ブラック企業を辞めた三十歳の聖女は、異世界で週休三日で幸せな第二の人生を始めました!
第一話 ブラック企業を辞めたら、異世界で週休三日の聖女になりました
「……え?」
コンビニで買ったプリンの袋をぶら下げ、夜道を歩いていた佐藤愛、三十歳。
残業帰りの疲れた身体で、「今日はプリンだけが楽しみ……」なんて思っていた、その瞬間だった。
足元に白銀の魔法陣が広がる。
「え、ちょっと!?」
眩い光が全身を包み込み――。
気づけば、豪華な大理石の神殿に立っていた。
目の前には王冠をかぶった壮年の男性。
その隣には豪華な法衣をまとった老人。
そして、何十人もの騎士や神官たちが、一斉にひざまずいた。
「ようこそ、お待ちしておりました」
「……はい?」
状況が理解できない。
いや、理解したくない。
神官長が満面の笑みで宣言する。
「あなたこそ、この世界を救う聖女様です!」
「…………」
愛は静かに右手を挙げた。
「人違いです」
神殿中が静まり返る。
「え?」
「聖女って、高校生とか十六歳くらいの女の子じゃないんですか? 私は三十歳なんですけど」
騎士たちがざわついた。
「三十……?」
「まさか……」
「聖女が三十歳……?」
愛は腕を組む。
「異世界ものって、学生さんが定番ですよね? 私、会社帰りなんですけど」
袋からプリンを取り出して見せる。
「これ、今日の夜食です」
神官長は困ったように咳払いした。
「その……年齢は関係ありません」
「え?」
「聖女とは、聖属性魔力を持つ者のことです。若い必要はありません」
「そうなんですか?」
「はい。国を覆う瘴気を浄化していただければ、それで十分です」
愛は少し考えた。
「じゃあ、お断りします」
「なっ!?」
王様まで立ち上がった。
「理由を聞いても?」
「知らない世界で、いきなり『国を救ってください』なんて言われても困ります」
それが普通だ。
ブラック企業でも、こんな無茶振りはされなかった……いや、されたかもしれない。
「元の世界へ帰してください」
その一言に、神殿の空気が重くなる。
神官長は申し訳なさそうに頭を下げた。
「……申し訳ありません。帰せません」
やっぱり。
愛は心の中でため息をついた。
(まあ、そうだよね)
異世界召喚で、簡単に帰れる話なんて聞いたことがない。
「方法は?」
「現在は存在しません」
「未来は?」
「見つかるかもしれません」
「つまり、わからないのですね」
神官長は黙ってうなずいた。
愛は天井を見上げる。
(まあ、そうなるよね)
不思議と涙は出なかった。
日本に未練がないわけではない。
けれど。
両親は数年前に他界した。
恋人もいない。
毎朝の通勤ラッシュ。そして、サービス残業からの終電。
休日も出勤。
「お疲れさま」より「この仕事もお願いします」の方が多い職場。
そんな毎日だった。
(帰っても……待っているのは仕事だけか)
そう考えると、少しだけ肩の力が抜けた。
「分かりました」
王様が顔を上げる。
「引き受けてくださるのですか!?」
「はい」
神殿中が歓声に包まれる。
しかし、愛は続けた。
「ただし、条件があります」
「条件?」
愛は営業時代に培った笑顔を浮かべた。
「労働条件を確認させてください」
「……ろうどう?」
王様たちは顔を見合わせる。
「勤務時間。休日。食事。住居。有給。福利厚生全般」
誰一人として意味が分かっていなかった。
「……え?」
愛は深く息を吸う。
「私はもう、ブラック企業で働く気はありません。
なので、異世界ではのんびり過ごします」
◇
それから五日後。
愛は聖女として修行を続けていた。
神官が叫ぶ。
「愛様! もっと魔力を鍛えなければ! 歴代の聖女さまは……」
「はいはい」
「あと百回! 歴代の聖女様はもっと……」
「今日は終わりです」
「え? 歴代の聖女様は……」
「定時なので上がります」
神官たちが固まる。
「いや、聖女に定時は……歴代の聖女様は……」
