7-3 揺れる境界
角笛の余韻が消えきらないうちに、前線の空気が変わった。
太郎はそれを、音ではなく「重さ」で感じた。さっきまで均されていた魔力の流れが、微妙に引っかかる。靴底に残る振動が、地面の奥でずれている。
「……来るぞ」
誰に向けた言葉でもない呟きだったが、イルスは即座に反応した。盾をわずかに傾け、線の前に立つ若手へ視線を送る。合図はない。だが、動きがそろう。
森の縁が歪んだ。
揺れではない。境界が、横に引き延ばされるように曲がる。空気が薄紙のようにめくれ、向こう側の色が一拍遅れて重なる。
「境界操作……人類側だ」
ミラの声は低く、速かった。
次の瞬間、歪みの内側から光が走る。直線ではない。弧を描き、途中で折れ、予測を裏切る軌道。結界粉が反応し、淡い格子が浮かび上がるが、完全には噛み合わない。
「止まって、見る!」
イルスの声が、再び前線を縫った。
若手の一人が踏み出しかけ、歯を食いしばって止まる。線の手前。膝が震えているが、越えない。
光弾が地面に突き刺さり、爆ぜた。
衝撃は小さい。だが、爆ぜた位置が悪い。線のすぐ外側。土と黒い硝子片が跳ね、視界が一瞬奪われる。
太郎は即座に荷車の位置を修正した。
半歩だけ前。線は越えない。魔石の出力を抑え、車輪の軸を安定させる。魔獣が低く鳴いたが、動かない。覚えさせた距離だ。
「境界が……ずれてる」
若手の声が震えた。
恐怖ではない。理解できないことへの戸惑いだ。
「ずれてるのは向こうだ」
ガルドが短く言い切った。
剣を構え、前へ出る。踏み込みは深くない。境界の歪みを跨がない距離で止まり、剣圧だけを叩きつける。
歪みが軋み、光が散る。
だが消えない。むしろ、ゆっくりと前へ滲んでくる。
「退却準備!」
太郎は叫ばなかった。
声を張らず、線の内側で動く。矢束を一箱、薬草包を一つ、決めた順で前へ。誰が取るか、誰が運ぶか。考えなくていい配置。
「合図待て!」
イルスが言う。
若手が頷く。足が動かない。線が、足を縛っている。
歪みの中心で、術者の影が見えた。
宝珠が回転し、境界を削るように魔力が流れ込む。人類側の魔法だ。空間を押し広げ、こちらの陣形を崩すための術。
「……線を越えさせる気だな」
太郎は歯を噛み締めた。
越えれば終わる。線は守る側の約束だ。越えた瞬間、それは逃走になる。
「退却!」
ガルドの号令が落ちる。
若手が一斉に下がる。線まで。止まる。越えない。歪みが目前まで迫るが、全員が同じ位置で止まることで、陣形は割れない。
歪みが、線に触れた。
触れた瞬間、境界がわずかに跳ね返る。線そのものに力があるわけじゃない。全員が同じ距離で止まった、その「揃い」が反発を生んだ。
ミラが即座に術を重ねる。
薄い膜が線の上に重なり、歪みを受け流す。
「今だ、押し返す!」
ガルドが一歩だけ踏み込む。
それ以上は出ない。崩させない重さだけを置く。
歪みが、引いた。
完全には消えないが、前進を止める。
太郎は息を吐いた。
胸の奥が焼けるように痛い。だが、立っている。荷車も、若手も、線の内側にいる。
「……効いてるな」
誰にともなく呟いた言葉は、戦場の音に消えた。
だが確かに、五分で作った形は、異世界の歪んだ境界にも踏み潰されていなかった。




