6-4 五分の声
2026/1/25加筆修正してます。
その日の午後、砦の裏の空き地に、もう一度隊員が集められた。
朝より人数が増えている。第一小隊の若手だけでなく、補給班の手伝いをする者、後方の雑務を担う者も混じっていた。鎧の質も揃っていない。革の胸当てだけの者もいれば、金属鎧に魔術刻印が入った者もいる。刻印のある鎧は、持ち主が息を整えるたび、青白い膜が薄く浮いては消えた。
石壁の影で、ミラが縄の刻印を確認していた。
縄に編み込まれた細い銀糸が、淡い光を帯びている。土に置くだけのはずの線が、風に揺らがず、そこに「残る」感じがあった。ミラが指先で紋をなぞると、光は一度だけ強く脈打ち、半円の輪郭がくっきりと浮かび上がる。
ざわめきの中、誰かが小声で言った。
「……あれ、踏むと怒られるやつだ」
すぐに別の誰かが否定する。
「怒られるのは前だ。ここは戻っていい」
その一言だけで、何人かの肩がほんの少し落ちた。
ガルドが前に出る。
「今日から、出撃前に五分取る」
それだけ言って、太郎を見る。
「やれ」
太郎は一瞬だけ喉を鳴らした。
前に立つ顔が、昨日の戦場の顔と重なって見える。余裕はない。だから短くする。短くして、同じ形で渡す。聞く側の頭が真っ白でも、口だけが勝手に動くように。
「じゃあ、五分だけ。覚えるのは三つです」
太郎は指を三本立てた。
「一つ。線まで下がる」
「二つ。線から後ろへは勝手に下がらない」
「三つ。合図が聞こえたら、止まって、見る」
若手が眉を寄せた。
「止まって、見る……?」
「走りたいときほど止まって見る。これが一番難しい。でも一番効きます」
太郎は縄を指した。
「線がある。目印がある。だから、逃げる前に一回だけ見る。自分が今どこにいるか。仲間がどこにいるか。荷車や負傷者がどこにいるか。見るのは一瞬でいい」
太郎が言い終える前に、遠くで金属が鳴った。誰かが鎧の留め具を落とした音だ。反射で数人の視線が跳ねる。
太郎は、その瞬間を逃さなかった。
「今みたいに。音がしたら、目だけで確認して、足は勝手に動かさない。足が動く前に、見る」
言い回しを、同じ順番で繰り返す。
「線まで下がる。線から後ろへ勝手に下がらない。合図が聞こえたら、止まって、見る」
風が吹くと、縄の輪郭がふわりと明るくなる。魔力の粒が銀糸に吸い寄せられるみたいに、光が線の上を流れた。線が、ただの縄じゃなく「決めた境目」だと、目に見える。
ガルドが短く言う。
「もう一回」
「線まで下がる。線から後ろへ勝手に下がらない。合図が聞こえたら、止まって、見る」
今度はイルスが、若手に視線を投げた。
「一緒に」
遅れて声が重なる。まだ揃わない。けれど、口が動いたぶんだけ、体が固まる時間が減るのが分かる。言葉が先に出ると、恐怖が後ろへ回る。
太郎は最後に一つだけ足した。足すが、増やしすぎない。
「怖いときは、声を出してください。声が出るなら、まだ自分がいます」
太郎は一度、間を置く。
「倒れそうなら『遅れる』って言っていい。黙って遅れるのが一番危ない」
補給班の若い男が、唇を噛んでうなずいた。手が震えているのに、拳を握り直しただけで済ませている。見栄が、命取りになるのを知っている顔だった。
ミラが、石壁の影から小さく補足する。
「この縄は、合図に反応します。退却の号令がかかったら、線の光が少し強くなる。見失わないようにね」
言葉尻は柔らかいが、内容は逃げ道を確保するための工夫だった。
太郎が一歩下がると、背中が汗ばんでいるのに気づいた。
昼の訓練じゃない。これから死ぬかもしれない人間に、言葉を渡す行為は重い。五分で、命の確率を少しだけ動かす。ここでは、それが冗談にならない。
ガルドが隊員たちを見回す。
「明日もやる。五分だ。覚えろ」
短い号令が終わりの合図になり、隊員たちが散っていった。
太郎は縄を見下ろし、喉の奥の乾きを飲み込んだ。
角が熱を持った気がして、触れそうになってやめる。今は、余計なことに意識を割きたくなかった。