「私、歴代の聖女とかどうでもいいので、定時で帰ります」
きっぱり言い切る。
「残業は緊急の時のみです。あと手当付けてくださいね」
「…………」
「休日出勤は、当然ですが代休をもらいます。あと有休も年五十日ぐらい」
「ま、まさか、週休二日も希望されるとか? 歴代の聖女様は休みはなかったですよ」
愛は首を横に振って、にっこりと笑う。
「いいえ、週休三日を希望します」
神殿中が悲鳴に包まれた。
「そんなぁぁぁっ!? 歴代の聖女様は朝から夜遅くまで働いたのに……」
しかし、不思議なことに。
無理をしないスローペースな訓練は、愛の聖魔法と相性が良かった。
少しずつ、しかし着実に力を増していく。
休みの日は城下町を散歩し、美味しいお菓子を食べ、本を読み、温泉に入り、ゆっくり眠る。
心が満たされるたびに、聖なる魔力は穏やかに輝きを増していった。
そんな彼女を見て、ある若き騎士団長だけは気づいていた。
「……もしかして、聖女様に必要なのは根性ではなく、幸せなのでは?」
第二話 休日は、異世界カフェでひと休み
佐藤愛は、今日も神殿の訓練場で聖魔法の修行を終え、大きく伸びをした。
「ふぅ、お疲れさまでした」
「愛様! まだ魔力操作を二百回ほど――歴代の聖女様は千回は……」
「今日はおしまいです」
愛はにっこり笑う。
「定時ですから」
神官たちは一斉に頭を抱えた。
「聖女様ぁぁぁ……! 歴代の聖女様は、朝から夜遅くまで……」
「もっと頑張らないと、一流の聖女になるには――歴代の聖女様のように……」
「無理は禁物」
きっぱりと言い切る愛に、誰も反論できない。
「では、明日は休みなので、街へ行ってきます」
翌日、神官は一人の女性を呼んだ。
「リリア。案内を頼めるか」
「かしこまりました」
二十歳くらいの可愛らしい侍女が一歩前へ出る。
栗色の髪を肩まで伸ばし、柔らかな茶色の瞳をした女性だった。
「私、侍女のリリアと申します。本日はご案内させていただきます」
「よろしくお願いします」
二人は王城を出て城下町へ向かった。
石畳の道。
色とりどりの花が飾られた家々。
焼きたてパンの香り。
愛は思わず目を輝かせた。
「わぁ……可愛い街……」
「聖女様でも、こういうお店がお好きなんですね」
リリアは少し驚いたように尋ねる。
「もちろんです。大好きですよ」
愛は笑う。
最初に入ったのは、小さなパン屋だった。
「焼きたてですよー!」
店主の元気な声が響く。
ふわふわのミルクパンを一口食べた愛は、思わず目を丸くした。
「おいしい……!」
「どんな味ですか?」
「幸せの味です」
その一言に店主もリリアも笑い出した。
「聖女様って面白い方ですね」
「そうですか?」
「聖女様は不思議な方なのですね」
二人はまた笑う。
その後も花屋へ寄り、小さな雑貨店を覗き、おしゃれなカフェへ入った。
木のぬくもりが心地よい店内。
窓辺の席に座ると、花の香りが風に乗って流れてくる。
「この世界にもカフェがあるんですね」
「今、貴族の女性に人気なんですよ」
運ばれてきたのは、甘い果実のタルトと香り高い紅茶。
愛は一口食べるなり、幸せそうに目を細めた。
「これ……日本に持って帰りたいくらい美味しい」
「日本?」
「あっ、故郷です」
「きっと素敵な国なんですね」
愛は少しだけ遠くを見る。
「……そうね。でも、毎日仕事ばかりだったわ」
リリアは黙って話を聞いていた。
「休日なんて、疲れて寝て終わり。気づけばまた仕事の毎日」
「この世界よりも酷いのですね……」
「だから決めたの」
愛は紅茶を一口飲み、優しく笑う。
「この世界では、のんびり生きると。なので週休三日です」
その笑顔は、どこか眩しかった。
リリアは思わず呟く。
「週休三日……素敵ですね。この国は、週に六日働いて、一日休みます」
「あ、それは昔の日本と同じだね。学校も土曜日半日授業とかあったみたい」
愛は空を見上げて少しだけ考える。
「あ、そうだ、じゃあ、今度のお休みも一緒に街へ行かない?
