6-12 型が残る夜
夜。砦の中庭は焚き火が三つ焚かれ、火の粉が乾いた空へ上がっていた。治療班の灯りはまだ消えない。だが、今日は呻き声が少ない。少ないことが、逆に怖い。慣れるのが一番怖い。
ガルドは簡易の作戦卓の前に立ち、短い報告を終えた。卓の上には地図と、太郎が描いた線の図、そしてミラの刻印札が並んでいる。刻印札は手のひらほどの薄板で、魔力を流すと、線まで、止まって、見る、の三語だけが淡く浮かぶ。字が苦手な者でも、光る形で覚えられる。
「今日の損耗は抑えた。理由は明白だ」
ガルドは札を指で叩き、太郎を一瞥する。
「動きが揃った。戻り方が揃った。だから潰れなかった」
ミラが淡々と補足する。
「線の杭と護符が効きました。術式の余波で地面が焦げても、目印が残る。見失わなければ、人は勝手に逃げません」
ウルダは治療班の記録を開き、声を低くした。
「負傷者の受け渡しも早くなりました。迷う時間が減ると、血が止まる確率が上がります」
数字の話になると、皆の顔が真面目になる。命が数字に落ちるのが、この世界の現実だ。
太郎は口を開いた。声は大きくしない。大きくすると、軽くなる。
「続けるなら、名前をつけたほうがいいです。出撃前の五分、だと、忙しい日に削ります」
ガルドが眉を動かす。
「名前?」
「はい。短い名前。合図みたいに言えるやつ」
イルスが小さく言う。
「……五分の声でいいと思います。今日、俺それで動けました」
太郎は頷いた。
「じゃあ、五分の声。毎朝、出る前に必ず。言う役は交代できるように、三人は覚える」
ガルドが即答した。
「イルス、ミラ、ウルダ。覚えろ。明日から交代で言え」
ミラは無表情のまま頷き、ウルダは一度だけ息を飲んでから頷いた。逃げない。逃げないことが、もう教育になっている。
太郎は札の裏に、簡単な図も足した。丸が前線。半円が線。四角が荷車。矢の向き。退く向き。魔力を通すと、図の線だけが光るようミラが刻印を調整する。異世界の道具で、異世界の手順書を作っている。
卓の端で、ガルドが小さな水晶板に手を置いた。水晶板が薄く光り、文字が浮かぶ。前線への通達用の魔導具だ。
「明日から全小隊に適用。裏手の空き地を教練場とする。線の杭は前哨地にも追加。以上」
短い命令が、光の文字になって刻まれる。形になる。太郎は胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。熱いのに、嬉しいとは言えない。嬉しいと、明日死ぬ。
会合が終わり、皆が散る。太郎は焚き火の端で帳面を閉じ、頭の角に触れそうになって止めた。外せば、人類側に潜れる。だが外せば、今ここで引いた線が消える気がした。
焚き火がぱちんと弾け、火の粉が角の影を揺らす。
(俺は、まだ何も分かってない。だけど――)
分からないままでも、守れる命があるなら守る。それだけを握る。
中庭の外れで、新人が二十人ほど並ばされていた。今日の小競り合いを聞きつけ、補充として回されてきたらしい。顔色が青い。鎧の紐を結べていない者もいる。
太郎は一瞬、足が止まった。昨日までの自分に似ている。似ているから、放っておけない。
近くにいた下士官が言う。
「明朝、こいつらも前へ出す。数が足りん」
太郎は喉が乾くのを感じながら、短く言った。
「出すなら、今ここで一回だけ言わせてください。五分の声」
下士官が怪訝そうに眉を寄せたが、背後からガルドの声が落ちた。
「やれ。今が五分だ」
太郎は新人たちの前に立ち、言葉を削って落とした。
「線まで下がる。線の後ろへ勝手に下がらない。合図が聞こえたら、止まって、見る。遅れるなら、声を出す」
新人の喉が動く。誰かが真似をし、誰かが遅れて口を動かす。音が揃うと、震えが少しだけ形を変えた。
ミラが太郎の横で、小さな刻印札を一枚ずつ配った。掌に乗せると、札が微かに温かい。恐怖で冷えた指先に、その温度が残る。
「これは護符です。捨てないで。戻る場所を思い出させる」
ウルダが水袋を回し、喉を湿らせるよう促す。魔力を含んだ水は、口の中が一瞬だけ甘くなる。
太郎は最後に、杭の束を見せた。
「明日、これが光って見えます。見えたら、戻れます。見えたら、生きて帰れます」
言い終えてから、太郎は自分の頭の角が揺れないよう、そっと首を動かした。おもちゃの角でここに立っている自分が、滑稽で、同時に背筋が冷える。
ガルドは新人の列を一瞥し、短く告げた。
「今夜は寝ろ。明日は、本番だ」
遠くで、見張りの鐘が一つ鳴った。明日も戦う合図みたいに。
太郎は立ち上がり、杭の束を肩に担いだ。線を残す夜が、静かに続いていく。




