6-11 同じ言葉で戻る
翌朝。出撃前の空気は冷え、砦の石壁が息を吸っているみたいに湿っていた。前線からの伝令が駆け込み、短い報告だけ落としていく。森の縁で人類側が小隊規模で探りを入れている。前哨地を越える前に潰せ、という話だった。
整列の列の先で、イルスが立った。昨日より顔色が白い。だが視線は逃げない。太郎が作った短い言葉を、今はイルスが渡す番だ。
「線まで下がる。線の後ろへ勝手に下がらない。合図が聞こえたら、止まって、見る」
言葉が落ち、列が息を合わせる。誰かの喉が鳴り、誰かの手が槍を握り直す。恐怖が消えるわけじゃない。恐怖の上に、手順が乗る。
太郎は荷車の前に立ち、取っ手を握り直した。魔石は布で包み、衝撃で脈動しにくいよう木屑を噛ませてある。ミラが刻印で揺れ止めを入れてくれた。布の隙間から、青い脈が一瞬だけ見えて、すぐ消える。
前哨地の土は黒く、昨日置いた杭が薄く光っていた。霧はない。代わりに、焼けた匂いが残っている。胸の奥が勝手に縮む。
最初の矢は、合図より早かった。木立の間から飛んだ一本が、盾の縁を削る。火花が散り、鉄臭さが立つ。
「前へ!」
ガルドの声が落ち、隊が動く。足音は重いのに、散らばらない。杭の光点が視界の端に残り、今どこにいるかが分かる。
人類兵が影から現れた。髪色は淡く、顔立ちはどこか西洋の俳優みたいだ。だが、目の奥は普通の人間と同じで、必死に生きようとしている色だった。太郎は見てしまい、息が詰まる。見てしまった以上、もうただの“敵の駒”には戻れない。
魔法が走る。ミラの術式が地面に短い陣を刻み、炎の弧が低く滑った。土がえぐれ、湿った根が露出する。だが、広域ではない。前線を焼き払うほどの火力は出さない。近くに味方の荷車がある。近くに新人がいる。
人類側も術式を返してきた。白い光が一瞬、空気を薄くする。次の瞬間、石が砕ける音。土が跳ね、破片が太郎の頬を叩いた。痛みより先に、死ぬ映像が浮かぶ。
(当たってたら、終わりだ)
太郎は荷車の陰に身体を寄せ、叫びたいのを飲み込む。叫んだら列が崩れる。
「退却!」
ガルドの合図。ここだ。練習で何度もやった瞬間。
足が下がる。杭の光点を目で拾い、線の位置に体を合わせる。若手が一人、反射で後ろへ行きかけた。
「止まって、見る!」
イルスの声が刺さり、足が止まる。止まったことで、横の仲間が腕を掴める。掴めたことで、列が切れない。
矢がもう一本来る。木の幹を割り、破片が雨みたいに降る。ウルダが線の後ろでしゃがみ、負傷者の腕を引いた。止血布を噛ませ、水を口に当てる。手が震えているのに、動きは早い。訓練で位置を決めたから迷わない。
太郎は取っ手を押し込み、荷車を線の内側の円から出さない。前へ出たくなる。役に立ちたい。だが、今出たら、荷車が崩れ、補給が崩れ、全体が崩れる。自分の役目を飲み込む。
ガルドが前で踏ん張り線に立ち、数息だけ時間を稼いだ。剣がぶつかり、魔力が鎧を走る音が、耳の奥で鳴る。新人が見て、学ぶには残酷な光景。だが、ここが現実だ。
最後に、敵が引いた。引くときの列が乱れない。こちらも追わない。追えば形が崩れる。
太郎は息を吐いた。生きている。生きて戻れた。言葉と杭と線が、血の匂いの中で役に立った。
ガルドが振り返り、短く言う。
「続けるぞ。今日の動きを、明日も同じにする」
戻りの道すがら、杭の近くに置いた護符が一枚、熱で焦げていた。敵の術式が掠めた証拠だ。ミラが指で触れ、軽く舌打ちする。
「効いてますね。これがなかったら、線の位置が消えてました」
若手の一人が、息を切らしながら太郎に頭を下げた。
「さっき……線が見えたから、止まれました」
太郎は返事に詰まり、短く頷くだけにした。褒め言葉は軽いと嘘になる。代わりに、イルスが同じ言葉をもう一度だけ、低い声で言った。
「線まで下がる。止まって、見る」
それだけで、列の背中が少しだけ真っ直ぐになる。
太郎はそれを見て、喉の奥で静かに息を整えた。