私は休日で、あなたは、仕事として私の侍女役でどうかしら?」
「えっ?」
「美味しいものを食べて、おしゃべりして、本を読んで。のんびり仕事するのはどうかな?」
「……そ、それは素敵な提案です。ありがとうございます」
リリアの瞳が潤む。
その頃には、街の人たちも愛に気付き始めていた。
「あっ、聖女様!」
愛は照れ笑いを浮かべる。
「そんなにかしこまらなくても大丈夫ですよ」
子どもたちにはしゃがんで目線を合わせ、一人ひとりと話をする。
その優しい姿に、大人たちも自然と笑顔になる。
「聖女様って、もっと近寄りがたい方だと思っていました」
「普通の女性だったんですね」
愛は少し困ったように笑う。
「美味しい物と休日が好きなだけです」
街中が温かな笑いに包まれた。
そして、その帰り道だった。
「危ない!」
幼い男の子が、暴走した馬車の前へ飛び出してしまった。
愛は反射的に駆け出した。
だが、その瞬間。
黒い影が風のように駆け抜ける。
男の子を軽々と抱き上げ、馬車を避けた青年がいた。
長身で端正な顔立ち。
深い紺色の騎士服に身を包み、凛とした雰囲気をまとっている。
「大丈夫か?」
男の子は泣きながら頷いた。
青年は安心したように微笑み、今度は愛へ視線を向ける。
「聖女様、お怪我はありませんか?」
愛は息を整えながら微笑む。
「私は大丈夫です。それより、その子が無事でよかった」
「申し遅れました。私は王国騎士団長、エドワードと申します」
「佐藤愛です。よろしくお願いします」
二人は穏やかに微笑み合う。
まだ恋ではない。
けれど、運命は静かに動き始めていた。
エドワードと別れたあと、愛とリリアは再び街を歩いていた。
「ちょっと小腹が空いてきたわ」
「この近くにも、人気のカフェがあります」
リリアが穏やかに微笑む。
ふと、香ばしい匂いが風に乗って漂ってきた。
「あっ、あそこです!」
リリアが指差した先には、小さな木造のカフェがあった。
看板には『木漏れ日のティールーム』と書かれている。
店内へ入ると、優しい笑顔の女性が出迎えてくれた。
「いらっしゃいませ……あっ!」
二十代半ばほどの女性は目を丸くした。
「聖女様!?」
「こんにちは」
愛が笑顔で会釈すると、女性は慌てて頭を下げる。
「申し遅れました。私はこの店で働いております、ミアと申します」
「このお店のおすすめって何ですか?」
二人が席に座って、しばらくすると、
焼きたてのアップルパイと、香り豊かなハーブティーが運ばれてくる。
一口食べた愛は思わず両手で頬を押さえた。
「おいしい……!」
「ふふっ、喜んでいただけて光栄です」
ミアは嬉しそうに笑う。
その笑顔につられて、愛も自然と笑顔になった。
「また来ますね?」
「ありがとうございました!」
「今度はおすすめを制覇します」
「そんなに食べられます?」
「甘いものは別腹です」
三人は顔を見合わせて笑った。
――こんな穏やかな時間が、ずっと続けばいい。
愛はそう思った。
しかし、その願いは突然破られる。
カラン、と扉が激しく開いた。
「ミア!」
息を切らした青年が飛び込んでくる。
青ざめた顔で叫んだ。
「故郷のリーベ村が魔物の群れに襲われた!」
「え……?」
ミアの顔から血の気が引く。
「お父さんも、お母さんも、まだ村に……!」
震える声に、店内の空気が凍りついた。
愛は立ち上がる。
「騎士団は?」
「今、王城へ救援要請が向かっています」
ミアはその場に崩れ落ちた。
「お願い……誰か助けて……」
愛は静かに拳を握る。
(どうにかして、彼女の村を助けたい)
その想いが胸いっぱいに広がっていった。
――翌朝。
愛は王城へ向かうのだった。
第三話 聖女だからじゃない、大切な人を助けたい
王城の大会議室。
騎士団長エドワードをはじめ、多くの騎士たちが地図を囲んでいた。
「リーベ村周辺に大量の魔物が出現しています」
「村人は教会へ避難中ですが、長くは持ちません」
重苦しい空気が流れる。
その時、扉が開いた。
「私も行きます」
愛だった。
「聖女様!?」
神官長が慌てる。
「危険です! まだ実戦経験もありません!」
