6-ep 不穏な予兆
夜更けの砦は、昼の喧噪が嘘みたいに静かだった。石壁の隙間を抜ける風が冷たく、焚き火の赤がところどころの壁を舐めている。遠くでは治療班の灯りが揺れ、薬草の匂いが薄く漂っていた。
太郎は裏手の空き地にひとり残っていた。昼に踏み固められた土の上には、半円の縄の跡がまだ浅く残っている。足跡は線の手前で揃って止まり、そこから先は少しだけ土が荒れている。止まりきれずに越えた跡だ。けれど、越えた数は明らかに減っていた。
太郎は腰を落として、指でその境目をなぞった。土が乾いてざらつく。砦の外へ出れば、同じざらつきが空気に混ざっている。魔力が夜気に溶け切らず、霧みたいに残っている感触。ここに来てから、その「残り方」にも少しだけ慣れてきたのが怖かった。
縄の近くに、ミラが仕込んだ刻印札が一枚落ちていた。小さな木札に細い線が刻まれているだけなのに、指先で触れるとじんわり温い。魔力が薄く回っている。灯りのように明るいわけじゃない。目印になる程度の、鈍い熱だ。
(……こういうの、現世にはなかったな)
あってもゲームの演出だ。触れば温度が返ってくる札なんて、現実の道具じゃない。なのに、ここではそれが「線」を残す。生きて帰るための線だ。
背後で、草を踏む音がした。
太郎は反射で肩を強張らせ、振り返りかけて、思い直す。ここは砦の内側だ。今のは敵じゃない。そう思えるようになったことが、また少しだけ怖い。
「……まだ起きていたか」
ガルドの声だった。夜の冷気の中でも、言葉の輪郭が崩れない。鎧は外しているのに、立ち姿は昼と変わらない。疲れがないわけじゃない。目の奥の沈みは深い。それでも、崩れていない。
「図を確認してました。癖、残りやすいところがあるので」
太郎が土の荒れた部分を指で示すと、ガルドは一歩近づき、短く覗き込んだ。
「越えた数は減ってる」
「はい。まだ残ってるけど、減ってる」
ガルドはそれだけ言って、視線を空き地の先へ投げた。石壁の上、見張りの影。そこに立つ兵の輪郭が、時折、淡い光に縁取られて見える。見張りの魔道具が稼働しているのだろう。砦は眠っていない。
「明日も、同じ線を使う」
「刻印札、増やします? 見える目印が多いほど、揃いやすい」
「ミラに言ってある」
短い返事だったが、もう決まっている言い方だった。太郎は息を吐き、立ち上がる。足元の土がわずかに鳴る。昼ほどではない。けれど、その音さえ夜の静けさでは目立つ。
「……隊長。今日の話、上にはどう上げるんですか」
ガルドは少し間を置いた。焚き火の光が横顔に揺れて、額の古傷が一瞬だけ赤く浮く。
「事実だけ上げる。前線が崩れにくくなった。新兵が声を出せるようになった。退き方が整った」
「それ、俺の名前も……」
「出る」
即答だった。
太郎の喉が詰まる。名前が出るということは、目が向くということだ。望んでない。けれど、ここでは望む望まないで決まらない。昨日の出兵もそうだった。
「……まずいですね」
「まずい」
ガルドは同じ言葉を繰り返すように言って、空を見上げた。雲は薄い。星がちらついている。けれど、静かな夜でも、どこかで火がくすぶっている匂いがする。戦場は近い。
「だが、止めない。減らせる死は減らす」
その言い方が、太郎の胸の奥に重く落ちる。正しさじゃない。覚悟の重さだ。
ガルドが踵を返しかけた、そのとき。
砦の外、森のほうから、低い音が響いた。
遠雷ではない。獣の唸りとも違う。空気の芯が、短く震える感じ。魔力が空の下で「擦れた」ような、嫌な揺れ。
見張りの影が動いた。石壁の上から鋭い声が飛ぶ。
「光だ! 前方、森の縁――光の残滓、再燃!」
続けて、別の声。
「人類側の術式跡だ! 消えてない、まだ残ってる!」
焚き火がぱちんと弾け、火の粉が舞った。太郎は反射で一歩下がり、角が小さく揺れるのを感じた。風のせいか、身体の震えか、自分でも判別できない。
ガルドは即座に声を張った。短く、鋭い。
「起こせ。見張りを倍にしろ。補給は外に出すな、今夜は閉じろ」
命令は滑らかで、迷いがない。太郎はその背中を見て、背筋が冷たくなる。
人類側の術式跡。広域の魔法の残り香。昨日、燃えたはずの森の光が、まだ生きている。消えていない。再燃。そんな言葉が現実として飛び交う。
(……向こうも、こっちを見てる)
太郎の頭の中に、昼の線が浮かぶ。縄の半円。刻印札の温度。声に出す三つの言葉。あれが「整ってきた」と感じられるほど、戦いの形が変わっているなら――相手が気づかないはずがない。
ガルドが歩き出す前に、太郎を一瞥した。
「今夜は寝ろ。明日も五分だ」
それだけ言って、暗がりへ消える。
太郎はひとり、土に残った線の跡を見下ろした。たった半円。たった数枚の札。たった五分の言葉。
それが、戦場の形を少しでも変えるなら。
そして、変わった戦場は、必ず誰かに観測される。
太郎は、喉の奥に引っかかった息を静かに吐いた。
角が、もう一度だけ小さく揺れた。




