6-5 偽の矢
2026/1/25加筆修正
翌日。空き地の土は昨日より固く、踏みしめるたびに乾いた音が鳴った。砦の外で小競り合いがあったらしく、森から焦げた匂いが流れてくる。鼻の奥に残るその匂いが、訓練のはずの場所を戦場に寄せていた。
集まった若手の肩は上がり気味で、鎧の金具がやけに大きく鳴る。イルスは列の脇に立ち、目だけで人数を数えてから太郎に小さくうなずいた。太郎は縄の半円を一度踏み直し、足跡の線を目印にした。
ミラが石壁の影から小さな革袋を出す。口を結ぶ紐に、淡い刻印が走っている。
「訓練用。痛いけど、死なない。……ただし、油断すると転ぶ」
そう言いながら、ミラは袋の中の粉を指先でつまんだ。粉は空気に触れた瞬間、砂ではなく光の粒になって散り、風に逆らうように空中で形を保つ。次いで、粒が細い線へとつながった。
矢だ。矢の形をした光が、静かに弓を引く音もなく生まれる。
若手の息が一斉に止まるのが分かった。
ミラは上空へ指を弾く。光の矢が、ひゅ、と空気を裂いて飛んだ。風切り音ではない。薄い金属を撫でるような、冷たい音だ。
ぱちん。石に当たった瞬間、矢は弾けて白い煙になる。煙はすぐ消えるが、頬をかすめた熱がじわりと残る。太郎は反射で肩をすくめ、喉の奥がきゅっと縮んだ。
(……当たったら、痛いで済む。でも、身体は本物みたいに反応する)
ミラは淡々と続ける。
「命中させるつもりはない。だが、外したつもりで外す。だから、動きは本番と同じになる」
太郎は短く息を吸い、五分の言葉をそのまま投げた。昨日より短く、噛まない形で。
「線まで下がる。線から後ろへ勝手に下がらない。合図が聞こえたら、止まって、見る」
イルスが復唱する。
「止まって、見る。声を出せるなら、出す」
若手の一人が、唇を舐めた。別の一人は、剣の柄を握ったまま指先を震わせている。太郎はそれを見て、声の調子を変えずに言う。
「今の震えは普通です。震えたまま動けるようにする。だから、やり直す」
ミラの指がもう一度弾かれた。二本、三本。矢は同じ方向からではなく、少しずつ角度を変えて飛ぶ。光が走るたび、鎧の擦れる音が跳ね上がる。
「止まって、見る!」
太郎の声が先に出る。自分の心臓が暴れているのが分かる。口の中が乾き、舌が重い。それでも声は出た。声が出ると、足が止まる。止まると、見える。
最初の一回は崩れた。線より後ろへ半歩、二歩と下がる者が出る。反対側では、前に残りすぎた者が取り残されかける。
「ストップ」
太郎は怒鳴らない。手のひらを上げ、合図を切るだけで止めた。
「今、線を越えたのは誰だ。自分で言える人」
沈黙のあと、震える手が上がった。
「……俺です」
「いい。言えた。次は、越えそうになったら声を出す。『越えそう』でいい」
太郎は縄の半円を指し、足跡の深いところを示す。
「ここに戻ればいい。戻る場所が分かってるなら、逃げ方は揃う」
イルスが列を見回して補足する。
「勝手に下がると、前の人が背中を切られる。だから、線が命綱だ」
若手がうなずく。理解というより、恐怖で覚えていく顔だ。
ミラの矢が走る。今度は低い。足元をかすめる高さで、土の表面がぱちりと焦げた。数人が反射で跳ねたが、次の瞬間、誰かが声を出した。
「越えそう!」
その声につられて別の声が重なる。
「こっちも!」
声が出ると、列が揃う。揃うと、線の手前で止まれる人数が増える。太郎は胸の奥で小さく息を吐いた。
(……たったこれだけで、死ぬ確率が変わる)
休憩の合間、ミラが革袋の口を締め直しながら太郎に目だけ向けた。
「本物の矢と違う点が一つあります。光矢は、飛ぶ直前に空気が少し重くなる。感じ取れたら合格」
太郎は首を傾げたが、次の瞬間、確かに胸の前が押されるような違和感が来た。霧が一瞬だけ沈む。耳鳴りが強くなる。来る、と分かっても心臓は跳ねる。
矢が走る。若手の肩が跳ね、鎧の縁がぶつかる音が連鎖した。
太郎は声を切らさずに言う。
「来る前に、重くなる。重くなったら、足元を見る。線を見る。手元を見る。——それだけで一拍稼げる」
イルスが頷き、復唱する。
「重くなったら、線を見る」
若手たちが遅れて真似る。たった一拍。だが戦場では、その一拍が生死の差になる。
太郎は縄の光を見下ろし、次の合図を短く切った。
「もう一回。今のまま、やり直す」




