で返事が出た。そのことに気づく様子もなく、やれやれと首を振っている。
「まったく……人を呼ぶから送らせろ」
あたしは慌てて首を横に振り、丁重にお断りする。少し休んでいけば平気だと訴えたのだが、ますます顔をしかめられてしまう。
「いいから、ここで待っていろ」
王子様はあたしに速やかに帽子を被るように指示すると、本当に行ってしまった。言われた通りにして待っていると、すぐに慌てた顔で食堂の職員が飲み物を持ってきてくれる。氷入りのグラスを受け取り、お礼を言うと、恐縮しきった職員はすぐに引っ込んでしまった。
その様子にため息を重ねながら、王子様はあたしの正面の椅子に腰掛ける。あたしがグラスを空にするのを、視線を外して待っていた。
「……少しは、落ち着いたか?」
「ええ。お手を煩わせてしまって、申し訳ありません」
「そうか。なら、送ろう」
「え?」
あたしの返事を待たずに彼は立ち上がると、手を貸してくれた。有無を言わさぬ姿勢に戸惑いながらも従うと、しっかりと握って引き上げられる。
「案内してくれ」
「あの、殿下、お忙しいのでは」
「そうだ。だから、早くしてくれると助かる」
彼はあたしの手を引いて、道を聞きながら先導し、結局寮の前まで送ってくれた。
その間集まる人の目は、完全に無視しながら。
よくものをなくします