愛は首を横に振った。
「知っています。それでも、行かなければならないの」
「ですが!」
「助けられる命があるのなら、私は救いたい」
静かな声だった。
「美味しいお菓子を、次も笑顔でいただきたいの」
愛は神官長を真っ直ぐ見つめる。
「だから助けたいのです。力があるのなら」
その言葉に、誰も反論できなかった。
エドワードが一歩前へ出る。
「陛下」
王は静かに頷く。
「騎士団長、君の判断は?」
「命に代えても聖女様をお守りいたします」
その瞳には迷いがなかった。
愛は少し照れくさそうに笑う。
「死んじゃ駄目ですよ。一緒に帰りましょう」
エドワードは思わず息を呑む。
戦いの前に、こんなに場を和ませる人は初めてだった。
「……はい」
短い返事だった。
だが、その胸には温かな想いが芽生えていた。
やがて城門が開く。
白銀の鎧をまとった騎士たち。
先頭にはエドワード。
その隣には純白の法衣をまとった愛。
街の人々は祈るように二人を見送る。
「聖女様!」
「どうかご無事で!」
愛は馬上から笑顔で手を振った。
「行ってきます!」
その笑顔は、不安に震える人々の心に、小さな希望の灯をともしていた。
こうして、愛にとって初めての聖女としての仕事が始まるのだった。
第四話 初めての浄化――私が救いたいのは、人の笑顔です
リーベ村へ向かう街道を、騎士団は馬を走らせていた。
朝日に照らされた草原を駆け抜けながら、愛は初めて身につけた聖女の法衣を見下ろす。
「思っていたより揺れますね……」
慣れない乗馬に身体が左右へ揺れる。
「聖女様、大丈夫ですか?」
隣を走るエドワードが心配そうに声を掛けた。
「ええ、大丈夫」
そう答えたものの、次の瞬間。
「きゃっ!」
馬が小さな石につまずき、大きく身体が揺れた。
落ちる――。
そう思った瞬間、力強い腕が愛の身体を支えた。
「危ない」
エドワードが素早く馬を寄せ、愛の肩を支えていた。
「ありがとうございます」
「無理をなさらないでください」
「まだ乗馬は初心者ですから」
その優しい声に、愛は少し照れながら笑う。
「騎士団長さんって、優しいんですね」
「……優しいですか?」
「もっと怖い人かと」
「よく言われますね」
二人は思わず笑い合った。
その様子を見ていた副団長は、小さく口元を緩める。
(団長が笑った……?)
普段は戦場でしか笑わない男が、聖女と話している時だけ穏やかな表情を見せていた。
やがて村が見えてくる。
しかし、空気が重い。
黒い霧のような瘴気が村全体を覆い、木々は枯れ、畑は黒ずみ、家々には傷跡が残っていた。
「こんなに……」
愛は息を呑む。
多くの村人が教会へ避難していた。
泣き続ける子ども。
傷ついた騎士。
魔物に襲われた老人。
「聖女様!」
ミアが涙を浮かべて駆け寄ってきた。
「来てくださったんですね……!」
「もちろんです」
愛は優しく微笑む。
「約束しましたから」
ミアはその場で泣き崩れた。
「ありがとうございます……!」
愛は倒れている老人の前へしゃがみ込む。
「痛かったですね」
老人は苦しそうに頷く。
愛は教会で習った応急処置を思い出しながら傷を洗い、布を巻き、優しく治癒魔法を流し込んだ。
「――《ヒール》」
淡い光が傷口を包み、老人の苦しそうな表情が少しずつ和らいでいく。
「痛みが……消えた……」
周囲から驚きの声が上がる。
「ありがとう……聖女様……」
愛は微笑む。
「まだ無理をしないでね」
それからも、子どもの擦り傷を治し、泣いている母親に寄り添い、水を配り、不安そうな人へ笑顔を向けた。
誰一人として見捨てない。
その姿を見ていたエドワードは、胸の奥が熱くなるのを感じていた。
(この人は……戦うためではなく、人を笑顔にするために力を使うんだ。)
その時だった。
村の外れから、耳をつんざくような咆哮が響く。
「グオオオオオッ!」
巨大な黒狼の魔物が現れる。
「魔物だ!」
「子どもたちを守れ!」
騎士たちが剣を抜く。
エドワードも剣を構えた。
しかし黒狼の身体からは、濃密な瘴気が溢れ出している。
「まずい……」
神官長が青ざめる。
