6-3 やり直しの場所
翌朝。太郎は砦の裏手に立っていた。
昨日ミラと一緒に見て回り、「ここなら使える」と目星をつけた空き地だ。
石壁の影で日が入りにくく、地面は乾いた土がむき出しになっている。
踏み固められた部分だけが浅く沈み、足裏に砂利が小さく鳴った。
砦の外――森のほうから、遠い鳴き声がひとつ。
風が流れるたび、空気に細かなざらつきが混じる。
夜の戦いの残り香みたいに、魔力がまだ消え切っていない。
太郎は肩をすくめて縄束をほどいた。
縄はただの縄じゃない。結び目のところに薄い刻印があり、触れるとほんのり温い。
ミラが「これ、訓練用の拘束縄。簡単な結界だけ入ってる」と言っていたやつだ。
(こっちの世界、ロープ一本でも油断ならん)
太郎は半円を描くように縄を置き、端を石に巻きつけて固定した。
置いたそばから、縄の輪郭がうっすらと淡く光る。霧の中で、線だけが浮いて見えた。
“ここまで”が、目で分かる。
背後で足音が止まる。
「太郎さん?」
振り返ると、イルスが数名の若い隊員を連れて立っていた。
鎧の留め具が合っていない者、手袋の向きを間違えている者、剣帯が腰でずれている者。
慣れていない感じが、音で分かる。
「第一小隊から、今日はこのメンバーが参加です」
「お、お世話になります!」
若い隊員たちが一斉に頭を下げた。緊張で声が少し裏返っている。
太郎は笑って空気をほぐすのをやめた。ここでは、笑いが命綱にならない。
「集まってくれてありがとう。太郎です」
“柔角族”は口にしない。
頭の角は勝手についているが、名札みたいに振り回すと場が硬くなるのは分かっていた。
「まず、ここ」
太郎は光る縄を指さした。
「この線を、今日の“線”にします」
視線が自然に集まる。
線の外側は何も変わらない土なのに、縄の淡い光が境界を勝手に作ってしまう。
「前線の少し手前。ここから先は、無理しちゃいけない場所」
一呼吸置いて、足元を軽く踏む。
「で、ここまでは――何度でもやり直していい場所です」
若い隊員のひとりが、思わず顔を上げた。
「やり直して……いいんですか?」
「いい。ここでは、いくら間違えてもいい」
太郎は言葉を短くした。長く説明すると、頭に残らない。
残ってほしいのは、線と合図だけだ。
「外に出たら一回きり。でもここは、やり直すための場所」
喉が少し乾く。
砦の外の森を思い出すだけで、背中に冷たい汗が浮く。
「今日やるのは、三つだけ」
太郎は指を三本立てた。
「一つ。合図がかかったら前へ出る。
二つ。退却の合図がかかったら、この線まで下がる。
三つ。線から後ろに勝手に下がらない。――まずはそれだけ」
イルスが小さくうなずいた。
「昨日みたいに、誰かだけ走ったら……後ろが崩れますから」
何人かが視線を落とした。
昨日の“崩れかけ”を思い出している顔だ。
「ここでは、間違っていいです」
太郎は、あえてもう一度言った。
縄の向こう側をつま先で軽く踏む。
「走りすぎてもいいし、下がりすぎてもいい。
その代わり、間違えたぶんだけ――ここでやり直します」
沈黙が、少しだけ柔らかくなる。
「じゃあ、やってみましょう」
太郎は手を叩いた。
「最初は歩くだけ。走らない。
合図を聞いて、前に出て、線まで下がる。これを繰り返します」
最初の隊列が縄の前に並ぶ。
鎧の擦れる音、金具の小さなぶつかり合い。
誰かの胸当てが脈動し、淡い膜が一瞬だけ揺らめいて消える。
「前へ」
イルスの合図で、一歩、二歩。
まだぎこちないが、列は保たれている。
「退却!」
太郎の声に、何人かが反射的に線よりずっと後ろまで下がった。
土がえぐれ、列が崩れる。
「ストップ」
太郎は怒鳴らない。声の高さだけを落とした。
「今の、自分で分かりますか?」
下がりすぎた隊員が苦笑しながら手を挙げる。
「……すみません。怖くなると、とにかく遠くに……」
「それで普通。ここでは、それでいい」
否定しない。
否定すると、次は隠れてやる。戦場で一番厄介なのは、隠れた癖だ。
「でも外だと、その“普通”が誰かの負担になる。
だから“つい”を、ここで何回も出しておく」
隊員たちの視線が、もう一度縄に落ちる。
縄の光が、まるで“戻れ”と言っているみたいだった。
「もう一つだけ考えてください」
太郎は線の向こうを見渡した。
「今みたいに後ろまで下がったとき、この線の前で踏ん張ってる人がいたら?」
短い沈黙のあと、イルスが答えた。
「……一番後ろの人だけ、守られずに潰れます」
「そうです」
太郎は足跡の列を目でなぞった。線の手前に深い窪み、後ろに散った乱れ。
「だから“ここまで”って線を、全員でそろえたい。
自分だけ別の線を引かないように」
下がりすぎた隊員がもう一度、手を挙げる。
「も、もう一回……やり直していいですか」
「もちろん。ここはそのための場所です」
そのあと、同じ動きを何度も繰り返した。
前へ出て、合図で下がり、線ぎりぎりで止まる。
わざと下がりすぎてもらい、どこに穴が空くかを皆で見る。
「今の動きだと、ここが空きます」
「反対側、遅れました」
「線、見えてると止まりやすいです……!」
イルスは横で短く補足し、若い隊員たちは少しずつ自分の言葉で報告するようになっていった。
太郎はそれを聞きながら、息を整える。
(……いい。やっと“作業”になってきた)
「最後に一回だけ、通しでやって終わりにします」
最後の隊列が並ぶ。
線の手前だけが少し窪み、縄の光がそこに沿って淡く揺れる。
「前へ」
一歩。二歩。足並みがそろう。
「退却!」
今度は誰も線の後ろへ下がらない。
縄のすぐ手前で、ほぼ同時に足が止まる。
太郎はしばらく、その光景を黙って見つめた。
「……はい、いいです。今日はここまで」
隊員たちの肩がいっせいに緩む。
鎧の金具の音が、さっきより軽い。
「どうでしたか」
太郎が尋ねると、一番手前の隊員が答えた。
「さっきより……怖くなかったです。
“ここまで下がればいい”って決まってると、頭が真っ白になりにくい」
太郎はうなずいた。
「それでいい。逃げるな、じゃなくて――どう下がれば生きて帰れるか。
そのための線です」
言葉を切ったとき、石壁の影から視線を感じた。
ミラとガルドが少し離れた場所で見ている。邪魔をしない距離。
「今日は、ありがとうございました!」
隊員たちが一斉に頭を下げる。
太郎も頭を下げ返した。
解散したあと、空き地には足跡だけが残る。
線の手前は深く踏み込まれ、そこだけ土の色が少し濃い。
太郎は縄を拾い上げ、刻印の結び目を指でなぞった。
ほんのり温い。
頭の角が、かすかに揺れた。
風か、安堵か、それとも――。
太郎は縄束を抱え直し、砦の中へ戻っていった。




