10あたしと舞踏会2
そのままお互い静かにしていたけれど、ふと目線の先に、檀上から降りてくる人影を見つけた。特別紹介があるわけではないけれど、周囲で上がる黄色い声とどよめきに、あたしはピンときた。
「兄様、あれが王子様?」
「ああ」
「そう……」
王子様はすぐ人に紛れて見えなくなった。そのうち弦楽器の音が陽気な音楽を奏で始める。ふわっと空気が変わり、男女が連れ立って舞台へ出ていく。
「兄様、お手紙をありがとうございました」
「ああ」
「母様もマクジーンも、元気にしていますか」
「ああ」
「……兄様、私と踊ってくださる?」
「ああ」
「冗談です」
「……」
兄様はちら、とあたしを見下ろして、また視線を外した。その先には、音楽に合わせて寄り添う人たち。
ベリダ兄様の隣は、なんだか癒される。
このままぼんやりと、ずっとここにいられたらなあ、なんて考えていた時だった。
にわかに人垣がざわめいて、目の前で割れた。
金髪に、碧眼。兄様よりも顔だちは幼いのに、どこか張りつめた空気をまとって、その表情は大人びている。金糸で鮮やかに彩られた白い正装が、彼の潔癖な雰囲気をさらに硬く見せていた。
王子様が、目の前にいた。
「ベリダッド」
王子様は口を開くなり、兄様を呼び付ける。
兄様もさすがに驚いて……いるのかな、「は」とだけ返事ともつかない返事をして、壁から身を起こし、わずかに目を伏せて会釈らしい動作をするけれど、そのテンポはいつもと変わらずゆったりとマイペースで、横で見守るあたしの方がハラハラした。兄様、といつの間にか呟いてしまったあたしの方を見て、「なんだ」と目を細める始末だ。まずいって兄様、いくら引きこもりのあたしでも、王子様をスルーしてその辺の小娘を優先するような態度が不敬なのはわかる。けれどどうしていいやら、流れ的に当然こちらに視線を向ける王子様と目があって、あたしはなんとか頭を下げた。
「……変わらないな、お前は」
それは笑い声だった。
「顔をあげてくれ。君の名は?」
慌てて名乗ると、王子様はあたしの家名を繰り返しつぶやいて、兄様をちらりと見た。
「そういうことか。本当に、変わらない」
冷たい目だ。隠そうともしない、悪意、軽蔑、そんな類の意思を視線に宿して、「じゃましたな」と王子様は去って行った。その取り巻きも、こちらを気にしつつも、彼の後を追いかけて行ったし、周囲で何事かと見守る人たちも、兄様の独特の雰囲気に気圧されてか、声をかけてくることもなかった。潜めた声で感想を漏らしながら、しだいにそれぞれの時間に帰っていく。
先ほどまでとキャストは同じなのに、確実に変化を帯びてしまった空間に、あたしは寂しさを感じていた。王子様の態度は疑問の種だけれど、それよりも、隣にいる彼の今の様子が気にかかる。何を考えているのかわからない目は同じなのに、あたしの気持ちと同じく、何か必要なものを欠落させたような、今でないどこかを振りかえるような、そんな――
「……どうした」
「え?」
兄様はごくごく珍しい顔を見せた。虚を突かれたように瞬きし、あたしを見下ろす。すぐに落ち着きを取り戻してしまうけれど、確かにその変化はあたしの胸に焼きついた。それで、反応が遅れた。
兄様の一瞥の先を追いかけて、あたしは見つける。兄様のシャツの裾を握る、自分の手を。
「あ、……や、えっと、あの、ああ……」
言いながら、おずおずとつかんだものを離す。我ながら名残惜しむような動作に見えて、顔に血がのぼる。ふっと、頭上で息が落ちる音がした。
「あ」
顔をあげて、思わず素で声が出た。
――微笑んでいた。口角をあげて、目を細くして。柔らかい視線を、こちらへ向けている。
兄様がワラッター!!
「ににに、にいさま?」
「すまなかった。ありがとう」
兄様がシャベッター!!!
あたし呆然。だけど、顔どころか耳まで熱くなる。落ち着けあたし、なんだっていうの。
「い、え、はい」
とぎこちなくしか返せないあたしをこんな時ばかりじっと見つめる。やめてほんと、ベリダッド、兄様、何!?
「君もそんな顔をするんだな」
だから何なの!?