「あれだけの瘴気では、剣だけでは倒せません!」
愛は静かに前へ歩き出した。
「聖女様!」
「危険です!」
騎士たちの制止を背に、愛は深く息を吸う。
逃げ惑う村人たち。
泣き叫ぶ子ども。
その姿を見た愛は、そっと両手を胸の前で重ねた。
ここは、すべてを浄化するしかない。
「どうか……この人たちを守る力を貸して! エリアハイヒール」
柔らかな祈りが風に溶ける。
次の瞬間。
眩い金色の光が愛の身体から空へと広がり、村全体を優しく包み込んだ。
瘴気は雪が溶けるように静かに消え始める。
黒狼は苦しそうに吠え、その漆黒の身体から黒い霧が剥がれ落ちていく。
「な、なんという浄化の力だ……!」
神官たちは息を呑んだ。
そしてエドワードは、光に包まれた愛から目を離せなかった。
(美しい……)
その姿は、まるで天から舞い降りた希望そのものだった。
愛はただ一つだけ願っていた。
(誰も悲しまなくて済む世界になりますように)
その優しい祈りは、村だけでなく、人々の心まで温かく照らしていくのだった。
第五話 魔物も誰かの大切な命だった
眩い浄化の光が村を包み込む。
黒く染まっていた空気は少しずつ澄み渡り、草木には緑が戻り始めていた。
「瘴気が……消えていく」
村人たちは目を見開く。
しかし、その時だった。
「グルルル……」
巨大な黒狼は倒れることなく、その場で苦しそうにうずくまっていた。
先ほどまでの狂暴な眼差しは消え、金色の瞳には怯えの色が浮かんでいる。
「団長!」
副団長が剣を構える。
「今のうちに討ちましょう!」
騎士たちも一斉に剣を向ける。
だが、その前へ愛が静かに立った。
「待って」
「聖女様!?」
エドワードが驚く。
「危険です!」
黒狼は荒く息をしながらも、もう襲いかかってくる様子はない。
愛はゆっくりと近づいた。
「大丈夫」
優しく声をかける。
「もう苦しくないよ」
黒狼は震える身体を丸め、小さく鼻を鳴らした。
その姿は、恐ろしい魔物というより、傷ついた動物のようだった。
神官長が叫ぶ。
「聖女様! 魔物に情けは不要です!」
愛は静かに振り返る。
「本当に、この子は最初から魔物だったの?」
「え……?」
愛は黒狼へそっと手を伸ばした。
エドワードは止めようとしたが、その瞳を見て言葉を飲み込む。
その手が黒狼の額へ触れた瞬間――。
眩い光が溢れた。
愛の脳裏へ、一つの光景が流れ込む。
深い森。
元気に駆け回る一匹の白い狼。
子どもたちが木の実を分け与え、村人たちが「森の守り神」と呼んで優しく頭を撫でている。
だが、ある日。
黒い霧が森を覆った。
瘴気は白狼の身体を蝕み、理性を奪い、狂気へ変えてしまった。
最後に聞こえたのは、小さな少女の泣き声だった。
『ルナ……帰ってきて……』
愛は思わず涙をこぼす。
「そんな……」
目を開けると、黒狼は静かに愛を見つめていた。
その瞳には、もう敵意はない。
「この子は……」
愛はそっと黒狼の頭を撫でる。
「被害者だったのよ」
その言葉に、その場にいた誰もが息を呑んだ。
「瘴気に心を支配されていただけ」
エドワードはゆっくりと剣を納める。
「全員、剣を下ろせ」
「団長!?」
「聖女様を信じろ」
その一言だけだった。
騎士たちは顔を見合わせながらも、静かに剣を収めていく。
愛は黒狼へ微笑みかけた。
「もう頑張らなくていいよ」
温かな聖なる光が再び溢れ出す。
「《聖なる浄化》」
光が黒狼を優しく包み込む。
黒い毛並みは少しずつ白銀へ戻り、禍々しい瘴気は朝露のように消えていった。
やがて一匹の美しい白狼が姿を現す。
「ウォォン……」
白狼は静かに空へ向かって遠吠えをした。
その声は、まるで長い悪夢から解放された喜びを伝えているようだった。
村人の中から、一人の少女が走り出す。
「ルナ!」
白狼は少女の匂いを確かめるように鼻を寄せる。
少女は涙を流しながら抱きついた。
「帰ってきてくれた……!」
その姿を見て、村人たちからすすり泣きが広がる。
「聖女様……ありがとうございます」
「村の守り神まで救ってくださるなんて……」
愛は照れくさそうに笑った。
