7-2 前哨地、再び
広場へ踏み入れた瞬間、太郎の肺は土と鉄と焼けた樹液の匂いで満たされた。
地面は斑に泡立ち、黒い硝子片のような艶を帯びている。広域殲滅の熱がまだ土中で呼吸している。ガルドの腕が上がり、第一小隊が扇に散る。
イルスは太郎の前へ滑り込み、盾の縁を撫でて膜を張った。
次の瞬間、斜め上から落ちた矢が膜に触れて火花を吐く。
膜は薄く震えたが、割れない。
木立の影から人類側の兵が飛び出す。
顔立ちは西洋の俳優めいて整い、髪や目の色は淡い。だが表情は見慣れたものだった。
生き延びようとする者の顔。怒号ではなく、息の詰まる声。
太郎は荷車の陰で身を縮め、箱の留め具に手を置く。魔石が脈動し、周囲の魔力の波に小刻みに応じている。
ここで動かせば列を裂く。動かさなければ、矢雨の下で詰まる。呼吸が浅くなる。
《火弧》が走った。
半月の炎が地面を刈り、湿った土が爆ぜる。
敵兵が跳ね退き、すかさず別の兵が杖先で地を叩く。白い粉が弾け、細く光る線が地表を這った。結界の魔法陣だ。
太郎の耳の奥で音が半拍遅れる。
視覚と聴覚が噛み合わない違和感に吐き気がせり上がる。
「止まって、見る!」
イルスの声が膜越しに澄んで響く。
若手が半歩下がり、線の前で膝を固める。ガルドは前へ出た。低く重い踏み込み。剣圧が空気を押し、人類兵を弾く。
押し返すのではない、崩させないための一撃。
太郎は荷車の先端を線の内側へわずかに寄せ、矢束の箱に触れた。順番、数、渡す手の先――考えることを減らすために、先に並べておく。
矢が木幹を割り、破片が雨のように散った。破片の一つが頬を擦り、冷たい痛みが遅れて届く。当たっていたら終わり、という理解だけが妙に速い。
太郎は息を押し込み、視界の端で牽引獣の背毛がさらに逆立つのを見た。森の向こうの魔力が増している。今日の前哨地は、昨日より難しい。
だからこそ、五分で入れた形が生きる。
線まで下がる。線から後ろへ勝手に下がらない。合図で止まって、見る。声を出す。遅れるなら言う。短い言葉が、爆ぜる音と同じくらい確かな道具になっていく。
敵の隊列の奥で、長杖の先端に多面体の宝珠を載せた術者が前傾になった。
空気が一拍だけ重くなる。
来る。
太郎は無意識に歯を食いしばり、荷車をわずかに後ろへ引いた。地面の下で、何かが息を吸うような気配。
直後、土が爆ぜ、黒い硝子片が雨になる。爆発は小さいが近い。
肺が縮み、耳が詰まる。
「退却!」
ガルドの号令は爆発音にかき消されず、線の上を走って隊の背骨を叩いた。若手が踵を返し、太郎は箱を押して半歩、もう半歩。線の手前で止まる。
越えない。
越えたくなる方向へ身体は行きたがる。
それでも、止まる。
人類兵の一人が転び、別の兵が引き上げた。
太郎は胸のどこかが少しだけ痛むのを感じ、すぐさま痛みを紙の裏へ押し込む。
今は見るだけ。
判断の余地がない速度で死ぬことがある
――その事実だけが、戦場の唯一の公平だ。
再び《火弧》。
続けて《風刃》。
炎と風が斜めに交差し、舞い上がった灰が小さな渦になって空へ捩じれる。灰渦に触れた結界粉が明滅し、視界の格子が歪む。
イルスが素早く位置を修正し、盾の縁で渦を割る。
割れた渦の向こうで、ガルドがひと息だけ長く立ち、敵の間合いを合わせてから肩で押し返した。
無理はしない。崩させない重さだけを置く。
太郎は矢束を前へ、薬草包を斜め後ろへ、水袋を足元に――順に置き替える。置く位置を変えるたび、戻る経路の像がわずかに変わる。
視界の端を走る光。耳の奥で遅れて届く破裂音。足裏の痺れ。角の微かな反響。あらゆる要素が同時に声を出し、同時に黙る。
だが、線は黙らない。
「ここまでは下がらない」という沈黙が、太郎の膝を見えない杭で地面へ繋ぐ。
矢羽が再び唸り、一本が荷車の縁に当たって弾けた。ミラの魔法が波紋を広げ、淡い光が車輪から車輪へ走る。魔石の脈動が早まったが、まだ許容の範囲内だ。
太郎は魔石への流し込みをさらに絞り、牽引獣には手を出さず視線だけで宥める。獣の耳がぴくりと動く。通じる。言葉より早く、意図が通じる。
遠くで角笛。人類側の増援の合図か、退却の合図か。判別はつかない。
今は、隊の背骨だけを見る。
線の内側で、太郎は息を整え、次の合図を待った。
待てる。待てるだけで、今日は昨日より生きている。




