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婚約者に捨てられ、親友に裏切られた私ですが――どん底からのストーリー  作者: ワスレナ
第一章

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第9話 ドキドキの秘書業務と、真実を知った私

 目を開けると、白い天井と(わず)かな消毒液の匂いがあった。


 医務室のベッドの上だ。


 硬いマットレスとふかふかの布団の感触が、現実を突きつけてくる。


「……起きたか」


 低い声に顔を向けると、桐生さんが椅子に腰かけていた。


 無表情のまま腕と脚を組んでいる。


――ああ、そうだ。


 私は、初日の役員総会で気を失ったんだ。


「す、すみません……」


 私の声は情けなく(かす)れている。


――総会の初日で倒れる新人秘書。


 きっともう、ダメなレッテルが貼られてしまったに違いない。


 目を覚ました私に、桐生さんは深いため息をついて言った。


「大丈夫か……次は倒れるなよ」


「はい……あの人が会社の会長って知らなかったから……」


 その言葉を聞いた桐生さんの表情が、ほんの少しだけ変わった。


「ん? 一体どういうことだ?」


 私は、綾乃さんが苗字を名乗らずに秘書の面接を紹介してくれたことを説明した。


「……という事情があったんです。でも綾乃さん、確かに苗字は教えてくれてなくて……」


 桐生さんは(あご)に手を当て、何かに合点がいったように小さく(うなず)いた。


「ははーん、そういうことか。あのタヌキばばあらしいな」


 そう言って、今まで見たことのない笑みを浮かべた。


 不意に胸がドキッと跳ねる。


「どういう……、ことでしょうか?」


「ん? 知らなくてもいいことだ。一つだけ言うなら――あの人は君に何かを見出したってことだろうな」


「えっ?」


「苗字を隠したのは、会社のことも気づかせたくなかったからだと思う。……まあ、それがタヌキの所以(ゆえん)なんだけれどな」


「……は、はぁ」


 何だかよくわからない。


 でも彼の口調は、いつもの冷たい印象とは違って少し柔らかかった。


「体調が戻ったら帰る前に顔を出してくれよ。じゃあな」


 桐生さんが医務室を出て行こうとしたそのとき、私は小さく手を握りしめた。


「……あの、仕事、できます。午後から戻らせてください」


 桐生さんは振り返り、少しだけ目を細める。


「……そうか。無理すんなよ」


 それだけ言い残し、静かに扉が閉まった。



◇ ◇ ◇



 午後の秘書課のフロアは落ち着いた空気に包まれていた。


 自席に戻ると、周囲の視線が一斉に集まる。


――笑われる、怒られる……。


 そんな気持ちで身を縮めたが。


「いやー、初日から伝説つくったね」


 先輩社員の軽口に、周囲の空気が和む。


 そんな中、大原さんが笑顔で助け船を出してくれる。


「でも会長が『あの子は真面目そうだ』って言ってたよ。安心して」


 思わず(まぶた)をパチクリさせる。


 笑われているのに、不思議と温かさがある。


「……ありがとうございます」


「無理せず頑張ろうね」


 みんなから肩を軽く叩かれ、緊張でこわばった体が少しほぐれた……。



◇ ◇ ◇



 午後からは容赦なく仕事が降りかかる。


 電話の取り次ぎ、スケジュール調整、書類整理。


 矢継ぎ早に次々と業務が来る。


 だが、頭の中でいくつもの窓が開き、淡々と整理し手が動く私がいた。


「桐生さん、明日の会議は三時からで――」


「四時。修正しろ」


「かしこまりました!」


 コーヒーを一口飲んだ桐生さんが私に告げる。


「……砂糖、もう少し入れてもいいぞ」


(あれ? この前はブラックでって言ってたのに……)


「えっ!? あの、すみません!」


 私は出したものを下げ、手際よく調整して()れなおす。


「では、これではいかがでしょう?」


 ()れなおしたコーヒーを桐生さんが口に運ぶ。


「うん、合格だ」


「かしこまりました!」

 

(よし、この量覚えた!)


 表情は相変わらずだが、声色に苛立ちはない。


 むしろ、きちんと見てくれている気がした。


 夕方には、資料の順番を間違えて青ざめる私に、彼が一言。


「悪くない。急いでたらこうなる」


「も、申し訳ありません……」


 慰めか評価か、分からない。


 でも心の奥が少しだけ温かくなる。


 今日は三歩進んで二歩下がる私だった……。



◇ ◇ ◇



 桐生さんと駅前で別れたあと、私は忘れ物に気づき、会社へ取りに戻った。


 夜のオフィスは静かで、足音がやけに響く。


 エレベーターを降りたところで、ばったり綾乃会長と出会った。


「あら、有動さん。今日は遅くまでお疲れさまね」


「綾乃さ……、いえ、会長!!」


 思わず背筋が伸びる。


 綾乃さんは相変わらず優雅な微笑みを浮かべていた。


「ふふっ、今は綾乃さんでいいわよ。少し、時間あるかしら?」


「は、はい」


 促されて会長室に足を踏み入れると、上品な香りの紅茶がすでに用意されていた。


 意外と質素な机越しに座った彼女は、静かにカップを傾ける。


「医務室に運ばれたんですって? もう大丈夫なの?」


「はい。綾乃さんが会長だって知らなくて……。今日一びっくりしちゃって、倒れちゃったんです」


「それは大変なことを……ごめんなさいね」


「い、いえ。もう済んだことですし……」


 私は思いを口にした。


「でも、どうして黙っていたんですか?」


 綾乃さんは目を細め、紅茶を一口飲んでから答えた。


「名乗ってしまったら、あなたがここを受けてくれないかもしれないと思ったのよ」


「……」


「それに、命の恩人のあなたに変な気を遣わせたくなかったの。結果的に迷惑をかけてしまったわけだけどね」


「いえっ、そんな……私の方こそ、ありがとうございました! 直接お礼が言いたかったんです」


 私の言葉に綾乃さんがにこっと微笑む。


「そう、喜んでもらえてうれしいわ。これからもしっかり頑張ってね」


「はい!」


 私の返事に微笑みながら、綾乃さんは話を続けた。


「それと……今のあなた、いい顔をしているわね」


「え……」


「尚也も気にかけてるようだし、あなたには期待しているの。焦らず、でも歩みを止めずにね」


 優しい声なのに、その奥には何かを見透かすような力があった。


 言葉にできない安心感と、背筋が伸びるような緊張が入り混じる。


「は、はい……ありがとうございます」


「ふふ。今日はもう帰りなさい。風邪をひくわよ」


 深く一礼して部屋を出るとき、背後から視線を感じた気がした。


 まるで誰かに見守られているような、不思議な感覚――。



◇ ◇ ◇



 慣れない秘書の業務に、まだ怖さはある。


――けれど、もう逃げない。



 思えば、今日の私はちゃんと手も頭も動いていた。


 ただ、ミスも少なからずあったけれど……。


 初めての業種、初めての職種――それを考えれば、十分すぎる成果よね。



 色んなことがあった一日。


 でも桐生さんとの距離が、ほんの少し縮まったのを確かに感じていた。


 最初の出会いを思えば、それは大きな進歩。



 明日からも、また頑張ろう。


――綾乃さんがくださったこの場所(チャンス)に、心から感謝しながら。

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