「私は少しお手伝いしただけよ。本当に頑張ったのは、この子です」
白狼は嬉しそうに尻尾を振る。
その光景を見つめるエドワードの胸は、今までにないほど温かくなっていた。
(この方は、誰かを倒すためではなく、誰かを救うために力を使う)
彼は愛へ歩み寄る。
「聖女様」
「はい?」
「今日は、本当にありがとうございました」
愛は少し首を傾げた。
「お礼を言うのは私の方よ。
皆が守ってくれたから、私は安心して祈ることができた」
エドワードは一瞬言葉を失う。
これまで数え切れないほどの戦場を駆けてきた。
しかし、自分たち騎士へ感謝を伝えてくれた聖女は初めてだった。
自然と笑みがこぼれる。
「……また一緒に、助けに行きましょう」
愛も穏やかに微笑んだ。
「はい。次は、お仕事の日じゃないと困りますけどね」
一瞬の静寂のあと、村中に笑い声が響いた。
戦いのあとに生まれたその笑顔は、瘴気では決して曇らせることのできない、希望の光となって村に広がっていくのだった。
第六話 おかえりなさいが待つ場所
リーベ村で一夜を明かした翌朝。
窓から差し込む柔らかな朝日で、愛はゆっくりと目を覚ました。
「……よく寝た」
久しぶりに、ぐっすり眠れた気がする。
日本にいた頃は、休日でも仕事のメールで起こされることが珍しくなかった。
だから目覚めた瞬間、「今日は何を怒られるんだろう」と考える癖がついていた。
けれど、この世界では違う。
窓の外から聞こえてくるのは、小鳥のさえずりと子どもたちの笑い声だった。
「おはようございます、聖女様!」
宿の主人が笑顔で声を掛ける。
「朝ご飯ができていますよ」
「ありがとうございます」
食堂へ向かうと、焼きたてのパンと温かなスープ、ふわふわの卵料理が並んでいた。
「昨日のお礼です」
「うわ、美味しそう、ありがとう」
「聖女様のおかげで、またみんなで朝ご飯を食べられるんです。お礼をいうのはこちらの方です」
その言葉に、愛は胸が熱くなった。
食事を終えると、村の広場では子どもたちが元気よく遊んでいた。
「あっ!」
一人の少女が駆け寄ってくる。
昨日、白狼ルナと再会した少女だった。
「聖女様!」
少女は両手いっぱいに花を抱えていた。
「これ、あげる!」
「私に?」
「うん!」
色とりどりの野花を束ねた、小さな花束だった。
「ありがとう」
愛が受け取ると、少女は満面の笑みを浮かべる。
「また遊びに来てね!」
「もちろん」
愛も笑顔で約束した。
その様子を少し離れた場所から見ていたエドワードは、小さく微笑む。
「団長」
副団長が肩を並べた。
「聖女様は、不思議な方ですね」
「ああ」
「普通なら、自分の功績を誇る場面です」
「なのに、誰とでも同じ目線で話している」
「聖女様!」
カフェの店員ミアが、小さな包みを持って走ってきた。
「これ……! 昨日焼いたクッキーです!
帰り道で食べてください」
「あっ、ありがとう。小腹が空いたらいただくね」
「はい、そうしてください!」
ミアは照れくさそうに笑う。
「今度お店へ来た時は、新作ケーキをごちそうしますね」
「楽しみにしているわ」
二人は笑顔で約束を交わした。
◇◇◇
昼過ぎ。
王都への帰路。
馬車の窓から見える景色を眺めながら、愛はぽつりと呟く。
「助かって、本当によかった」
その声を聞いたエドワードが微笑む。
「聖女様は、ご自身が疲れていることを忘れていませんか?」
「え?」
「昨日から休まず働いておられます」
「あ……」
言われて初めて気づいた。
愛は苦笑する。
「人のことばかり気にして、自分を後回しにする癖があるみたいね」
エドワードは真剣な表情で言った。
「それでは困ります。
聖女様が倒れたら、悲しむ人がたくさんいます」
愛は驚いて目を瞬かせた。
「だから」
エドワードは少し照れたように視線を逸らす。
「休む時は、私が責任を持って休ませます」
一瞬、愛は言葉を失った。
そして、くすっと笑う。
「騎士団長さん」
「はい」
「それ、命令かしら?」
「……お願いです」
その答えに、愛は思わず吹き出した。
「分かりました。
じゃあ、今度のお休みは一緒に街を歩きませんか?