そしてあたしの舞踏会が終わる。上級生は夜遅くまで楽しむらしいけれど、低学年のあたしたちは早めに寮に返される。スコラジルバは結構真面目なんだね。
ベリダ兄様はあれきり言葉らしい言葉を発さなかったし、相好を崩すこともなかったけど、終始柔らかい雰囲気で、そしてあたしの妄想かもしれないが、なんとなく名残惜しそうにしながら帰って行った。それでも寮の前まで送ってくれた。兄様の後姿が消えるまで、門の内側から眺めていたあたしに、我慢しきれない様子で声をかけてきたのはアリシオだった。他の生徒も遠巻きながら、こちらへ視線をよこしてきている。
「ちょっと、どういうこと!?」
怖い、アリシオさん。
あれから兄様と王子様のことで質問攻めにされ、あたしはぐったりだった。部屋に戻れたのは門限を大きく過ぎて、月が山深く沈む頃合い。
それにしてもあの王子、どういう関係なんだろう。雰囲気的に兄様には聞けなかったし。
……そもそもこんな他人のこと、気にしたことなかったし。
ああ、奇声をあげてベッドでバタバタしたい気分。
アリシオの馬は栗毛のメスだ。
あたしは時々、彼女について厩舎へ行く。といってもお世話を手伝ったことはない。一度申し出たけれど、自分の仕事だって、やんわりお断りされた。だから彼女が掃除やらなんやらしている間、あたしは木陰に座り込んで、持参のお茶を一口ずつ飲んでいる。アリシオは時々あたしの様子を見に来てくれた。あたし、こう見えて病弱だからね。てゆうか、軟弱?
……。
アリシオの愛馬レディトーンは、間近で見ると怖いけど、走る様子は超カッコいい。
その背中に乗るアリシオも、もちろん。
羨ましいな、とあたしは彼女たちを眩しく見ていた。
だけどあたしはきっと、違うのだ。あたしが乗りたいのは……
――やめよう。
あたしは木陰で休む自分の身体を見下ろした。その時だ。
「見苦しいこと」
声が降ってくる。
卑しい心を読まれたようで、その硬質な響きが刺さった。あたしは顔をあげて、その少女を認める。豪奢な日傘を侍従に持たせ、自身は小ぶりな扇ひとつその手にして、馬上の人に蔑む視線を送っている。銀髪の、黒衣の少女。遠目に見たことはあった。名前は知らないけど、一年生の頃からいつも取り巻きに囲まれている、同学年の黒玉では中心人物だった。
アリシオは敵意に気づくと、すぐにレディを繋ぐと、早足にやってくる。
そんな様子に彼女は、あたしをちらと見て、にっこりと笑った。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう……」
「ドロシーベル、こんなところまで何の御用?」
息ひとつ切らせずに、アリシオは冷ややかな声を出す。
ドロシーベル。
そういえば、そんな名前、聞いたことがあるような気がする。なんにせよ、赤実のアリシオを敵視しているのは確かで、この状況は実に穏やかではない。
「ごきげんよう、アリシオさん。あまり近くに来ないでくださいな。臭いが移るわ」
ギャーーーーー!!
あたしは内心悲鳴をあげた。怖くてアリシオの顔が見られない。
思わず身じろぎ、つば広の帽子を脱ぐと、三つ編みにしていた髪が落ちてくる。とたん、ドロシーベルが目を見張って、あたしをまじまじと見下ろした。彼女は「まあ」と扇を口に当て、すぐにドレスのすそを掴んで会釈した。
「お初にお目にかかります。ドロシーベル・ジニアンと申しますわ」
あたしは立ち上がろうとするけれど、やんわりと制されて、座ったままの姿勢でお辞儀する。
「リコリベージ・シンクレイです」
「存じ上げておりますわ」
と返事。黒玉に知り合いなどいないはずだ。首をかしげると、ころころと笑われた。
「ふふ、お身体はよろしいんですの?」
「ええ、今日は気分がいいんです」
あなたがくるまでは、と内心付け加える。
「それはようございますわね」
と、別人かと思うほど穏やかにドロシーは会話し、アリシオをもう見ることなく去って行った。
あたしはめちゃくちゃビビりながら、傍らに立ったままのアリシオを見上げる。ドロシーベルとその侍従の背中に、チッと舌打ちしている。
あああ怒ってる怒ってるうううう!
そのままの顔でちらりとこちらを見下ろしてくるので、思わず笑顔が崩れそうになった。
「あのドロシーが骨抜き」
「……ええと」
「なんでもないわ」
彼女は首を振る。高い位置で結んだ銅の髪が揺れた。馬の尾のようだと思う。感情が分かりやすくて、まっすぐなアリシオ。
あたしがお茶を勧めると、少し考えて、隣に腰を下ろした。お互い先ほどの出来事には触れない。
あたしは伸びをした。ほんとう、今日は良い天気だ。
リコリベージの体が弱いというのもあながち嘘じゃない。最近は体が重いことが増えた。胸の石もあたしの気持ちに反比例して輝きをなくす気すらした。
黒玉も赤実も、あたしには関係のないことだ。
アリシオがふと寄こすもの言いたげな視線も、気づかないふりをする。あたしは鈍いお嬢様。それでいいじゃないか。
胸の重さからも目をそらし、春の甘い空気を吸い込んだ。