美味しいケーキのお店があるんです」
エドワードの動きが止まる。
「……私と、ですか?」
「はい」
「お礼も兼ねて」
頬を少し赤くしたエドワードは、小さく頷いた。
「喜んで」
副団長は馬の上で思わず空を見上げる。
(団長が……休日の約束をした!?)
王都へ戻る頃には、その話は騎士団中に広まっていた。
「団長が休日を取るらしい!」
「奇跡だ!」
「聖女様、すごい……!」
一方、その頃の王宮。
王は報告書を読みながら満足そうに頷いていた。
「村は救われ、騎士にも負傷者は少ない。
しかも、聖女は魔物まで救ったか」
神官長は苦笑する。
「これまでの聖女とは、まるで違います。歴代の聖女様は……」
「だからこそ面白い」
王は笑みを浮かべた。
「この国は、少しずつ変わっていくのかもしれんな」
そして愛は、まだ知らない。
王都へ戻れば、新たな依頼だけでなく、王宮中を巻き込む【働き方改革】が始まろうとしていることを。
エピローグ 週休三日の聖女が変えた国
リーベ村を救ってから、一年。
王国はかつてないほど平和だった。
各地を覆っていた瘴気はほとんど消え、魔物の被害は激減。
街には笑顔があふれ、人々は「歴代最高の聖女」と口をそろえて愛を称えていた。
王宮の大会議室でも、大臣たちの興奮した声が響いている。
「今年の浄化成功率は歴代一位です!」
「病に倒れる者も大幅に減りました!」
「農作物の収穫量も過去最高です!」
王は満足そうにうなずいた。
「すべては聖女、愛のおかげだな」
その言葉に、神官長は複雑そうな表情を浮かべる。
しかし、王は静かに一冊の古びた帳簿を机へ置いた。
「これは何だか分かるか?」
「……歴代聖女の記録、でございます」
神官長が恐る恐るページをめくる。
そこには歴代聖女たちの記録が残されていた。
──二十二歳、過労により病没。
──二十五歳、浄化任務中に倒れ、そのまま帰らず。
──二十七歳、魔力枯渇。
一人、また一人。
聖女たちは皆、若くして命を落としていた。
神官長の顔色が、みるみる青ざめていく。
「ま……まさか……」
王は静かに問いかける。
「神官長。なぜ、このようなことになったと思う?」
「そ、それは……聖女の使命で……」
「違う」
王の一言が、会議室を静まり返らせた。
「使命ではない。働かせすぎたのだ」
神官長は息をのむ。
「お前たちは、『聖女なら休まず働くべきだ』『歴代の聖女様は……』と言い続けてきた」
「……っ」
「だが、愛は違った」
王は穏やかに微笑む。
「きちんと休み、笑い、美味しいものを食べ、人々と語り合った。
だからこそ、誰よりも大きな奇跡を起こせた。」
その時、騎士団長エドワードが一歩前へ出る。
「陛下。私も証言いたします。聖女様は休日の翌日ほど、浄化の光が強くなります。
無理をなさった日は、魔力も表情も曇ってしまわれました」
騎士たちも次々とうなずく。
「私たちも見ていました」
「休息こそが聖女様の力の源です」
神官長は言葉を失った。
今まで信じてきた常識が、音を立てて崩れていく。
王は立ち上がり、高らかに宣言した。
「本日をもって、新たな王国法を制定する」
大臣たちが姿勢を正す。
「聖女への不要な残業命令を禁止する。十分な休日を保障する」
「聖女だけでなく、騎士や神官も適切な休息を取ること」
会議室がざわめいた。
「こ、これは……!」
王は微笑む。
「休むことは怠けることではない。大切な人を守るために、自分を大切にすることだ」
神官長はゆっくりと頭を下げた。
「……私が、間違っておりました。歴代の聖女様方には、取り返しのつかないことを……」
その声は震えていた。
数日後。
王宮の庭園では、愛が紅茶を飲みながら焼きたてのスコーンを楽しんでいた。
「今日はいいお天気ですね」
隣にはエドワードが穏やかに微笑んでいる。
「ええ。今日は休日ですから」
愛はくすりと笑った。
「休日って、本当に幸せですね」
「はい」
「その笑顔を守ることが、私の一番大切な仕事です」
エドワードの優しい言葉に、愛は少し頬を赤くする。
庭園には穏やかな風が吹き抜け、花々が優しく揺れていた。
──無理をしなくても、人は誰かを幸せにできる。
そんな当たり前のことを、三十一歳の聖女が、この国に教えてくれたのだった。
【完】
おまけ もう、頑張りすぎなくていい
王都に春が訪れていた。
城の庭園では色とりどりの花が咲き誇り、心地よい風が吹き抜けている。
休日の午後。
愛は木陰のテーブルで、焼きたてのスコーンと紅茶を楽しんでいた。
「今日のアップルジャムも美味しいですね」
幸せそうに微笑む愛を見て、向かいに座るエドワードも自然と笑みを浮かべる。
「その笑顔を見ると、休日を作って良かったと思います」
「ふふっ、本当にありがとうございます」
二人の穏やかな時間を眺めながら、一人の女性が静かに姿を現した。
白銀の髪を揺らし、優しく微笑む美しい女神だった。
「女神様?」
愛は驚いて立ち上がる。
女神は穏やかに微笑んだ。
「愛。あなたはこの世界で、本当によく頑張りました」
「ありがとうございます」
「今日は、ご褒美をあげましょう」
女神がそっと指を鳴らす。
空中に、一枚の鏡が浮かび上がった。
「これは……?」
「あなたがいた世界です」
映し出されたのは、日本。
かつて愛が毎日終電まで働いていた会社だった。
しかし、その様子は以前とはまるで違っていた。
「人が足りません!」
「また三人辞めました!」
「今日の退職届は六人目です!」
社内は大混乱。
電話は鳴り止まず、書類は山積み。
愛が担当していた仕事を誰も引き継げず、現場は完全に回らなくなっていた。
「どうしてこんなことに……!」
社長が頭を抱える。
すると、一人の社員がため息をついた。
「佐藤さんが全部やってくれていたんですよ」
「仕事を押し付けても、文句ひとつ言わなかった」
「だから、みんな甘えていたんです」
その言葉に、社内は静まり返る。
さらに別の映像が映る。
いつも愛を怒鳴っていた上司だった。
「部長、今月から地方支店への異動です」
「え?」
「部下の大量退職の責任を取っていただきます」
「そ、そんな……!」
顔を真っ青にした上司は、その場に崩れ落ちた。
それでも会社は立て直せなかった。
「今年も赤字です」
「主要取引先との契約も打ち切られました」
「このままでは……」
映像は静かに途切れる。
愛はしばらく黙っていた。
「……怒らないのですか?」
女神が尋ねる。
愛は少し考えてから、小さく首を横に振った。
「いいえ。もう終わったこと。私には、今の幸せな暮らしがあります」
その言葉に、女神は優しく微笑んだ。
「あなたらしい答えですね」
その時だった。
「愛様」
エドワードがそっと手を差し伸べる。
「午後は街へ行きませんか? 新しいケーキのお店ができたそうです」
愛の瞳がぱっと輝いた。
「行きます!」
二人は並んで庭園を歩き始めた。
城下町では子どもたちが笑顔で駆け寄ってくる。
「聖女様!」
「こんにちは!」
「今日もお休み?」
「うん! 今日は休日なの」
愛が笑顔で答えると、子どもたちも楽しそうに笑った。
その光景を見守る王は、静かにつぶやく。
「無理をして働く者より、幸せに笑う者のほうが、多くの人を幸せにできるのだな」
愛はエドワードと顔を見合わせ、ふんわりと笑う。
「この世界へ来て、本当に良かった」
その笑顔は、かつて仕事に追われ、笑うことさえ忘れていた女性のものではなかった。
愛される人々に囲まれ、休日を楽しみ、美味しいお菓子を食べ、大切な人と未来を歩むのだった。
最後まで読んでいただき誠にありがとうございました。
感謝です。(*- -)(*_ _)ペコリ
山田 バルス




